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「つらい気持ち」でいる時間

脳の話は、ごめんなさい、明日にして……。

今日は先に、つらい気持ちが続く間のことについて、

自分の経験と感じたことを、記しておこうと思う。

鬱を経験したことがある人や、悲しみのなかから抜け出せないでいる人、

死にたい、でも死ねない、死にたくない、と、気持ちが揺れ動いている最中の人にとって、

今、毎日、時間が過ぎていくことは、それだけでもう、とてもとてもつらいと思う。

少なくとも、私はそうだった。

死にたいときは朝が来るのもイヤだったし、死ねなくなってからも、

「だからってじゃあ、どうすればいいんだろう」と

放心しているうちに1日が終わってしまっていた。

死ねなくなったから仕方なく、ただただ、魂の抜けた状態で動いてたって感じ。

それでもなんとかじわじわ、時短で仕事をして、

たまたま少し、波に乗ってがんばれたりすると

反動でまたいきなりぷつんと壊れ、出社できない状態にもなった。

再休職をして、病院にもう一度、通った。

病院を変えてみたら、ありがたいことにそこの先生と相性がよく、

先生の言葉に助けられたりもした。

再度、壊れて休むこととなった私に、先生はこう言ったのだ。

「あなたは今、ポンコツ車を運転してるようなものよ。

それを修理しつつ乗ってるんだけど、まだまだ、修理は終わってないの。

そんな車で、勢いに乗っていきなりアクセル踏み込んだら、

すぐに『プスン』とエンストしちゃうのは、当たり前でしょう?

上手に運転してあげなくちゃいけないし、

速度を上げるのなら、先に、もっと修理しようよ」

自分の頭と身体と心を、車に例えるのがイヤな人もいるかもしれないけど、

私は「壊れるのが当たり前」というところで、少しホッとした気持ちになれた。

そう、もうどうしようもない。

昔は新車だったかもしれないけれど(笑)、

今は、修理が必要なポンコツ車なのだ。

そして実際、3年くらいは、ひどいポンコツ状態だった。

大きいの、細かいの含め、なんだかしょっちゅうエンストしてたしね。

その間、仕事の面で言えば、一番波に乗れるはずの30代後半を全部、

仕事がロクにできないままで過ごした。

当然、キャリア面はボロボロで、収入もボロボロ。

今だって貧乏なまま(笑)だし、

いつ再発するかわからない、という不安もまだ、少しは持っている。

それでもなお私は、今になって結果的に、やっとだけれど、

私の場合は、壊れてよかったんだと思える。

壊れるまでは、自分の価値を、「仕事」の面で一番大きく測っていた。

そして私の仕事は、一人でするものではなく、必ず他者が存在する。

つまり私は、自分の人生が「いいかどうか」の大部分を、

「他の人から認めてもらえるかどうか、必要とされるかどうか」という、

他者評価の面で測るような人になっていたのだ。

だからこの感覚というか思い込みは今、

実際に仕事で他者から認めてもらいにくくなったがゆえに(^^;)、

かなり外せるようになってきている。そういうふうに、自分で思うことができる。

もし万が一、昨日までのブログに書いていたような「思い込み」のまま、

ワーカホリック気味に仕事を続けていたら。

私は人からの評価、人の気持ち、人の気分にに左右されるという、

浮き沈みを、あのまま続けていただろう。

そんな面だけに囚われず、私は、私のことを、ちゃんと全体からいろいろみて、

トータルで見ればOK! とか、そういう新しい感じで、認めてあげてもいいんだ!

なんて思えることは、絶対になかったと思う。

明らかに、自分の「うん、これでOK」と思える枠は、大きくなったのだ。

鬱のあと、そう思えるまで、5年くらいはかかっていることになる。

でも、楽にはなれてきたし、新しい楽しみというか、

変わりつつある自分を見つけつつはある。

実際、人間関係の面も、いいほうに変化し始めているのだ。

たとえば実家の家族との関係とかね(別に仲が悪かった訳じゃないけど、

まあ、この話はまた、いつか……)。

人の死、価値観の崩壊、鬱、貧乏暮らし。これって端から見るとヒドイ経験。

それでも、こんな目に合わないと、そしてこれだけ時間をじっくりかけないと、

私の場合は変われなかった。

それほどまでに、私、生き方が不器用なんだ。高倉健さん並み? いや、それ以上か(^^;)

死ねなかったから仕方なく生きてきて、

2年も経ってから突然、原因不明の体調不良になったりもして(まだ治ってないけど)、

それでも今、ようやく、私だからまあ仕方なかった、と、思えるようになってきて、

このブログを、書いてみようと思えたりもしている。

いろいろ気づくまで、長かったねえ、私。

ワーカホリックに入ったところまで遡ると、10年超か。

でも、あのガチガチでヘンな思い込みと自分の枠を、外せてよかったねえ。

今はしみじみと、そう思えている。

「人として正しい」道。

私の親は、私を怒ったり、さとしたりするときに、

「正しい」「間違ってる」というニュアンスを含む言葉をよく使っていた。

「そうするのは間違ってる」

「こうするのが正しい」

「こう考えるのが正しい」

という感じ。それはまさに、「価値観」というヤツなのだけれど。

これが生き方として正しい、という一般論的な表現は、

わりと多かったように思う。

でも、大人になっていろいろなタイプの人に出会い、

自分が今まで『人としてこうあるべき』と信じていたことのいくつかは、

親からの「価値観」の受け売りなんだなあ、ということには、一応、気づき始めていた。

そして、生きざるを得なくなってから、心理学・その他の本などをいろいろ読んでいくうちに、

「正しいことはいくつもあって、全部、どれでもよいんだ」と、やっと思えた。

これしか正しくない、というのは、私が勝手に思い込んでいただけなんだ、と。

この「正しい」というのは、それこそ、

「真面目にコツコツ努力して生きていくことこそが、人として正しい」

「がんばれない人間はダメである」

「やるからには、きちんとする。手を抜いてはいけない」

といったような生き方の方針から、

「ご飯は三食、きちんと食べるべし」

「家事はきちんと、毎日行うべし」

といった日常生活の細部にまで及び、

それらが私の中にガッチリ、組み込まれていた。

例として上に書いた5つを、もう一度読んでほしい。

これ、すべて、鬱で休職しちゃうような状態になったら、

「まったくできなくなる」ことばかりなのだ。

実家に帰って療養する道が、私にあり得なかったのは、このためである。

全部だめ、しかも治る見込みなんてない。

私はあっという間に、お荷物、厄介者になるだけだ、迷惑だ、と。

しかもそのときの価値観では、私は「人として間違ってる」わけだから、

素直に「このままでは生きられない」という方向へ、頭が走っていってしまった。

言われてきたことはある意味、まっとうな、普通の範囲のこと。

なのに鬱という状態のせいで、こんなところからも完全自己否定である。

刷り込みされていたとはいえ、その思考回路は、いかに極端だったことか……。

でもこれが実は、鬱病の怖さでもあるのだ。

次は、鬱という病気、その極端な「頭のなかの状態」について、

書いてみたいと思う。

最後まできちんとやりなさい!

タイトルのようなことを、子ども時代、母親から言われなかっただろうか。

単純に聞くと、別に問題のない、当たり前のセリフのような気がする。

が、たまたま、その子どもが本当は飽き性、

つまり最後まできちんとするのは苦手な性格の持ち主で、

親は逆に、それがかなり得意だった場合。

親にとっては「当たり前のこと」だけれど、

子どもには、それを習慣化するのはかなりつらい。

そしてやがて、子どもは自分で勝手に曲解していく可能性もある。

この、「自分で勝手に」のところが、とてもやっかいなのだ。

たとえば「最後まできちんとしないと、人として正しくなくて、

私という間違ってる人間は、親から(=つまりは、世間から)は

認めてもらえないんだ……」

というふうに、強く思い込んでしまったりする。

もともと、あまり向いてない人間がやろうとするのだから、

当然、息抜きの仕方や、適当なところでの切り上げ方なんて、理解できない。

うまくバランスを取ったり、コントロールしたりできないまま、

正しくあろうとするために、ただ猛然と、ひたすらに最後までがんばってしまう。

これは私の場合の話だけれど、どうも、こうした一面はあったようなのだ。

しかも、「負けず嫌い」だったから

目標! 的な気持ちで、ガンガン、突き進んでいってた。

……この、性格面での傾向的な話を知ったときは、

親のせいにするのか、とか、性格だから仕方ない、と逃げるのか、

なんて、自問自答もした。

でも今はある種の相性的なところで、たまたまそういう親だったから、

たまたまそれが『正しい』と言われ続けたから、

本当はきちんとするのが苦手だった私も、これまた、たまたま

そういう思い込みを自分でかけていったんだろうなあ、と思っている。

だってそれでほめてもらったり、認めてもらったりするのは、単純にうれしいからさ。

で、そういう確率的な結果として「ヘンにがんばりすぎる人」が出来上がってしまった、と。

だから蛇足的にお願いすると(笑)、今、お母さんやお父さんの立場である皆さん、

どうか「正しくない!」「アナタは間違ってる!」「こうあるべき!」的なしつけ方は、

犯罪とか、人の心を傷つける部分に、とどめてあげてください(^^;)

その家族内のルールに従えない場合(たとえば片付けないとか、行動が遅いとかさ)

子どもが「正しくない」わけではなく(片付けられない親は普通にいるし、

ホコリが平気な人やのんびりしている人も、たくさんいるでしょう)、

たまたま「アナタがイヤ」なのだろうと思う……。本当はね。

「お母さん(=私)が悲しいから(またはイヤだから)、やめてくれないかな」

という方向なら、たぶん、曲解は発生せず、また違った展開になるのでは……と思う。

どうか、お願いしますねm(_ _)m

さて。この「正しくない!」のように、一般社会的なルールに置き換えられちゃった

思い込みの部分については、まだもう少し、書いてみたいと思う。