マイナス思考からの脱却(4)

昨日のブログでは、考え方の部分について、長々と説明をした。

なので今日は、私が、何を探ってどう感じていったかを、経験談として綴ろうと思う。

すべての人に当てはまるとは限らないけれど、参考になれば幸いである。

まず、まだ私が死にたかった時期、自死に関する裏掲示板(規制がなく、仲間募集も、非難も援護も

飛び交っていた)をうろついていたとき。

さまざまな会話のなかで1人だけ、やけに穏やかに話しかけている男性がいた。

悩んでいる相談者に話しかける人は何人かいたが、たいていの人は、どこかいびつな発言をしていて、

同じように境をさまよってるような、ちょっと、偏っている感じがあった。

しかしその人だけは少し違っていて、ひたすら受け止め、でも深くまでは踏み込まず、

側にたたずんでいるような状態。静かで、優しくて、不思議な人だな……と思っていた。

その後、自死をやめ、生き方を模索するようになったとき。

死にたかったときに掲示板で少しだけ会話した人が、相談者の雑談用HPも別に開いていらっしゃったので、

久しぶりにそのHPへ行ってみた。

そうしたら、その「穏やかな人」がついに亡くなられたね、という会話が載っていた。

そのときに初めて知ったのだが、なんとその彼は生前、救急救命の仕事をしていて、

その後、ガンにおかされ、闘病しながら、あの話しかけをされていたのだ。

どうやら死の間際まで、それは続いていたらしい。

この事実には、頭を殴られる思いがした。

人はいったい、どこまで優しく、強くなれるのだろう。

使命を持って救命をされていた人が、自身の余命がもういくばくもないとわかってからも、それを続けた。

彼は生きたかったはずだ。彼自身は、死にたくはなかったはずだ。

死にたいとつぶやく人に対して「馬鹿ヤロウ!」と、ののしることもできたはずだ。

なのに一切、それをしなかった。最後まで、優しく寄り添っていた。

どんな状況にあっても、どんな事態が起こっても、人は、自分の生き方を自分で決めて、

それを最後までまっとうすることができる。たとえ、真逆の立場になってでさえも。

しかもそれは彼の場合、徹底的に「人の命を助けること」だった……。

私はそのとき再休職中だったので、「もう、これは少しずつでも、働いていこう。

そんな人の語りかけを、読んでいたのだから。

直接は話さなかったけど、そんな人に支えてもらっていたのだから」と、自然に思えた。

そんな人も、世の中にはいるのだ。私も、「弱い状態」を強さや優しさに変えられるようになっていきたい。

弱いのなら、弱いことそのものを大事にして、活かしていける人になろう、と思えた。

それ以外に私の場合、たくさんたくさん、本を読んだ。

最初は哲学系、次に宗教系、さらには社会学、民俗学、生物、地学、物理学、科学、文学 etc.……。

もう、ジャンルは何だってよかった。絵本も小説もノンフィクションも読んだな、そう言えば。

自分の心にハッとするような感じで言葉が届いて、「そうか、それでいいんだ」とか、

「そう考えればいいんだ!」 と、ひとつでも気づければ、それでOKだった。

まさにドンピシャな気づきもあったし、軽い気づきがたくさん集まって、

だんだん沁みこんでいく感じがする場合もあった。

哲学は、最初はどうあれ、途中から「生きていること」が当然の前提になっていくように思え、

その立場で「人」を探っていく学問なんだと感じられた。

だから今の私にはちょっと違うな、と思って、途中でやめた。

宗教系は、まず最初にその「考え方」を知りたかった。

なんせ「人が生きること、死ぬこと」を専門にしているのだ。それをどう捉え、どう説明しているのか。

さらには「信仰」いう気持ちが、どこから生まれ、なぜそれが組織にもなり得るのだろう、とも思った。

のめり込みたくはなかったから、防衛のためにも、先にそういう情報を探した。

仏教、キリスト教、イスラム教、神道、ヒンズー教、その他アラブやチベット、

ネイティブ・アメリカン、ケルト民族などの土着系の信仰、

それらの成り立ちだけでなく、さらには「宗教」というものの、そもそもの成立の部分まで、本を探して読んだ。

世界に散らばるほとんどの信仰は、最初に「母性系・自然と一体型・その中で生かされている、

人間という一種の“生きもの”が自分たち」というところから始まったらしい。

狩猟・採集のくらしをしていたのだから、自然が「母なる存在」であり、そこから恵みをいただいている、

という思いに至るのも、当然だろうと思う。

それがやがて、「栽培」と「保存」による食料の確保、保存するための住居の定着、

人々が集まることによる、くらしのルールづくり、指導者の登場……となって、

信仰は「人を指導するためのもの」に変わっていく。さらには「人を支配するもの」と結びつき、

その頃になって、キリスト教やイスラム教、仏教などが現れていく……という流れだったらしい。

中沢新一氏の「カイエ・ソバージュ」というシリーズが、この辺をわかりやすく説明してあったのだが、

信仰の対象が「熊から王へ」変わっていった辺りのくだりは、面白かった。

自然を畏れ敬う気持ちが、「王は“熊の力”を得た」と喧伝することによって、

人の権力へと変わっていった……という話。

そうやって信仰が権力と結びついたからこそ、組織化が必要になったし、それはやがて、

隣国との争いに使われていったのだ。

単純な「信仰」としての教えは、別に、どの宗教であっても学べる部分はあって、

ある種の道徳・倫理感を、自発的にもたらしてくれるのに、「こうしないとこうなりますよ」的な

方向付け、というかある種のコントロールが加わってしまったがために、おかしくなってくるのだ。

いや、じゃあ、私は「信仰」レベルでとどめておけばいいじゃない。

そこから自分に響くものだけ、拾っていけば。

そんなふうに思えて、いろいろな教えや、説法のようなものもどんどん読んでいった。

また、そのころからNHKの「心の時間」など
も録画して見始めた。

面白かったのは「たまたま気が向いて録画した」ものに、必ずガツンと響いてくるものがあった、ということ。

私の場合、仏教系のお坊さん、尼さんの話である場合が多かった。

宗教の本や番組は、単なる倫理・道徳だけじゃなく、「人はどこまで自由であっていいか」を教えてくれた。

他人を自分たちと比較して貶めること(聖戦とか、選民意識とか)は、「こういう解釈によってある宗派が、

支配のために、都合よく教えただけなんだな」とか、そういうこともだんだん具体的にわかった。

争い、囲い込みのために信仰があるのではなく、信仰が「宗教組織」のために一部、

本当に上手く利用されてきたのだ。

本来、その教えは「自分たちさえよければ」という意味合いを、やはり含んではいないと思える。

それを信仰することで、自分がその社会で生きやすくなる(人に迷惑をかけないとか人を敬う、などの

気持ちが自然に生まれる)ためのものなのだ。

たとえば、日本で、鈴木秀子さんというシスターが最初に広めてくださった

アラブのスーフィー教の教えなんて、すごく面白い。

彼女は、人間の性格の傾向を大きく9つに分ける「エニアグラム」について本を書かれていて、

私がそれで自分の性格を分析してみると(占いではなく人間学なのだ)、「成功を追い求める者」になった。

解説を読むと、思い当たる節が山ほどある。うわあ、確かにこれが、私の性格で一番大きい要素だ、と思えた。

面白かったのは、「成功を追い求める人」を、長老たちがどう指導するか、の話。

よいところを伸ばし、でもそれが行きすぎないようにもするため、9つそれぞれに修行をさせるらしいのだが、

「成功を追い求める者」の場合は、「引っこ抜き、わざわざ根っこを上にして地面に埋め直した木に、

2年間、毎日水をやる」のだそうだ。

すごいよね。その木は絶対に成長しないし、絶対に何も生み出さない。

ムダなのが明確であることを、2年間、毎日、「それがおまえの仕事」と言われてやり続ける。

成功を追い求めてしまう、つい結果を求めてしまう心の「はやり」を抑えて、

そこから別の何かをつかみとらせるのだ。私なら、どう感じるだろう。

ほかにも例を挙げれば、仏教にも2種類あって、チベット、スリランカ、タイなど

「自分が出家して自分で探求する」ものと、日本のように「他の人・民まで救う」ものがある。

それぞれにたくさん学べるものがあるし、座禅も、その必要性などの理由がわかるとやってみたくなった。

キリスト教の「隣人を愛する」教えも、探っていくとすごく奥が深い。

あと、これは「宗教」ではないけど、日本の八百万(やおよろず)の神や、お地蔵さん・道祖神の存在は

「見守られている」感覚を与えてくれているんだな、とか、

スピリチュアルと呼ばれるものは、いろいろな宗教から「信仰」のよい部分を取り出して、

少し、神さまのような存在や霊的な話や、来世の話を「実在する」と加えた、東洋+西洋なんだな、とか。

そう、スピリチュアルだって人によって説明の仕方はいろいろあるだろうけど、宗教的な側面から

みたら、今の日本人に馴染みやすいのは仏教・神道・インド系の東洋的な教えの要素に

キリスト教的な要素が上手に加わっていて、しかも「信仰」の範囲内にとどまっているからだと思う。

そういう意味では、ヘンな組織的規制がなくて自由度も高く、信仰の内容そのものを自分なりに考える、

自分になじませるきっかけには、なりやすいように思えた。

ま、なかには教祖様的に振る舞って、ウソをついてお金稼ぎしている人もいるらしいけど、

私は幸い、そう感じるものには巡り会ってない、というか、怪しすぎと感じるものは読んでいない。

霊とかエネルギーとかも、見えないけど、存在は100%は否定できない、くらいの感覚である。

日本では、霊的能力の話で言えば昔から「イタコさん」などの存在もあったしね。

絶対! ではなく、軽くなら、神や霊は「あり得るかも」と捉えられる土壌は、あったのだと思う。

長々と宗教の話を続けているけれど、そういう視点で見直してみると、私は学べることは多かった。

説教臭いものは外していいし、信じられない部分は信じなくていいと思う。

でも、そうやって減らしても、自分が少し楽になれるもの、「そうか」と思える考え方は、結構あった。

教祖に従う必要もなければ、組織に属して「会員」(と、わざと言ってみる)を増やす手伝いも

しなくていい。「おばあちゃんの知恵袋」的に、自分がよいと思える部分だけ、見つければいいのだと思う。

この「知恵袋」の内容は、羅列しても長くなるだけなので割愛する。それは私個人の解釈だと思えるし、

そういうふうに捉えていいのか、などと、別の疑問を感じると、せっかくの機会を失ってしまいかねない。

自分も知ってみたいと思う人は、ぜひ、本屋や図書館で、巡り会ってつかんでほしい。

それこそ、学ぶ部分があったときに、偶然とかご縁の不思議さ、ありがたさを感じられるだろうしね。

逆に、「組織」「団体」というものがなんかイメージ的にイヤで、これまでその中身を知らなかったのは、

宗教という分野の弊害だよなあ、とも感じる。せっかくの機会だから少し、触れてもらえたらと思う。

また長くなったので、社会学以降は明日に……。

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