木元見春 のすべての投稿

流れの中で

流れを無理に変えなくても

流してしまえること たくさんあるよ

あなたが全部

わざわざ

自分の思い通りにしようとしなくても

流れの中で 自分がどう楽に泳ぐか

そんな視点もあるよ

 
まあ そのためには 自分を見捨てていることを

自分でやめていくことが 必要になるけれどね

自分を粗末に扱っていたら

どうしたって 外側に向けてだけ 働きかけたくなるから

流れの中で うまく泳ぐの かなり難しくなる

 
自分を見捨てている人は

流れてくるものを全部 いったん受け止めて

それから 取捨選択するしかないからね

外側にばっかり働きかけるのってそういうこと

そのために自分を酷使する

自分が信じられないから そこでどうしても

私はこれでいいや って 身をかわせないの

これでいいや なんて 怖くて思えなくなっているはず

 
風は流れてくる

水も 流れてくる

変化していくのは とても自然で 当たり前のこと

 
なのに あなたはいちいち それらを全部受け止めないと 気が済まなくなっている

当然 時間も足りなくなるし いつもいっぱいいっぱいだし

全部 見てからでないと 手放せないし

だから悪いことさえも どんどん 受け止めてみようとするの

 
ねえ 流れてくるものを そこまで全部拾いまくって判断して

自分にとって都合のよいものを より分けようとしたら

絶対と言っていいほど あなたの周りは よどむよ?

 
よどんだ空気 よどんだ水 それを想像してごらん?

うまく流れなくて どんどん溜まっていく一方で

だからこそ あなたはどんどん欲深くなって

ますます これでいいや なんて思えなくなる

手放すのが 怖くなる

痛いものも傷つくものも 苦しいものも

あなたが 手放すことをしない

 
その結果 あなたの周りは 重たくて辛いことがたんまり 溜まっていくのだ

 
で 勢い 生きてるの 辛くなるんだよね

もう何もかも全部 本当は投げ出したくないのに 投げ出したくなる

本当は いちばん イヤなやり方なのに

すべてを 投げ出したくなるんだよ

 
あのね

よどんで 苦しくて 辛いなら

溜めたものを全部一気に捨てて 逃げる

そのやり方でなくても別にいいんだよ

それしかないと思えるくらい 苦しいだろうけれど

そのよどみの中には

確かにあなたが大切にしたいものも 含まれている

 
だからまずはその 悪臭を放ちつつある

~べき だの ~なくてはいけない だの

全部受け止めてみるために選んできた

物事の捉え方を 捨ててごらんよ?

 
ものすごく凝り固まって 重くて辛い

その 立派になるための義務感とやらをね

まずは捨ててごらん

 
そして どんなにダメなあなただって

もちろん自分を 喜ばせてあげていいことを

そっちのほうを 勇気を出して 背負ってごらんよ?

 
食べるもの 飲むもの 寝る時間 歩く道筋

どんなに小さいことでも全部 

あなたが 楽しくて うれしくて ホッとできるほうを 

今はまず 選んでごらんよ?

 
相手にとって居心地の良い 選択ではなく

自分にとって居心地のよい 選択 してごらんよ?

 
あなたが 自分を見捨てるからこそ 今 よどんでいるんだよ?

流れを無理にせき止める必要なんて どこにもないの

流れを楽しむことさえ 本当はしていいの

 
そのために必要なのは 

逃げ出すことでなく

勇気を持って 

自分を大切にするほうを選ぶ気持ちを 

本気で 自分に対して 覚悟させることだ

 
人の顔色ばかり見ているから 

いつまでたっても振り回されるし

いつまでたっても よどみに『要らない荷』を貯めていくのだということ

 
その 良い子の振りは もはやいろいろ辛すぎて

単なる嘘の 塗り重ねでしかなくなっているでしょう?

そこまで自分を追いつめているのだよ?

本当に自然な状態なら あなたは普通に 良い人なのに

なぜ 嘘ついてるみたいな形になってしまうやり方を わざわざ 選び続けるの?

 
本当に今 いちばん見るべきは あなた自身の顔色なのだということを

ねえ もうそろそろ本気で 覚悟してごらんよ……

 

2015_08_04_1

Photo by Herm
Pixabay

 

思考の中身

自分の思考が『物事を自分にとって悪く捉える』になっている場合、

いいか悪いか、どっちとも受け取れるような状況(一瞬、自分が

どう解釈していいかわからないときとかね)

においては、毎回、ほぼ、相手に悪意がある、と取る。

 
そのうち、その相手が楽しく笑っている場面でさえ、

まるで当てつけるかのように笑っていやがる、いい子ぶって、

などどいう、とんでもない方向へ自分の思いが進むのだ。

相手が、ただ、笑っているだけなのに、

あなたが勝手に、そう解釈する。

 
そしてそれこそ、相手に当てつけるかのように

ツンツンした態度を取るようになる。

 
ねえ。

物事を、そんなふうに解釈しているのは、他ならぬあなただよ。

相手が悪いのでない、相手は単に笑っているのだ。

 
逆のことやられたら、すぐ気づくでしょう?

そして『なんてさみしい、あるいはさもしいこと考えてるのだろう』って、

思えるでしょう?

 
ならば、あなたが、同じ土俵に立つのをやめなよ。

たとえ相手がそれをやってきたとしても、

あなたが相手と同じ穴のムジナになる必要、どこにもないよね?

 
物事を、悪いほうに受け止める練習ばかりしていると、

こういうことがたくさん起こるようになって、

ますます自分が苦しくなるんだよ?

相手がどうこう、だけじゃないよ。

あなたもまた、どんどん、周囲の状況を悪く解釈して、

そんなことしたら、解釈されるほうも当然、不愉快になるから、

それこそ本当に、状況自体も悪化するんだよ?

 
自分が自分を嫌っていると、

世界があなたを嫌っているかのように見えてきて、

その証拠もどんどん集まるように感じられるのは、

結構、こういうからくりなのだと、私には思える。

 
だから、何度でも言う。

何かを何とかしてどうこうすることで、

問題を解決しようとするよりもっと前に、

 
あなたが自分を嫌っていること

 
それに対する解釈を変える練習することのほうが、

絶対に先なんだよ。

 
自分を好きになり始めたら、気づくよ。

世界は、あなたに実は、結構というよりかなり、

優しくしてくれてたんだってこと。

 
あなたが自分の状況を変えたいなら、

あなたが自分を嫌うのを、

あるいは嫌っている部分があるのを変えることから、始めるしかない。

 
立派になれとか、達観しろとかいう話でもないよ。

ただ、自分が楽になれるのであれば、

それはそれでうれしくて、つまりは幸せな話じゃない?

なら、そういう物事の見方、捉え方を

練習してみていいんじゃない?

そのためのきっかけに必ずなる、と言えるくらいな気づきが、

自分が嫌っている自分、

あるいは自分の内側の『気に入らない部分』に

潜んでもいるんだよ。

 
結局のところ、問題って、そこのところをわりと必ず、

通過するものなんだな、と、最近の私には思えるのです。

なぜやったらダメなんだろうね、そういう方向の、気づきの練習。

あなたを怯えさせているものの正体、つかんでみたら?

 
それもまた、ただのきっかけ、なのだから、使ってもいいんじゃない?

 

2015_08_02_1

Photo by ゆんフリー写真素材集

 

「違い」と「間違い」

違い と間違い

これって文字は 同じだけれど

意味は 全然違うよね

 
間違いの反対語は「正解」で

違いの反対語って「同じ」だよね 

間違い と 正解 の間には はっきりと溝があるけれど

違い と 同じ の間は 「似ている」という段差などもあって

性質がもう 全然 別ものなのだ

 
そして 自分を卑下する人に見られるのが

他者との意見の違いを

それは単なる 違い なのに

どっちが正解で どっちが間違いか

というところに 持っていってしまうことだ

たとえ相手が プンプン怒りながら

「それは違うわよ!」と言ってきたとしても

うん あなたと私は そのことについて

確かに違いを持っているね

と 同意できる話なのよ ホントはね

 
まあ 怒っている相手はそれこそ『間違い』のニュアンスで

違う! と言ってるわけだろうけれど

そうだよねって 違いを認めてしまえば

こっちは別に 怒らなくても

または落ち込まなくても いいのよ……

 
わかるかな

他者と 自分が違うこと

それを ダメとか いいとか

良し悪しにまで つなげて捉えるのは

自分自身が 選択してるんだってこと

 
たとえ相手が「間違いだ!」と叫んだとしても

それはその人の価値観における良し悪しであって

あなたが完全に同意しなければいけない なんてルールは

たいていの場合 本当には そこには存在していない

 
なのにどっちが良くて どっちが悪いか 

裁こうとするのは あなたもまた 自分で選んでやっているんだよ

裁こうとしてくる相手が目の前にいたって 

それはその相手の価値観でやっているのだから

 
ああ そこは あなたと私で違うのね 

 
ってことなのよ

どちらがより良いかなんて 

対峙する相手によっても その都度 変わるんじゃない?

 
ふーん そう思うなら こういうときにはこうしてね

私は私で こうするわ

で おしまいにしたって よかったりするよ?

 
それを 良いだの 悪いだの

私はまた『間違って』しまっただの

相手が『ひどすぎる』だの

良し悪し 怒り 被害 いろいろなものをくっつけて

自己の自信喪失にまでつなげたりもするやり方を

毎回毎回 別に 選ばなくてもいいんじゃないかな?

 
いろいろなものをくっつけまくって

違いを 間違いかどうか にまで変化させるのは

もうやめても いいんじゃないかな?

 
あなたには あなたの捉え方がある

私には 私の捉え方がある

それが大きく隔たっているときは

私は悲しく感じるわ 

私は残念に感じるわ ってことだよ

 
必要なら 折り合いをつけられるようにしてみる

あるいは「似ている」ところまで

お互いが歩み寄ったっていいのだし

(これ 一方的にやるのは無理だよ 感覚的に納得できないと 

自分に嘘をついて 無理させるだけだからね)

 
さらにそこから

そうか 私はこういうことを大切に思うのか

これを大事にしたいんだな って気づきも生まれたりするから

なら 私はそれでいいや それを大切にしよう って 思っていいんだよ?

 
相手を批判して攻撃したり

自分を攻撃して 非難しまくったりするそのパターンって

ときにはそこに

『私が素晴らしいって認めてよ!』

のニュアンスがくっついたりもするからさ 

実はそれ プリーズ 認めて って言いたいだけかもよ?

 
これは私も普段から

気をつけて練習していることなの

間違い ではなくて 違い

そこを意識するだけで 少し自分が穏やかになれたりもするから

よかったら 試してみてください

 
当然のことながら この前提として

相手と私は 違っていてよいのです

一緒じゃないとイヤ! という人は

それこそ 他者を自分の思い通りに

コントロールしたいんだなっていう可能性も含んでいることに

気づいてくださいね

 
あなたが誰かに 思考を強制されたくないのと同様に

他者もあなたに コントロールは別にされたくないだろうと思えますよ

 
その辺は 大人になって

違うことを認めても いいんじゃないかな?

と 自戒も込めつつ 最後にささやいておきますね

 

2015_07_29

Photo by condesign
Pixabay