悩むという行為が「できる」こと

世の中で凄惨なことが起きると、普通に家に住み、ご飯を食べ、温かくして寝られることが、

実は根本的に恵まれているんだな、と、改めて思う。

日本という国に生まれ、普通に学校に行けて、大人になったことも。

だって生まれたときからそういう環境なんだもの、それは当たり前と思っていいじゃない? と

感じるかもしれないが、自分の祖父母や曾祖父母は戦争を大人になってから経験したわけだし、

さらに1、2代前なら江戸から明治維新。すごい変化を越えてきて、今の状態が存在しているのだ。

海外に目を向けて比較するまでもないくらい、くらしは大きく「楽」な方向へ変わってきた。

私たちは基本、食べものにも困らないし(稼ぎ云々ではなく、どこかで必ず買えるってことね)、

着るものもある程度、好みで選べる。住む家や家具も、予算の範囲内で楽しめる。

単純にくらしの面だけでみれば、金銭的な都合が一番の問題であって、でもそれも行政的にみれば、

国や自治体が一応、困ったときの相談には乗ってくれる。病院にも一応、行けるしね。

海外の貧しい人たちから見れば、なんていい生活を、と思うのだろうな……。

そういう土台がきちんとあるからこそ初めて、今、自分のことでいろいろ悩める。

くらしの面での、本当に切羽詰まった、根本的な課題がないからこそ、悩める時間がある。

だからといって悩むな、とか、苦しむのは贅沢だ、なんて言うつもりはまったくない。

逆に、そういう環境になったからこそ、自分のことで苦しくなるのだろう。

基本的に「いい生活」であるからこそ生まれた、新たな課題なんだろうとは思う。

でも、たとえば「私は世間並みに生きていけない」というその「世間」って、どこにあるんだろうね。

心の中で、自分は「誰」を基準にしているのだろう。

たとえばお金持ちでも、会社のことや家族のことや、

それこそ一族郎党のことなどでがんじがらめになってて、

苦しんでいる人はいっぱいいるだろうしさ。

いったい、自分はどこに、何に基準を置いているのか。

どの生活レベル、どんなクラス、どんな性格、どんな人間関係をうらやましいと思い、

そうなりたいと願い、そうなれないと悩んでいるのか。

そのぼんやりとした「人間像」を丁寧に探り、具体的に思い浮かべていくと、

実はそんな人間なんて、ほとんどいないんじゃないか、と思えたり、

「基準」だと思えている人々が、それはそれで大変そうだと、気づいたりしないだろうか。

たまたま自分は今まで経験したことがないから、それがいいように思える、

うらやましいと思えるだけってことは、ないのだろうか。

本当にみんな、うまくいってるのかな、そんなに。

今は、自分が落ち込んでいるから、ただ単純に、余計にそう見えるだけじゃないかな。

実は自分も、本当はそこまでひどい状態ではなく、今、そういう気持ちになってるから、

たまたま、出口が見えないだけなんじゃないかな。

この落ち込みからほんの少しでも立ち直れれば、別の捉え方、できないかな。

今は無理でも、将来にわたって、一生、絶対に、必ず、できないのかな。

せっかく悩める環境にはあるのだから、自分が何を考えて「世間」や「人」という輪郭を

捉えているのかを、丁寧に、静かな気持ちで考えてみるのも、ひとつの方法ではないかと思う。

これは、先日書いていたメガネの、自分への使い方の例でもある。

ほかにも今後、諸々の捜索が終われば始まるであろう、東北での復興。

その人々の思い、その様子。

くらしというもの、絆というもの、他者という存在、自分という存在、生きるということ。

そのなかで、さまざまに現れてくるであろう「本当に大切」なもの。

そんなことも、何かに気づくきっかけになり得るかもしれない。

自分で「ちょっとやってみるか」とさえ思えれば、

視点変換・客観視メガネを使うきっかけは、たぶんこれから、いくらでも現れてくるのだろうと思う。

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