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「黒い人」と向き合うときに・中編

さて、「視点変換・客観視メガネ」は、ネガティブな感情が湧いた際、それを第三者的に見るためのメガネだ。

第三者的視点で、具体的には何を見るのか。相手と自分自身の「状況・環境」、そして「心の中」である。

それゆえ先に書いておくが、あなたがものすご~く嫌いな人・苦手な人に、直接向かい合っているときに

このメガネをいきなりかけるのは、正直、かなり難しい。

なぜならすでに、あなたの中にはその人に対する「はっきりとした嫌悪感」が成立してしまっていて、

感情面で、あるいは生理面で、あるいは身体面で、先に反応が出てしまうからである。

だからそういう「はっきりとした嫌悪感」がある相手については、会っていないときに

何度か事前練習する必要がある。

もし思い出しただけで気分が悪くなるほど嫌いなら、友人にいてもらうとか、病院のカウンセリングなど、

側に助けがある状態で使って欲しい。というか、その場合はメガネ云々より、

その嫌悪感を単純に誰かに聞いてもらうほうが、本当はずっと効果があると思う。

怖いだろうけれど、人に話すことは、大きな「解放」だから。

使い方はこうだ。簡単な例として職業的に「黒い人」、つまりヤのつく職業の方、「極」の道の方を見てみよう。

今は自分を客観視する必要がないので、彼らのみを見ていく。

はい、ドラえもん。「してんへんかん・きゃっかんしメガネ~」(私は大山さんの声が浮かぶよ……)

装着!!

街で見かける彼らは、いつもなぜか肩をいからせ気味にし、

「俺は怖いんだぞ!」という雰囲気をワザとまとっておられる。

  ↓ (第一段階)

ああ、自分が悪いことをしてるとわかってるから、そこを人から突かれないようにしないとね。

人から誠意ある「正直な目」で正視されたら、自分を振り返らなくちゃいけないものね。

人の視線は、まともに浴びたくないよね~。だからそういう姿勢で恐怖心を与えて「見るな」って、

全身で訴えてらっしゃるんだ。

  ↓ (第二段階)

「暴力」と名のつく組織に入ることで、自分が世間的に「黒い人」になってること、

自分自身が一番わかってるものね。根本的な後ろめたさはどうしてもあるよね。

しかも職場環境は超・体育会系。出世しよう思ったら、命知らずレベルの「服従」はもちろん、

腕力の強さと勝つ技術、金を稼ぐ頭の良さ、人の弱みを見つける眼力、相手の心理を操る巧みさなども必要だもの。

昇っていけばいくほど、社内にも社外にも敵と味方が増えていく。外国人、という勢力もある。

それを見極め、根性をすえ、うまく昇っていかなくちゃ、組織内の「うまみ」にはありつけない。

なんてったって、社長以下全員が「黒い人」だから、自分も常に「黒い人」でなくちゃいけないし、

その上で上司に対しては「役立つ男」、部下には「心から尊敬できる兄貴」でないといけない。

……大変な職場だ。やめるとなったら指まで要求されるよ(最近はなくなったというけど、本当かな?)。

  ↓ (第三段階)

みずから望んで属したとはいえ、生まれ育っていくうえで、そこしか就職先がなかった人もいるしなあ。

私はたまたまそういう道を選ばないで済んだけど、たとえば家族や友達、子ども時代の友人など、周囲がほぼ

その道を選んでたら、それがもっとも身近だ。生まれたとき、すでにそういう環境だった人も

実際にはいるだろうな。外からみてるだけではわからないけど、それは厳しい人生だ……。

人にはいろいろな人生があって、それぞれ、そのなかで選びながら生きていくんだなあ、うーん。

はい、こんな感じである。相手の「来し方を振り返る」第三段階までいけば、

その職業の方が以前よりは、怖くなくなってくるでしょう?

だからといって実際に同情的な目で見たり(それこそケンカを売られる)、相手に関わる必要はまったくない。

彼らを街中で見かけたときに感じていた「なんだかよくわからない怖さ」が薄れて、自分が楽になるだけ。

それでいいのだ。

これは、スーパーで怒鳴り散らしてるお母さん、駅でケンカしてるおじさんなど、本当の第三者が起こす

「たまたま見かけた不快な感情をもたらす出来事」には即効性がある。メガネの使い方に慣れてくると、

相手の人生、相手の学びは、それこそ相手のものである、って感じで、自分は冷静な目で見られるようになる。

(あ、だからといって、おじさん同士の殴り合いのケンカも止めずに放置しろ、って言ってるんじゃないよ(^^;)

ぜひ駅員さんを呼んであげてね。自分が冷静になってるから、落ち着いて行動できるよ~)

ただ、自分が不快な感情に巻き込まれてしまう時間が、単純に減っていくのだ。

さあ、ではこのメガネを、次はいよいよ自分の「知り合い」に使ってみよう。

最初は遠い存在の人から練習だ! その話は、また明日。

「黒い人」と向き合うときに・前編

タイトルに書いた「黒い人」。これは肌の色ではなく、「気持ち・心」が黒い人のことを指す。

人は、誰しもこの「黒い人」になってしまう瞬間があるはずだ。

今はないとしても、子どもの頃につい、友達や近所の子に意地悪をしてしまった覚えなどはあると思う。

誰かに対する怒り、嫉妬、苛立ち。そういう類の、攻撃性のある感情が生まれたとき、私は

自分に対しても相手に対しても「あ、今、『黒い人』がスイッチ・オンになった!」と、思うようになってきている。

とくに相手がいて、その人が大した原因もなく、あるいは勝手に突然「黒い人」になったら、

こちらもモードチェンジをはかるようにしているからだ。

と言っても別に、自分が一緒に「黒い人」にチェンジするわけではない(^^;)

「視点変換・客観視メガネ」を、心の中で自分にかけるのだ。

これ、イメージとしては、ドラえもんにポケットから出してもらった! くらいの

明るい感じでとらえてもらえるとうれしい。

自分の気持ちを落ち着かせ、少しは楽になれるという、よいメガネなのだ。

そもそも「黒い人」がいきなり攻撃してくる際、その人は、自分が黒い感情を持っていることを、

無意識的にであっても、ほぼ気づいていると思われる。

本当は、それがもうなんだか気持ち悪い、つまり自分の「心地」が悪いから、

相手のせいにしてみたり、八つ当たり攻撃などをしかけてくるのだ。

とくに対面している場合、たとえば怒っている人なら、もう全身で「怒ってる!」と表現してくる。

言葉だけでなく、目つき、口調、手振り、その他荒々しい動作。

そういう、とげとげしい、あるいは冷たい雰囲気を出していることだろう。

これら全部が「黒い人」からの攻撃なので、まともに浴びてしまうと、

こちらもまた、くたくたになるか、あるいは相手の感情に巻き込まれて、とげとげしくなってしまう。

夫婦ゲンカをイメージしてもらうとわかるだろうが、相手がカッとなって怒鳴ってくると、

言われた内容そのものより、まず「どうしてそんな言い方を!」と言い返したくなったりする。

怒っている本人にとっては、自分の言った内容と関係ないところをつっこまれるから、余計に怒りが増す。

こうして、お互いが怒りの増幅装置になっていく。

また、逆に自分が言い返せないでビクビクしてしまう場合も、

相手に「効いてる!」という気持ち(黒い喜び?)をもたらすため、

これも結果としては相手の気が済むまで、自分が増幅装置と化してしまう。

とにかく「何かが黒いゆえに心地悪さを感じている」人に対するときは、

まともにその攻撃を浴びてはいけないのだ。

本人に黒い自覚があるかどうかは別として、吐き出しきってせいせいするまで、攻撃の手をゆるめない。

だからこそ、攻撃を浴びた際には「視点変換・客観視メガネ」を使って、相手を別の視点から捉えてみてほしい。

すると、少なくとも自分は、全身に真正面から「黒攻撃」(^^;)を浴びなくてもよくなり、

少し落ち着いた気持ちで向き合うことができるようになってくるのだ。

このメガネの実際の使い方は、ドラえもんの説明のようには短くできないので(笑)また明日。

自分を信じる、ということ(2)

さて、昨日の続きで、次はマザー・テレサ。

彼女は18歳のときカトリック系の修道女として英国統治下のインドに赴き、

教会内で子どもたちに地理などを教える教師として長年務めたのちに、

38歳から単身スラムに入り、瀕死の人々を救う活動を始めた女性である。

私が知っているのはノーベル平和賞受賞後の、お年を召された彼女だけだし、

本屋でよく見かけるのは「神の言葉としての愛」を語ったものだったりするので、

はなからもう、信仰心の厚い、強い女性なのだろうと思っていた。

が、たまたま目にとまった「マザーが唯一、公式に認めた評伝」という肩書きの本を読んでみたら、

信仰心はもちろん厚かったが、スラムで活動を始めた初期の頃には、

その彼女でさえ、孤独感でくじけそうになっていたことが書かれていたのだ。

考えてみれば、そりゃそうだろう。独立運動、イスラムとヒンズーの国家分離、大飢饉、その他で

国中が荒れ果て、難民、流民が街中でバタバタと倒れている状態なのである。

いくら信仰心があっても、3枚のサリーと十字架、ロザリオ、頑丈な皮サンダルだけ持って

スラムへ入り、家を探して、女性がひとりで活動を始めたのだ。

彼女は、神から使命を受け取ったため(何らかの言葉が降りてきたらしい)、

この活動を決意し、托鉢という形で寄付集めまでする。無理解な人々に怒りながらも、

学校や診療所を次々に作っていった。手伝ってくれる元の教え子などはいたが、

最初の2ヵ月間はスラムでひとり暮らしだった。身の危険も感じただろうし、

その孤独さゆえに、長年暮らした修道院の温かさを思い返すのは、当たり前の話だろう。

無理ならば戻ってきてもいいと、指導者的立場の神父から言われてもいたため、心が揺らいだようだ。

彼女は神父への手紙で、涙を流しながら孤独に耐えていることを書いている。

「私は耐えられるでしょうか。神よ、弱さと闘う勇気をください。私は間違っているのでしょうか。

慈悲深き母よ、どうぞあなたの子どもに哀れみを」(※)

彼女もまた、こんな弱い面を持っている、ひとりの普通の女性なんだ、と、初めて知った。

それでも「なぜこんな試練を」とは書いていない。「やれる勇気」を求めているだけである。

彼女はすでに、街中で倒れている人を、自分が少しでも助けられると「わかって」いた。

それは物理的な世話とともに、精神的にも安らかになってもらうという仕事であり、

今の自分にそれができると信じていたから、教会を離れたのだ。

「私にできることは、目の前の人を救うことだけです」と彼女は何度も述べている。

そこに神の姿をみるから、である。彼ら一人ひとりが、キリストの姿なのだ。

「そう思ってなければ、さすがにお世話はできませんよ」と、なんと彼女自身が語っている。

だからだろう、彼女の行動はシンプルだ。規律に沿って生活しながら、目の前にいる人を助け、施設を作り、

必要なら托鉢なども行い、困ったことが起きたら即、どうするか考えて対処する。その繰り返しなのだ。

彼女としてはただ、そこにいる一人ひとりのキリストに、手を差し伸べ続けただけだったのだろう。

でもそれは、やがて周囲の人々を動かし、インドの街から「道端に倒れたまま亡くなっていく人」が消えていく。

さらにその活動は、世界中へと結果的に広がっていくのである。

たぶん、助けた人々や、その家族から受け取る感謝の言葉に、彼女は日々、支えられてもいただろう。

奉仕は行ったあとで初めて、「人の役に立てる喜び」という恵みを自分にもたらすのだ。

それにしてもただ素直に「これを、私はやる」と思えた彼女はすごい。

肉体的にも精神的にも、単に思い入れが強いだけでは続けられなかっただろう。

そしてその清貧さ、我欲のなさ、世界の捉え方はもちろんのこと、何も求めず先に差し出したからこそ、

結果としての恵みを受け取っていた彼女のその姿勢が、昨日のマイケルとは対極にあるように

思えるのは、私だけではないだろうと思う。

今の自分が差し出せるものをシンプルに差し出し、それが役立つことで、気持ちの上で恵みを受け取る。

目の前の小さなこと、たとえば席を譲るとか、迷っている人に声をかけるとか、ゴミを拾うとか、

そういうレベルであっても、もし自分が日々、無理のない範囲で自然にできるようになれば、

きっと今より少し、穏やかな気持ちで生きていけるような気がする。私も、やってみよう……。

マイケル、マザー、学びをありがとうございました。どうか今は、安らかに眠られますように……。

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※出典:上記「愛の軌跡」p86