木元見春 のすべての投稿

自己イメージと、周囲に醸し出すものと。

自己イメージって、なんとなくあるよね。

それ、実はときに、諸刃の剣でさ。

 
『こういうふうにするのが私らしい』、

と強く思い込み過ぎると、

今度はそのイメージに自分が振り回されることになる。

 
たとえば、

「自分の意見はちゃんとはっきり言わなくちゃ、私らしくないのよ!」

と決めつけたら、次からは

何につけてもはっきり言わなくちゃ『いけない』

というルールを、自分に強いることになる。

 
で、はっきり言わなくちゃいけないわけではないときにでも

いきなり主張を展開し始めて、KYになったりする

(はい、過去の私も、そういう傾向、あったと思うよ)。

 
親切にしなくては、優しくしなくては、というのも同じ。

自己イメージを決めつけて、ルール化しちゃうと、

今度はルール違反を自分が犯したときに、

そのことによって、変なモヤモヤを抱えることになる。

 
で、これ、『こんなふうに見られたい』という理想の自己イメージも同じく、でね。

本当は、自分の「気持ち」がそぐわないのに

無理して「こうならなきゃ!」と決めてやると、

周囲には、却って変な方向に受け止められたりする。

 
そもそも、そんな自己イメージを持つのって、

『そうじゃない』自分を嫌っているからなのよね。

 
意見ははっきりいわなくてはいけないのに、言えなかった。

自分勝手なことしてしまった。

等々、嫌っているの。

 
だったらね。もし。

 
そ こ が 

そ も そ も

ズ レ て る の よ

 
と、耳元でささやかれたら、

どんな気持ちになる?

 
自分の「マイナス」の自己イメージも、

自分が思い描く「プラス」の理想像も、

そのイメージの内容でなくて

「自分の○○なところが嫌」と思ってしまう、その『気持ち自体』が、

あなたにとっての「ズレ」を生み出す原因、

あなたの苦しみの元だったとしたら?

 
わかるかな。

ならば根本的に、ほかの「何か」を変えていかなくちゃ、とは思えない?

 
私の、このタイトルのブログを読もうとしてくれている人は、

自分のことを全部嫌っているか、

「自分のこの部分が嫌い」と思っているか、

あるいは人間関係で、なぜかいつも、人とケンカしちゃう、

ズレが生じる……って問題を、抱えていると思うのね。

 
過去の私がそういう人だったし、今もまだまだ、私自身が練習中だから、

表現の方向性の違いはあっても、

自己批判好き、

他者批判しちゃう、

自分のここが嫌い!

というふうな部分を持たれている……、

その点で似た人は、結構、私が引き寄せるだろうと思えている。

相手に言うか言わないかは別としてね。

 
で、変える練習を始めた私が今、強く実感していることは、

自分に『新しいことを詰め込む』だけでなくて

『否定している部分を消していく』作業もしなくては、

『新しい部分』が染み込んでこない、実際には……ってことなの。

 
鬱がいちばんキツかったときなんて、

自己批判99.9%で、『自死できない自分』さえ罵倒してたからね、私。

 
も、ね、そこから、違ってた。

あ、これは、間違いという意味でね、ズレていた。

 
自己批判すれば向上する、というのは、

あくまでも『自分を信じている』ことがしっかりベースにあって、

その上で『まだまだ』とか、『もうちょっとこういう方向へ』と願うときに

有効なやり方なの。

自己信頼なしの自己批判

は、ただの自分イジメでした。

今だから私も言える。ちっとも効果ないよ、それ。

 
そして、土台の自己信頼なしで自己批判をする人に共通のイメージ。

これはどうやら、2つのパターンに分かれるように思えるのだけど、

ひたすら「キツイ」「怖い」「言い過ぎ」さらには「よく怒る人」もいるかな、

そういう「厳しさを、当たり前のように平然と、他者へ押し付ける」

というパターンか、逆に

「言えない」「気弱」「小心者」

と、自分でも思うし、他者からもそう思われるパターン。

 
だいたい、どちらかに偏る傾向にあるように思う。

そして両者に共通しているのが「頑固者」じゃないかな、と。

 
ま、頑固者なのは「こうでないといけないのに!」って決めつけているわけだから、

そりゃ当然、そうなる訳で。

 
ようするに、柔軟性がないの。

それの、弱いか強いかバージョン。

 
柔軟性っていうのは『~であるべき』からは、生まれない。

他者の別の考えに基づく声も、

ちゃんといったん、先に受け止められて、

そのあとで、自分にとってそれは「心地よいかどうか」を選び、

選んでからも、自分が選んだ方向を他者や相手には押し付けない。

何を選ぶかは、相手の自由であることを認めると同時に、

だからこそ、自分が選ぶ方向もまた、

自由であっていい、と思えること、じゃないかな。

 
少なくとも、柔軟性って、そういうものを含んでいると、今の私は捉えている。

そしてそういうのって、練習できるのよ。

自分がそうしようと、決めればね。

 
そのために必要不可欠なのが『自己信頼』なの。

だから自己批判ばかりしている人は、そこをまず、本気でやめないと、

いつまでたっても『考えの偏った頑固者』の雰囲気を、

周囲に醸し出すことになると思うよ。

 
まあね、こういう書き方すると、またね、憤慨する「怒り好き」さんが

きっといらっしゃることだろうけれど(^^;)、

別に、苦しいままでいいなら、それもご本人の選択なので、どうぞご自由に。

 
今の自分。嫌いな自分。

あるいは、ものすごく嫌いな部分、許せないところを持っている自分。

そこからは、本当に抜け出せるよ。

それは自分で、できることだよ。

 
そのために、他者との関係云々、以前に、

なぜここまで、私は私のことを批判してるんだろう、

ってところから、先に手をつけてみてね。

 
そのほうが結局、物事が、うまくいくようになるよ。

そのほうが、柔らかい自分になって、その柔らかさを醸し出せるようにもなるよ。

どうか、どうか、あきらめないでね。

 

2015_08_13
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だって○○だもの!

昨日書いた、前側の思考。

具体的にどんなものを指すかというと、

それは○○すべきでしょ!

それは○○であるのが当たり前でしょう!

○○に決まってるじゃない!

○○じゃないと、○○しないと、いけないのに!

という類の、

あなたの『もろもろの思い込み』のことである。

 
たとえばこれは、よく言われる例ね。

人を殴ったらいけない!

人を罵倒してはいけない!

そう思い込むあまりに、

しょっちゅう子どもに怒鳴って体罰を食らわせていたら、

親が目の前で見本を見せているのだから、子どもは混乱するだけ。

 
私は過去に、お姉さんの例も何度か挙げてきたけれど、

彼女は、認められたいあまりに暴走することがあり、

まわりにフォローさせたり、

まわりをイライラさせたりもする。

 
えーと、うん、それ、もしうまくいってると思えるなら、

ただの自己満足で、なんか視野狭すぎて、

却って迷惑なんですけど、という事態が起こるのだ。

 
さらにね、嫌いな存在である私に対しては、

関わりをできるだけ減らそうと思うあまりの、指示不足や、朝令暮改までやる。

それを指摘してもお姉さんは一切、謝らず、

前のは忘れてください、こうしてください。

などを平然と言い放つので、ほらほら、

2年目社員の男の子がびっくりしてこちらを見つめてるよー、

なんてことも起こって。

仕方ないからその男の子に、

大丈夫よー、こっちの処理の話だから、と、後から私がフォローすることになる(笑)

 
こういうのって、もうね、

あ、そう、わかった。次からそうするね、と流すだけだよ。

いちいち受け止めたくもない、面倒くさいから。

相手と私が「違う」だけだから。

 
じゃあ次からそうするね、という確認を取っておいて、

彼女がまた違うことを言ったら、

前に言ったことと違う、と気づいてもらえばいいし、

それを何度かやれば、元々は認めて欲しい子だから、

自分で慎重にやるしかなくなると思う。

……と、そんなふうに、周囲が冷たくならざるを得なくなっていくの。

 
ねえ。前側の努力だけしてる、その気持ち。

思い込みが強いと、その部分で、人に指示したくならない?

相手側の非の部分を示して、指導したくならない?

何かの、批判の言葉を相手に伝えたくならない?

あるいは、そうじゃないのに!!

と、ブツブツ独り言で文句を言いたくならないかな。

 
そういうのって、ときにさ、

100%、自分が正しいと思っている、

あるいは本当はそこまで強く信じてないのに、

常識的にこうであるべきだから、という大義名分を持ち出す、

心の奥では自分だってやりたくないのに、

無理してガマンして立派にやっているから、やらない人に腹が立つ……。

そんな状況に陥っている可能性もあってさ。

 
まあ、相手に正面切っての文句でも、それができないゆえの陰口でも、

持論を吐いて人を批判非難罵倒&指導したいタイプの人は、

この手のこと、たいてい、何を言っても「ケッ」って、なられるけどね。

『あなたが間違っているの!』って部分を、崩されないことも多いだろう。

 
ならばあなたが気持ち悪いから間違い?(^^;)あなたが法律?

「それは素晴らしい!」って言って欲しい?

って言いたくなるけれど、

そんな言葉は、残念ながら届かないのだ。

 
あと、これもまた、この前にも書いたけれど、

間違いだ! という種類のことを思い込んでいるなら、

あなたも同じく、それ、間違いだったりするかもよ?

そもそも相手と自分の「違い」を許さないのって、なんか「間違って」ない?

 
そういう言い方されたら、どう答えるかな。

やっぱり、

だって! ○○は○○○○だから、

○○○○○○するべきなんだもの!! って主張する?

 
はい。

つまりそういうのが、前側の思考です。

そこで終わらせてるよね、何かといろいろ。

 
そこだけでとどまって、そこで問題を解消するためにグチャグチャやるから、

かのお姉さんのように、

出来る人と見られたいあまりにトンチンカンな迷惑を他者にかける、

つまり結局、出来る人になれないまま、みたいな、ズレが起こることになるのよ。

 
何かを言われたときに脊髄反射みたいに、自分の中で、

だって○○じゃない! ○○なんだもの!

という気持ちが湧いてくるときには、

いつだって、このことに注意してみるといいよ。

 
あなたのその『だって』は、実はそれこそ、自分を苦しめる、

自分が望む方向と逆の結果を生み出す、

あなたにとっての

『諸悪の根源』

かもしれないからさ。

 
どうかいったん、そこでちょっとでいいから、立ち止まってみて。

そして「なぜこの『だって』を、私はこんなにも信じているのだろう?」

って、そっちのほうの答え、奥のほうの答えも、

どうか自分で勇気を出して、探してみてね。

 

2015_08_10

Photo by Josch13
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「前側」での努力を……

ここ何回かのブログで、

「前側で努力を続けている」とか

「コインの裏側だけの視点を使っている」と書いた。

 

この部分だけで実際、必死に『やる』、

感じて考えて行動することも、可能なのだと。

 

でもそれを続けていても、あなたは、

「自分が本当に楽な気持ちになって

よかった、と思えることが増えていく……」という状態には、

たどり着きにくいと思う。

 

なぜならそれはね。

ごめんね、以前の私がそうだったから

(そして今でも自分が戒めるようにしていることだから)、はっきり言うよ。

 

自分自身を「他人から認めてもらうために」酷使する

→そこで得る評価って、つまりは「自分のためだけ」である

→結局やっていることは、他者を、自分の自尊心を守るために利用している

ってことに、陥っているから、なの。

 

そこにどんな立派な、あるいは苦しい理由がくっついていようと、

「前側だけ」で努力を続けるって、そういうこと。

 

どうすれば私はこの人(社会含め)に認めてもらえるようになるだろうか

どうすれば私はこの人(周囲含め)から愛されるようになるだろうか

 

これは、本当にごめん「=イコール」

どうすれば私は

自分のことを好きになれるだろうか

なのよ。結局、自分で、自分を認めてあげたくてやってるの。

 

で、結果的にそれは(全部が全部ではないよ、もちろん、でも)

他者からしてみれば

なに「自分のことばっかり」に陥ってるの?

っていう、懐疑心にもつながりかねない。

 

自分を犠牲にすることで(そのために他者という存在を『使い』)、

自分を好きになろうとしている。

 

実際には、やり過ぎる人だけでなく、逆に動けない人もいると思うよ。

でも、自分を嫌うときにこの視点に陥っている部分で同じ、だと思う。

 

自分を嫌っていて、それを解消するために他者と関わりたいなら。

それは

他人を自分の都合で振り回す

という事態にも、容易に陥るのだ。

 

しかも、そのときって自分は「犠牲」になっているから、

尽くしているつもり、一生懸命やっているつもりだから、

自分ではそのことに気づけない。

ゆえに他者がそれを受け入れないと、速攻で、これまた簡単に

「裏切られた」「傷つけられた」「ひどい」「なぜわかってくれないの」

という視点にハマる。

 

他者とつながれなければさみしい、というのは

他者を経由して自分を認めてあげられるチャンスがなくなるから、

自分の価値が見えなくなって苦しい、でもあるのだ……。

 

だから言う。

そんなことしなくても、本当にいいんだってば。

前側で必死に自分を「高めて」いくよりもっともっと前に。

 

なぜ自分が、自分のことを

こんなにも認めてあげられないんだろう

 

という部分、そのガチガチの信念を先に解きほぐせ、

と、ごめんね、命令形使っちゃって、でも、声をにして言いたいのだ

(今日は大文字、色文字使いまくって、これもまたごめんなさい)。

 

そんな、他者を利用しまくるという「ややこしい」ルートを使わなくても

私は、『この私』であっていいんだ

と思うことのほうを「土台」にできるのよ。していいのよ。

というか、それを土台にするからこそ、

なんか、うん、これでいいのね、

これ、幸せかも

というところへも、勝手につながっていくの。

 

あなたは、他者を使わずに、幸せになっていい。

あなたは他者から誤解を受けずに、幸せになっていい。

単純に幸せ、であって、いいの。

 

罪も罰も、○×も、実はそこに存在していないんだよ。

それ、あなたの思い込みによる「空想」だから、本当に。

 

そして、そうなるために必要なヒントも、そうなるための答えも、全部

あなたが持っているのよ。

「前側」を自分が努力し続けたくなる(あるいは逆に、

もう怖すぎて動けない)、その気持ちの奥。

奥なのだから、そのガチガチになった部分の「理由」を知っているのは

あなただけで、『あなただから』その理由を見つけて、解きほぐせるの。

だって、ほかの誰が、その信念の「根っこ」のこと、知っていると思う?

 

ゆえに、これを「見つけてあげます」という人がおかしくて

「探すサポートなら、できますよ」という人のほうが

まともである理由も、わかるよね。

「見つけてあげます」の人もまた、他者を利用して自分を認めたい人だ。

 

そのために、自分の力だけでなく、本やカウンセラーや

その他いろいろなサポートを、

自分から選んで使ってみて、と言っているのだ。

 

すごい人たちは「なぜ、そう感じるの?」

「こうであったら、いけないのかな?」

という「問いかけ」を、バンバンしてくれるよ。

命令ではなく、説教でもなく、あなたに「質問」をし続ける。

その答えを知っているのはあなた自身

であると、皆さん、ご存じだからね。

 

どうか、「前側だけ」を見つめて努力しようとするその気力を、

奥を見つめてみる「勇気」のほうにも、使ってみてください。

 

他者は、使うためでなく、気づきのために、存在してくれているよ。

気づきを与え合える、という信頼関係を、あなたも他者と結べるのよ。

 

あなたの世界が、変わるよ、文字通り。

 

2015_08_09

Photo by DeltaWorks
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