さて次は、寝ているだけではもう飽きてきて、少し、ご飯も味をわかって食べられるようになってきたとき。
このときが、実はいちばん、頭のなかで自分を悪く評価しやすいのだろうと、私は思っている。
少しくらい回復したところで、状況はほとんど変わっておらず、また、変えることもできない。
「やっぱりこのまま、ダメなんじゃないか」という思いが、グルグルし始めるのである。
長い時間、起きているからそうなるのだけれど、だんだん逆に、眠りづらくなったりもしてくる。
それで昼夜逆転して、暗い情報を探して、あとで余計に落ち込んだり、ね。
とにかく、まだ脳は正常には働いてくれていないから、
どんなにいろいろ考えても、悪いことしか、結果的に浮かんでこない。
結論はほとんど「私はダメだ」の方向へつながっていく。
このころって、たぶんね。
複雑骨折しました、まったく動けない状態ではなくなり、松葉杖でトイレくらいの距離なら
行ってもいいけれど、それも限界がありますよ、くらいの感じなんだと思う。
でも、身体じゃなく心の傷ゆえに、この「トイレくらいなら」の距離が、自分でわからないのだ。
気づいたら、出刃包丁で傷口を突き回して血だらけにしてる。あるいはギブスを半分、たたき壊してる。
……治らないよね、っていうか、悪化するよね、逆に。ばい菌が入って、傷口を化膿させたり、
新たな症状を招いてしまったりもするだろう。
よっぽどのことがない限り、急激には、治らないのだ。ゴメン、そこはたぶん、どうしようもない。
劇的な変化の可能性が、ないわけではないだろうけど。
たとえば鬱の原因になった人と、本当に心から理解し合って話し合えて、素晴らしい状態で和解できたとか、
何か本当に、今後の自分と周囲の両方が大きく変わっていくくらいの、そういう出来事が起きない限り、
劇的な変化は起こせないだろうと思う。
一瞬そう思えても、反動であとからまたひどく落ち込んだり、右往左往も激しいことだろう。
右往左往するのだって、抜け出したいからだもの、本当は。
こんな自分のままでいるの、イヤだもの。
それはたぶん、当たり前の反応だろうとは思う。
でもね、でもね、でも!
せっかく芽生えた双葉を、「成長するの遅いよ!」と引っこ抜いても、それ以上、育たないよね。
悪いことしか思いつかないときに、わざわざ思考をグルグルさせるのは、たぶん、それと同じなのだ。
芽生えたものにきちんと水と栄養を与え、逆にやり過ぎることもないようにし、日の光に当てて。
あとは、育つのを待つしかないのだ。
芽生えたものに、与える栄養と水、光。これが、食べものと、「心地いいもの」だ。
おいしいご飯を食べないと、脳の働きが、よくなってはいかない。
カフェインの摂りすぎは、あとで落ち込みをもたらすし、身体を冷やすような水っぽい野菜は、
夏でもない限り、血の巡りを却って悪くする。トマト、ナス、キュウリなんかは、その代表格。
消化が悪いときに繊維の多い野菜を食べると、繊維質を砕くために胃のほうへ血流が巡り、
脳の血行が悪くなる。中国の人が「医食同源」と言ったのには、ちゃんと理由があるのだ。
なるべく栄養バランスを考えて、消化の良いものを中心に、少なめに食べる。
温かいものを摂って、身体を冷やさないようにする。
刺激の強いもの、甘いものは、なるべく控えめにする。
お酒も、あとで気持ちが落ち込むから、できればやめるか、少量に。
その状態から早く抜け出したいのなら、自分の脳を栄養面で助けてあげること。
そして心地よく感じるものを、罪悪感なしで楽しむ。
ゲームやテレビなど「自分のペースではなく、巻き込まれる」要素の部分が多いものは、
長時間味わうのは勧めない。「ムダな時間を過ごした」と、あとになって思いがちだからだ。
Web検索も少し、同じような傾向にあるものだと思う。
情報がありすぎてキリがないし、良いものも悪いものも混ざってるからだ。それなのに
どこかに答えが見つかりそうで、それを万が一、見落としてしまうのがイヤで、やめられなくなる。
気が向いたら味わえて、自分でいつでもストップできるもの。
音楽鑑賞(ロックは昂揚したあと、逆に落ち込みやすいかもしれない……)。読書。
落語などの、時間が短めのお笑い。自然系の美しいDVDや音源。悲しく&激しくない映画。
お寺などで座禅や瞑想をしたことがあるなら、それもまた「考える時間を減らす」ことにはなるかもしれない。
ただし慣れるまで、悪い結論の思考がグルグルしちゃうことはあるだろうから、無理はしない。
あとは、「遊び」として時間に関係なく、お風呂に入る。
物理的に身体を温めるのは、緊張した身体の力を抜くことができるので効果が高い。
湯冷めしないように気をつければ、サッパリした気分を持続できる。
湯あたりに気をつけつつ、ゆっくり、お湯につかろう。半身浴であれば、長時間でも負担が少ない。
もし散歩に出られるのであれば、天気のいい午前中か夕暮れ前、お日さまの光が
優しくて明るい時間帯に、近場へ(近いことは疲れないために大切)自然を味わいに出かける。
土、樹木、花、水の流れ、香り、風の感触、光、鳥の声、葉ずれの音。
アスファルトの道路沿いではなく、五感を使って感じることができる、なるべく静かな場所を歩いてみる。
あるいはそこで、ただぼんやりと、休憩してみる。
いろいろ考え出したら、(考え出すのだけれど、これがもう、ね)、とにかく単純にやめる。
考えることを、どこかに置き忘れる。出てくる答えは「絶対に正解ではない」ことを、肝に銘じる。
複雑骨折が決して一生続くわけではないのに、このころは「一生だ」としか、思えないから。
「気持ちいいな、心地いいな、気分がいいな」の時間を、できるだけ増やす。
……たぶんだけど。私の経験からの想像だけど。これって、あらゆる手段を使って、
自分が「人という生きもの」であること、自然の中のひとつの存在であることを、
全身で感じて、軽く楽しんでみること、なんだと思う。
笑うことも、感動して泣くことも、それを心に優しい形で感じられる方法だと思える。
とにかく心地よく楽しめることが、この時期には、一番一番、大切なのだと。
この間に、もし家族から責められても、「もう少し待って」と心からわびて、あとは、ゴメン、放置しよう。
それでいい。ただ単純に、脇によけてしまうこと。自分の感覚を、自分が一番、大事にしてあげよう。
責められ続けてつらい状態になったら、病院などで話して、他の人から説得してもらおう。
複雑骨折を「いつ治るのよ!」と責められても、治癒は早くはならない。逆に悪化させるだろう。
芽が出ても、そこに毒をまくようなものだ。
キリがないなら、逃げ出してしまうくらいでいい。責任はいつか、あとからまとめてフォローすればいい。
フォローは必ずできる。ただし今は脳が正常じゃない。まともにちゃんと、できるはずがない。
そして脳が一番正常でないのは、まさに今、この時期なのだ。
それはもう、本当に「骨折に向かって」責めるようなものだ。骨が弱ければ、治ってから鍛えていけばいい。
今は、脳にいろいろな栄養素を届け、心地よさを感じる時間を増やすことだけを、考えよう。
考えるのは、そこだけでいいのだ。
あと、何度も言うが、涙もまた心を楽にするので、絶対に我慢しないで、飽きるまで泣くこと。
これらはすべて、治療行為である。
意識しないと、上手に長くは続けられない。難しいのは、十分、わかっている。
でも、それでも、ぜひやってほしい。これは絶対に絶対に、「逃げ」ではなく、
私の感覚で言えば「治癒への最短距離の疾走」でさえある。
明日以降も脱却について、もう少し話を続けてみようと思う。