木元見春 のすべての投稿

自分を信じる、ということ(1)

この1年くらいの間に、私は「自分を信じる」ことに関する象徴的な話に、2つ出会った。

ひとつはマイケル・ジャクソンであり、もう一つは、マザー・テレサだ。

この2人について、私が感じたことが対極にあったので、順番に話してみたいと思う。

まずはマイケル・ジャクソン。彼の悲しい死を、知らない人はいないのではないかと思う。

精神的な不安による不眠をなんとかしようとして、結果、亡くなってしまった。

私はとくに彼のファンというわけではなかったが、キライな音楽ではなかったので、

たまたま友人に誘われたのを機会に、映画「THIS IS IT」を観に行った。

そこで初めて知ったのは、彼の人柄だった。リハーサルを続ける間ずっと、

あれほどの世界的大スターがまったく偉ぶらず、スタッフやダンサーたちに気さくに声をかけ、

自分でどんどん場を盛り上げていたのだ。それを彼自身もまた、楽しんでいた。

もちろんメイキングビデオだから、とくによい場面ばかりを集めているのは確かだろうが、

それでも、もし彼が本当は真逆の「王様」タイプだったのなら、あんな情景は撮れなかっただろう。

周囲の人たちは彼の才能を心から愛し、同時に彼の人柄を愛していた。完全に、魅せられているようだった。

自分の舞台をそうやって真摯に作り上げていく彼の姿が、映画では次々に映し出されていった。

「これほどの人が……。実際、これほどの才能があり、周囲を気遣い、楽しませる能力と

魅力を持っていた人が、それでも不安で、眠れなかったんだ……」

観ながら途中でふとそう思ったら、その事実がなんとも悲しくて、私も自然に涙が出た。

何度も観に来る人がいるのも、わかる気がした。

マイケルは、自分がAC(アダルト・チルドレン)であることを、

オックスフォード大学での講演で明かしている。

ジャクソン・ファイブというグループを兄弟姉妹でつくり、子どものときからスターであった彼は、

マネージャーとして厳しかった実の父親に対し、自分が本当は「父」としての愛情を求めていたこと、

しかしそれが得られなかったことを、告白したのだ。

だからこそ、現代に生きる子どもたちを無償の愛で包んであげて欲しいと、訴えている。

彼の講演の全訳が載っているサイトを、ここに紹介しておく。

このサイト右側、リンクの一番めに実際の録音もあるので、英語が聞き取れる方なら

直接、彼の言葉を聞いてみるのもいいだろう。

マイケル・ジャクソン オックスフォード大学での講演 日本語訳文

(右リンク一番め「ALL Michael Jackson Oxford Speech」が録音・開くと自動再生される)

http://slowly.org.uk/mj/index.html

あれほどの成功を収め、子どもたちのためにネバーランドをつくり(彼の性的な嗜好については、

私には判断ができない。でも、子どもたちを楽しませようとした気持ちは本物だったのだろうと、

講演の翻訳を読んで思う)、映画を観る限りでは周囲の人から、才能だけでなく

その人柄でも、すでに愛されていたのに。

彼にとっては自分の才能が、自分の存在価値だったのかもしれない。

彼はたぶん自分自身を愛せず、自分を信じることができなくて、その代わりに周囲からの愛を、賞賛を求めたのだ。

自分以外の「外側」に、それを求めたのだ……と、私には思える。

音楽という芸術で自分を表現していたゆえもあるだろうが、

才能がなくなれば、周囲の人から愛されなくなる。

奇行や性癖の話ばかりが報道され続けたあとで、人々から再び賞賛され、愛してもらえるのか。

再起をかけたコンサートと言われた舞台を前に、だから彼は、眠れなかったのではないだろうか。

お金や地位や名誉、栄光では、人は、本当の意味で幸せになれない。

彼は、その事実の象徴であったようにも、私には思えている。

そうした意味で、マイケルの対極にあったと感じられるのが、マザー・テレサである。

私は、彼女が公式に認めたという評伝(活動記録)を読み、

彼女の「自分を信じる」力のすごさを知った。

この話は、また明日。

身体と同じように、心も休めさせられれば……

鬱々とした気持ちのときは、悪いことばかりが頭の中に浮かぶ。

過去の自分。

これまでに起こったことを思い出し、自分に嫌気がさす。

苦手な人との会話で傷ついた自分。

直接的な原因ではないはずの、古くて嫌な想い出まで浮かぶ。

たとえ、誰かのせいで今の状態になったとしても、

その人を恨みながら、どこかで、そう受け止めてしまった自分を責める。

今の自分。

何もできない自分にも、嫌気がさす。

どうしたらいいのか、まったくわからない。

焦っても何も変わらず、身体も力が湧かず、言うことを聞いてくれない。

魔法の杖を振ってくれるおばあさんは現れないし、

医者や専門家に聞いても「しばらく様子を」と言われ、悲しくなる。

この先の自分。

ますます希望は持てない。

いつ治るか、そもそもこの状況から抜け出すなんでできるのか、と思う。

できる、いや、できるはずがない、と自問自答を繰り返す。

それだけでもう、疲れてしまう。

こうしたことは、折れて傷んでしまった心を、治していく最中に起こる。

でもこれは、実は自分でその心の傷口を、刃物でグサグサと傷つけているのである。

足を複雑骨折したとき、ギブスもせず、安静にしているのもイヤで、

無理矢理、歩こうと努力するだろうか。

高熱が何日も続いてフラフラなのに、そんな自分が許せなくて、

ずっと起き上がり、家事や仕事を延々と、続けるだろうか。

無理矢理に、ご飯をいつも通り食べ続けるだろうか。

身体に起こる病気や傷は、「安静にして治すもの」と、自分で理解できている。

そういうものだと、周囲も認めてくれている。

骨がくっついてから初めて歩く練習をするし、

熱が下がってから初めて、ご飯の量を増やし、軽い家事から始めるだろう。

なぜ、心の傷だけ、それができないのだろうか。

自分に心地いいものだけを側に置き、好きな音楽やマンガ、テレビや本を楽しみ、

あるいは食べて、ゆっくり寝て、まずは傷を治す必要がある。

傷が治ってきてから初めて、リハビリは可能になるのだ。

折れた足のまま動き続けたら、治癒にも時間がかかり、足は変形するだろう。

高熱のまま動き続けたら、別の病原菌にもやられ、たいへんな事態になるかもしれない。

死にたくなるほど苦しいから、今は、余計に。

あなた自身が、ぬくぬくと自分を守り、いたわらなくてはいけない。

泣いて、感情を発散させるのもいいだろう。

それは決して「甘え」ではない。心の治療なのだ。

私は、これに気づくのが遅かったから、余計に時間がかかったように思う。

リハビリを開始できる時期は、自分でも感知できる。

もし、いたわっても時間がかかったとしたら、それはそれだけ、あなたの傷が重症である証拠だ。

涙はかまわない。でも、頭の中でイヤな思いだけがグルグルと渦巻き始めたら、

どうか「あ、また自分でグサグサやってる」と、思ってほしい。

こうした思いは、必ず浮かぶだろう。そのときには好きな音楽でも聴いて、

あるいはもう寝て、その思考を自分から切り離してほしい。

どうか、自分が楽になれる時間を、今は少しでも過ごせますように……。

生命……というもの、すべては「あいまい」が基本

延々と説明してきた「今、わかっていること」だが、最後に、まとめのとどめから(笑)

身体のことは今のところほとんど「仕組み」についてしかわかっていない。

それもまだまだ、わからないことだらけだ。

でも身体の細胞は私たちの意志に関係なく、生まれて、生きて、命を全うしようとしている。

そして、その身体を物質的に見ると、その究極の姿は、今のところ

「確率論」的なものになってしまう。

「たまたまそれを見る人」の状況によって決まるもの、なのだ。

もちろん、専門家は「どうしてそうなるのか」を知りたがった。

もはや観察できない(実験はできない)から、それは理論上で追求されているわけだが……。

これがね、笑える。理論上では、私たちの生きている世界がたぶん「11次元」まで存在していないと、

「だからそうなる」とはきちんと言えないらしいのだ。

しかも、このように「絶対に定まった」世界は存在せず、

今の私たちには感知できない次元、世界もある、という状態。

……これってね、東洋の神秘家(主にインド系の方々でしょう)が言ってきた世界観と、

まさに同じだったらしいよ。

これには学者も慌てた。当然、アメリカやヨーロッパなどで、

この神秘家たちの教えと、自分たちの理論のすりあわせ研究なんかも行われ、

学者の中でも「神秘家たちは、世界を直観で捉えている可能性を捨てきれない」という人が現れ、

それを否定するために「彼らの話には根拠がない! 私たちの話はちゃんと理論的に

正しいと確かめられている!」と、わざわざ声明を発表する学者もいたらしい。

もう、大混乱になったわけだ。

そもそもこうした理論が生まれるきっかけになったのは、かの天才、アインシュタイン氏が、

「時間や空間は、絶対に一定じゃないよ~」と言い出したから(しかもこれ、

ヒラメキで思いついたというからスゴイよね)。

でも、そのアインシュタイン氏でさえ、この理論は認められなかった。

物質が確定した性質を持たないなんて、彼は最後まで「許せなかった」そうなのである。

あれほどの天才であっても、自分が文字通り「ひっくり返した」世界のその先までは、

認められなかったんだね……。

で、脳のところで書いた、気持ちが身体の状態を左右する理由も、もちろんわかっていないし、

そもそも「気持ち」「感情」の研究は、今のやり方のままではできないらしい。

観察しても、脳のある部分で「電気信号がやりとりされている」ことしかわからないからだ。

喜んでいることはわかっても、その人がなぜ、喜んでいるのか、どんな状況を思い浮かべ、

どんな言葉を思い浮かべて喜んでいるか、科学は今のところ、調べようがないわけである。

じゃあ気持ちの「元」の部分は、私たちのどこから湧き、どうして頭での「思考」となるのか。

これを知るためには、それこそ「思考エネルギー」とか、人の持つパワーとか、

目に見えない、調べられないものを今のところ、仮に想定してみるしかない。

でも学者さんたちは、調べられないものを理論だけで認めたくないので、研究自体、進んでいない。

心理学では「潜在意識」が想定されているけれど、これもひとつの説、理論でしかない。

かくして。

物理学的にも科学的にも、SFか? 宗教か!? とツッコミを入れたくなるような世界が、

実は私たちの基本らしく、わかっていないことのほうが、ずっとずっと多いのだ。

わかっているのは「絶対」というものはなく、

すべてはあいまい、ある意味、確率の範囲内なら何でもありってこと。

だから今、「絶対こうなるに違いない」「世間というものはこうである」「だから私はダメだ」と

捉え、絶望しているあなた。

その世界は、「あなたがそのように見るから、そうなっている」と、ある意味、科学的に言えるのだ。

世界は観察者の状態によって、変わるのだから。

現実に、目に見えている世界があるじゃないか、って?

だってすでに、犬の世界はモノクロらしいよ。モグラは世界を、目で見ていない。

その点だけでさえ、世界は一つの姿ではない。

私には何もない、と思っている?

星とガス以外、何もないとされていた宇宙の真空空間には、

実はなんらかのエネルギーがうっすら、あるいは充満、

とにかく「すべてに行き渡って」いて、何か、働いていることが

わかってきたらしいよ(仮につけられたそのエネルギーの名は、よりによって「暗黒物質」!

ダースベイダーが喜びそうだ……(^^;))

可能性的には、何が影響して、どう変化するか、わからない。

目に見えない、感知できないものが、あなたを変えていく可能性すらある。

それはもはや、別次元からやってくる確率的な可能性として、科学の範囲内で、あり得る話なのだ。

これは宗教家の説話でもなく、希望的観測でもない、物質にさえ当てはまる事実。

そして世間的に立派なあの人も、私も、花も家も水も岩も、みんな同じで、みんなあいまいなのだ。

……だからさ。なぜ生きているのかわからなくても、

今、世間のことが「わかっていない」、ダメで、いい加減な私は、

物理学的にも、科学的にも、ある面、当たり前で普通の姿なのだよ。

何も確固たるものはなく、あいまいなまま。それでいいのだ。

やっぱりそれでも、この先、自分の何かが変わっていく可能性って、信じられないかな?