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誰かのせいで。

昨日、書いたブログの中で、書ききれなかったことがある。

とくに「悪意ではない」相手の言動で、あなたが心に傷を負っている場合に、

もしかしてそれは「そのときのあなたが、相手の言葉をそう受け止めたから、傷ついた」

ということも十分ありうる、という話だ。

厳しいことを言っていると思われるかもしれないが、私の例で、話を続けてみる。

私は昔、大病を患った彼を、支えきれなくて別れた。

現在、まだ彼は戦っている(幸いにも戦ってくれている)ので、

彼のプライバシーのためにも詳細は書かない。

いろいろなことが間に起こって、別れる方向へ流れが進み始めたころのこと。

彼は当時、私に対して一度も「見捨てるのか」という言葉は使わなかった。

でも、目で、手の仕草で、表情で、それを訴えてきたことは何度もあった。

そのときの自分の非道さ、心の痛み。

これほど大好きな人なのに、今はもうこれ以上、支えきれないという苦しさ。

数々の暴言も含みつつ訴えられたときは、本当につらかった。

しかもその暴言が「死への恐怖」からで出たものであったことを、私は知っていたから。

それでも、途中で、ハッと思ったのだ。

これ以上一緒にいたら、私は、「私がいる」という事実そのもので、彼の心を滅ぼしてしまうだろう、と。

そして私も彼という存在が、「ただ、そこにいる」だけで傷つくようになるだろう、と。

実際、そのときには、もうすでにそんな状況にはなりかけていた。

いろいろ辛すぎて、半分、おかしくなっていたのだろうと思う。

そのことをある日、お互いが冷静だったときに、彼に伝えた。

彼は、私が傷ついていることを、そのときには十分、理解してくれていたので、

黙って了解してくれた。逆上しないでくれたのは、幸いだったと思う。

一緒にいると、一緒に滅んでしまう。

逆説的に見れば、恋愛悲話のように美しい。

でもあのままでは「お互い」しかなくなって、本当に狂ってしまっていただろう。

数年後、彼は言ってくれた。

「あのとき、言い出してくれて本当によかった。

離れられたから、病気の中であっても、俺はこうして生きていられる。

あのままだと依存しすぎて、壊れてしまったと思う。突き放してくれて、よかった」と。

今は、本当にたまに、短い体調報告メールがそっと届いて、それを「よかったね」などと返せる間柄だ。

私もあれでよかったのだと思えている。まだ、会いたくはないけれど。

強制的に、物理的にも心理的にも距離を置いたことで、お互いが救われた。

でもね。

「今ならあんなふうには、私、受け止めなかっただろうな」と思えることが、たくさん、たくさんあるのは事実。

自分もちょっとおかしかったから、どんどん曲解してたし、そのせいでまた、どんどんゆがんでいった。

最後のほうで気づいて、冷静になっていけたけど、それでもさっき言ったように

「ここで相手を見捨てるのは、人としてどうよ」という気持ちがあって、なかなか別れを言い出せなかった。

悪いな、と思う、その罪悪感から相手と一緒にいることが、その人にとっていいはずはなかったのに。

その後、鬱になって心理学の本で読んで知ったことだが、

これって、家族や恋人などとの間で起こりやすい「共依存」という関係性なのだそうだ。

これにはまると、その人がいることが自分の存在理由になってしまうため、

結果としてさまざまな不幸をもたらす。

私は、そこまで行く前にその関係をやめられて、相手にも理解してもらえて、幸運だったのだと思った。

とくに支えるほうの側は、自分が依存していることに気づけないことが多いそうだから。

どんなに辛いことが起こっても「じゃあ私は今、がんばって我慢する」と、

そう、自分で勝手に、受け止めて納得してしまうらしいから。

長々と説明したけれど、だから私はその後、人との関係で何かトラブルが起こったとき、

真っ先に「相手のせいで」とは、思えなくなった。

自分が知らず知らずの間に、相手の言葉を自分の都合で受け止め、曲解しうる人間であると

思い知ったから。

何か起こったときに「これは、この人は今、どういう理由からこういう発言をしているのだろう」と

少し離れて、考えるようになった。結果としてはそういう習慣も身につけられて、よかったのだと思う。

だから愛する人が、自分の元を去っていった人に、伝えたい。

相手は、これ以上一緒にいると、あなたも自分もダメになる、と、

言葉にはしなくてもどこかで何か感じて、あなたのためにも、

そして自分のためにも、去っていったかもしれない。

それは、相手が自分のことを思いやってくれたゆえ、なのだ。

今はわからなくても、そういうことは、ありえるかもしれない。

事情も、状況も、人によって違うだろうけれど。

そして、人の言動で自分が傷ついたとき、相手の本心がどこにあって、なぜその言動に至ったのかを

冷静に見てみることは、きっと、あなたの役に立つはずだ。

いつか、目線を変えられるようになったときに、

そんなふうにも見直してみてもらえたら、幸いに思う。

言葉に傷つくとき

他の人から、傷つく言葉を投げかけられた経験は、

心が痛んでいる人なら必ずひとつは持っているだろう。

それが原因で余計に落ち込んでしまったり、怒りを感じたりもしたことと思う。

本当に腹が立った場合や悲しくなったときには、

改めてその言葉を思い出し、また傷を深くすることもあるかもしれない。

直接的な悪口、たとえば「ののしり」のようなものであれば、

言った相手があきらかに悪意を持っていることは、こちらにも伝わってくる。

だから言われたときは、腹が立つと同時に「どうしてそんなことを」と思うだろう。

そしてあとから「自分に非があったのか」などとさえ思い始め、つらい気持ちになる。

しかし心理学などの本を読むと、そうした「悪口」についてはこのように説明されている。

「相手は、自分自身が何かを抱えているがゆえに、それを人にぶつけてくる」と。

その一番わかりやすい例は、八つ当たりである。

自分が何らかの理由でイライラしていて、それを自分で解消できないがゆえに、

人にきつくあたることで別の感情を得て、一瞬、忘れようとする。

悪意を見せるのは、怒りがあるときに思わずものを殴ったり、投げたりするのと同じ、

ある種の破壊行動によって、相手が自分の問題を解消しようとしているのである。

ほかに、あなたに対する嫉妬だったり、自分のペースに合わないことへの

苛立ちなどもあるかもしれない。

そうした黒い感情から、イヤミな言葉を投げかけてくることもあるだろう。

こういう場合はもう、放っておくか、忘れてしまおう。

以前に書いた「黒い人」のところでも話したが、その黒い感情は相手側の問題であり、

実は自分とは関係がない。指摘されて「悪かったな」と思う部分だけ、反省すればいい。

その人は、誰かを征服する、あるいは傷つける、あるいは揚げ足をとるように人のせいにすることで、

自身の問題を、一瞬、忘れようとしているだけなのである。

そんなことに、こちらはかまっていられない状態なのだし、単純にかまう「必要」もない。

「ああ、あなたも何だか大変なのだね」と思って、本当はそれでおしまいにすればいいのだ。

その瞬間にはそう思えなくても、後からそう思いなおすことはできる。

今はとくに自分がつらい時期なのだから、少しずつでも、何度でも、相手の問題を自分から切り離していこう。

切り離そうとこだわるのではなく、そのうち忘れてしまうくらいのつもりで、丁寧に距離を置いていくのだ。

もうひとつ、相手が自分のことを別に嫌ってはいなかったときに、

それでも的外れな指摘をされ、結果的に傷つくこともあるだろう。

これは、その人があなたの気持ちや状況を把握しきれず、勘違いしたことや、

たまたま「その問題に対処するのが得意」だった場合などに起こったりする。

本人はアドバイスのつもりだったり、「大したことがない」と捉えられるわけである。

これはもう、ある意味、仕方ない。あなたとその人は、違う人間なのだ。

その人の感覚・対処方法と、自分のものとが違うのだから、

そこにズレが生じることはあるだろう。

ただ、だからと言って、相手に怒りや苛立ちを感じる必要は、本当はないのだ。

「そうか、そこは考え方が違うのか」。冷静に考えれば、これでおしまいでいい。

なのに自分の気持ちを理解してもらえないと苛立ったり、悲しくなったりするとき、

実はあなたにも最初から「相手に頼って、助けてもらおうとしていた」という部分がある。

単純なたとえで言えば、子どもがおもちゃをねだり、ほしいおもちゃ以外とは別のものを渡されて

「違う、それじゃない!」と思わず叫んだりするのと、同じパターンである。

相手には、相手の価値観がある。過去に自分とは別の経験があり、性格の違いもある。

だからこそこちらも、自分と違う考え方、捉え方を知りたくて、頼るのだ。

そのこと自体が間違っているわけではない。

ただ、たまたまその結果、相手から理解が得られなかったとすれば、

それは別に、傷つくことでも、苛立つことでもないはずなのだ。

怒りや悲しみなどを感じる原因は「どうしてそんな的外れな」「どうしてわかってくれないの!」という、

あなた自身の受け止め方にある。

相手に、悪意はない。求めていた言葉が得られなかったとしても、それはそれで仕方ない。

相手は素晴らしいプロカウンセラーではないし、逆にあなたのことを心配し、

気遣ってくれていることも多いだろう。

それをもう、余計なお世話だとさえ思うかもしれない。

でももし、逆の立場になったら、あなたは確実に相手が求めている言葉で、

毎回、必ず相手の望んだ通りの対処ができるだろうか。

たとえプロでも、受け取る側に「的外れ」だと思わせてしまうことがある。

実はかなり難しいことだし、自分の意に沿えばお互い「幸運だった」くらいに思っていいのだ。

だから、傷ついたり、怒ったりする必要はないし、その人と意見が違うからと言って

逆に、自分をダメだと非難する必要もない。

今は自分の気持ちが暗いがゆえに、その意見に納得できないだけ、という場合もある。

自分の状態によっても、受け止め方は大きく変わってくるのだ。

実際、理解が得られないと、その瞬間は悲しくなるだろう。苛立ったり、悔しくなったりもするだろう。

でもそれを他人のせいにしたところで、今度は、

先に書いた「自分に問題がある場合の八つ当たり」と同じである。

冷静に、「そういうこともある」と、ただ単純に受け止めよう。今はそれでいい。

あとになって、誰かから言われた言葉で何か、ハッと気づけることも、あるかもしれないのだ

だから今は、相手がこちらを気遣ってくれた、その気持ちにだけ感謝して、おしまいにしよう。

一見、当たり前のようなことを書いているが、傷ついてしまうときには、このことを忘れている。

だから傷んでいる今はなおさら、心のどこかにとどめておいてほしい。

あなたは、悪意、善意、どちらの場合であっても、傷つかなくていい。

あなたはそれで、大丈夫なのだ。

悩むという行為が「できる」こと

世の中で凄惨なことが起きると、普通に家に住み、ご飯を食べ、温かくして寝られることが、

実は根本的に恵まれているんだな、と、改めて思う。

日本という国に生まれ、普通に学校に行けて、大人になったことも。

だって生まれたときからそういう環境なんだもの、それは当たり前と思っていいじゃない? と

感じるかもしれないが、自分の祖父母や曾祖父母は戦争を大人になってから経験したわけだし、

さらに1、2代前なら江戸から明治維新。すごい変化を越えてきて、今の状態が存在しているのだ。

海外に目を向けて比較するまでもないくらい、くらしは大きく「楽」な方向へ変わってきた。

私たちは基本、食べものにも困らないし(稼ぎ云々ではなく、どこかで必ず買えるってことね)、

着るものもある程度、好みで選べる。住む家や家具も、予算の範囲内で楽しめる。

単純にくらしの面だけでみれば、金銭的な都合が一番の問題であって、でもそれも行政的にみれば、

国や自治体が一応、困ったときの相談には乗ってくれる。病院にも一応、行けるしね。

海外の貧しい人たちから見れば、なんていい生活を、と思うのだろうな……。

そういう土台がきちんとあるからこそ初めて、今、自分のことでいろいろ悩める。

くらしの面での、本当に切羽詰まった、根本的な課題がないからこそ、悩める時間がある。

だからといって悩むな、とか、苦しむのは贅沢だ、なんて言うつもりはまったくない。

逆に、そういう環境になったからこそ、自分のことで苦しくなるのだろう。

基本的に「いい生活」であるからこそ生まれた、新たな課題なんだろうとは思う。

でも、たとえば「私は世間並みに生きていけない」というその「世間」って、どこにあるんだろうね。

心の中で、自分は「誰」を基準にしているのだろう。

たとえばお金持ちでも、会社のことや家族のことや、

それこそ一族郎党のことなどでがんじがらめになってて、

苦しんでいる人はいっぱいいるだろうしさ。

いったい、自分はどこに、何に基準を置いているのか。

どの生活レベル、どんなクラス、どんな性格、どんな人間関係をうらやましいと思い、

そうなりたいと願い、そうなれないと悩んでいるのか。

そのぼんやりとした「人間像」を丁寧に探り、具体的に思い浮かべていくと、

実はそんな人間なんて、ほとんどいないんじゃないか、と思えたり、

「基準」だと思えている人々が、それはそれで大変そうだと、気づいたりしないだろうか。

たまたま自分は今まで経験したことがないから、それがいいように思える、

うらやましいと思えるだけってことは、ないのだろうか。

本当にみんな、うまくいってるのかな、そんなに。

今は、自分が落ち込んでいるから、ただ単純に、余計にそう見えるだけじゃないかな。

実は自分も、本当はそこまでひどい状態ではなく、今、そういう気持ちになってるから、

たまたま、出口が見えないだけなんじゃないかな。

この落ち込みからほんの少しでも立ち直れれば、別の捉え方、できないかな。

今は無理でも、将来にわたって、一生、絶対に、必ず、できないのかな。

せっかく悩める環境にはあるのだから、自分が何を考えて「世間」や「人」という輪郭を

捉えているのかを、丁寧に、静かな気持ちで考えてみるのも、ひとつの方法ではないかと思う。

これは、先日書いていたメガネの、自分への使い方の例でもある。

ほかにも今後、諸々の捜索が終われば始まるであろう、東北での復興。

その人々の思い、その様子。

くらしというもの、絆というもの、他者という存在、自分という存在、生きるということ。

そのなかで、さまざまに現れてくるであろう「本当に大切」なもの。

そんなことも、何かに気づくきっかけになり得るかもしれない。

自分で「ちょっとやってみるか」とさえ思えれば、

視点変換・客観視メガネを使うきっかけは、たぶんこれから、いくらでも現れてくるのだろうと思う。