違い と間違い
これって文字は 同じだけれど
意味は 全然違うよね
間違いの反対語は「正解」で
違いの反対語って「同じ」だよね
間違い と 正解 の間には はっきりと溝があるけれど
違い と 同じ の間は 「似ている」という段差などもあって
性質がもう 全然 別ものなのだ
そして 自分を卑下する人に見られるのが
他者との意見の違いを
それは単なる 違い なのに
どっちが正解で どっちが間違いか
というところに 持っていってしまうことだ
たとえ相手が プンプン怒りながら
「それは違うわよ!」と言ってきたとしても
うん あなたと私は そのことについて
確かに違いを持っているね
と 同意できる話なのよ ホントはね
まあ 怒っている相手はそれこそ『間違い』のニュアンスで
違う! と言ってるわけだろうけれど
そうだよねって 違いを認めてしまえば
こっちは別に 怒らなくても
または落ち込まなくても いいのよ……
わかるかな
他者と 自分が違うこと
それを ダメとか いいとか
良し悪しにまで つなげて捉えるのは
自分自身が 選択してるんだってこと
たとえ相手が「間違いだ!」と叫んだとしても
それはその人の価値観における良し悪しであって
あなたが完全に同意しなければいけない なんてルールは
たいていの場合 本当には そこには存在していない
なのにどっちが良くて どっちが悪いか
裁こうとするのは あなたもまた 自分で選んでやっているんだよ
裁こうとしてくる相手が目の前にいたって
それはその相手の価値観でやっているのだから
ああ そこは あなたと私で違うのね
ってことなのよ
どちらがより良いかなんて
対峙する相手によっても その都度 変わるんじゃない?
ふーん そう思うなら こういうときにはこうしてね
私は私で こうするわ
で おしまいにしたって よかったりするよ?
それを 良いだの 悪いだの
私はまた『間違って』しまっただの
相手が『ひどすぎる』だの
良し悪し 怒り 被害 いろいろなものをくっつけて
自己の自信喪失にまでつなげたりもするやり方を
毎回毎回 別に 選ばなくてもいいんじゃないかな?
いろいろなものをくっつけまくって
違いを 間違いかどうか にまで変化させるのは
もうやめても いいんじゃないかな?
あなたには あなたの捉え方がある
私には 私の捉え方がある
それが大きく隔たっているときは
私は悲しく感じるわ
私は残念に感じるわ ってことだよ
必要なら 折り合いをつけられるようにしてみる
あるいは「似ている」ところまで
お互いが歩み寄ったっていいのだし
(これ 一方的にやるのは無理だよ 感覚的に納得できないと
自分に嘘をついて 無理させるだけだからね)
さらにそこから
そうか 私はこういうことを大切に思うのか
これを大事にしたいんだな って気づきも生まれたりするから
なら 私はそれでいいや それを大切にしよう って 思っていいんだよ?
相手を批判して攻撃したり
自分を攻撃して 非難しまくったりするそのパターンって
ときにはそこに
『私が素晴らしいって認めてよ!』
のニュアンスがくっついたりもするからさ
実はそれ プリーズ 認めて って言いたいだけかもよ?
これは私も普段から
気をつけて練習していることなの
間違い ではなくて 違い
そこを意識するだけで 少し自分が穏やかになれたりもするから
よかったら 試してみてください
当然のことながら この前提として
相手と私は 違っていてよいのです
一緒じゃないとイヤ! という人は
それこそ 他者を自分の思い通りに
コントロールしたいんだなっていう可能性も含んでいることに
気づいてくださいね
あなたが誰かに 思考を強制されたくないのと同様に
他者もあなたに コントロールは別にされたくないだろうと思えますよ
その辺は 大人になって
違うことを認めても いいんじゃないかな?
と 自戒も込めつつ 最後にささやいておきますね
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