木元見春 のすべての投稿

そう思っていないときにも「はい そうです」と答えていたら

自分が納得していないときにも

相手からの愛情ほしさに

相手から見捨てられるのが怖くて

相手のことをわかってあげられるのは私だけだから

 

はい そうです それが正しいです

そうだね

 

って「同意」を示していたら

 

今度は逆に

相手の愛情の度合いを測るためにも

同意してくれるかどうか 試したくなるよ

 

自分がそうやって 愛情を 仲間意識を

示してきたから

他者もまた

そうやってくれるのが 愛情のはずだと

思うようになるよ

 

共感 と 同意 は別もの

あなたはそう感じていて つらいのね

というのは

ええ そうですね とは 違うよ

 

なぜ自分が 同意のほうを ある種の

愛情のバロメーターにしてきたかというと

ゴメンね まず最初にあなたにそのやり方を

強いてきたのって

親である場合 多いみたいなんだ

 

せっかく 間違いではないことを 子どもに伝えているのに

そのとき一緒に たとえば罰も与えるの

ご飯食べさせないだの 叩くだの 

家から追い出すだの ウチの子じゃないだの 

言うこと聞かないと そうするよって

問題解決のために 他の圧力も使うの

 

子どもは 怖いから言うことを聞く

親が言った内容でなく 親の取った行動で やめるだけ

納得してなくても 嫌われるのが怖いから

痛いのが苦しいから 同意した振りをする

 

子どもは そうした圧力 罰の同意も また

愛情の示し方の『一種』なんだと 子ども心に 把握するそうだ

 

だから親から 立場的な圧力で 押さえつけられた子どもが

他人にまた 意見を押しつけるようになったり

とくに暴力を振るわれた子どもは顕著に

大人になって 同意欲しさに 家族には立場的な力 使っていいのだと

自分が愛情を持った大切な人に 同意してもらうには 

暴力もまた使っていいのだと 認識するのもそのためで

子どものときのDV被害者が

大人になってDV加害者になるのは

もちろん全員ではないけれど 残念ながら ある種の事実らしい……

 

そんなやり方ばかり しなくてもいいのにね

共感 から すり合わせ でも いいのにね

 

近い存在の他者が苦しいときに 先にいったん 共感を示せること

そうか あなたは そう感じていて辛いのね と伝えること

これはたいていの場合 相手を苦しませず

とてもステキな感じで 届くと思うのだけれど

 

この言葉を発するためには

その相手がたとえ 自分の身内だろうと 愛する人であろうと

あなたと私は 別の人間である ことを

最初から認識している必要があって

それゆえに あなたと私の感じることは 違う場合があって

それでもいいのだ ということを 踏まえている必要があると思う

 

つまり自分は 大切な他者と違う感性や感覚を持っていてもよくて

それは『普通』で『自然』なことであり

私は 私の感じることを 大切にしていいと

「わかっている」ことが 重要なのだ

 

それがあって初めて 共感を示せるのだと

もちろんね しつけの範囲では 共感のあとに

そのやり方だと こんな問題が起こって あなたはこんなふうに困ることになるけど

それでいいのかな と伝える必要があるのだと思う

 

でも しつけをする際にも 共感を示すことは大切 と あらゆる人が言っているのは

確かにそうだな と思えるの

そうされた子どもは 自然と他者にも それが できるようになるだろうなと

 

理解していなければ ときには失敗もして 痛い思いもしてしまうだろうけれど

それによって 確かに そうだったと知ることができれば 痛さは学びに変わる

暴力に限らないけれど なぜわからないの わかってくれないのよ と

圧力による同意を使うのでなく 共感を使うやり方は

子どものときから練習していければ

とてもステキな感性のひとつになるように思えるのだ

 

と 子どものしつけのことまで 例にしてみたのは

この例なら 伝わるかな と思ったの

自分がそうやれば 相手にもそういうやり方 伝わるようになっていく

それが自分にとって大切な人であるほど 伝わりやすいように思えるのだ

 

だからね そのためには

「私」が 何を感じる人間であるかを

否定せずに 知っていくことが とてもとても大切だと 私は思っている

私の感じることは いつも間違いだの

相手とは違うだの

そんなふうにすぐ採点すること自体 本当は変な話

あなたと私は 違う人間なのだから

感じることに 違いがあって当然で

どちらも『間違いではない』場合も たくさんあるのだ

 

私が いいと思うこと

相手が いいと思うこと

ときにはその感性が違う 

これが当たり前の前提で

 

自分の感性を 論破で あるいは圧力で 押しつけるのでなく

逆に同意を 押しつけられるのでもなく

どっちのほうが お互いにとって よりいいだろうね? と

すり合わせしていけばいいことなのだと

 

どうしてもそれは心地悪いから これについては私のほうに合わせてくれない?

と尋ねることと

こっちがいいに決まってるでしょう! と 叩きつけるのとでは

同じこと伝えているのに 相手の受け止め方 全然違うよね

 

逆のこと されても

うん あなたはそれがいいと感じるんだね

では私は こう感じているけれど

あなたがどうしても嫌なら あなたのほうの意見でやってみよう って

言えるんだよ

 

だからね おびえている人に 伝えたいの

相手と自分との感性や気持ち 感覚が違うことは

自分の視野を広げるきっかけに使えることであって

愛情を失うだの 嫌われてしまうだの

そういう苦しさに使うものではない

 

本当はそう思ってないことを 失うこと怖さに

そう思っています と ウソをつくことのほうが

自分にとって苦しいし

相手にも誤解され 実は相手にも 失礼になるよ

 

私の言うこと 間違いではないでしょう?

うん その通り『間違い』ではない

ただ単に 他にも『間違い』ではないことはあり

それぞれが別の『間違い』ではないことをよいと思っているだけ

それを すり合わせてみればよいのであって

非難することでも されることでもないし

より正しいかどうかを証明する必要がないことも多い(自分の良さ 素晴らしさを

他者から承認してほしい人は これをやりがちで 私も気をつけていることである)

 

そのために 共感 も使おうよ

従うのでなく 従わせるのでもなく

 

先日ね まずいったん 批判せずに『自分嫌い』の感情を

地面に穴を掘って 埋めてしまって

平らにならしちゃえ って

私が言ったのは このためでもあってね

 

自分がどう感じる人間であるかを「改めて」知るためには

いいだの悪いだの 正しいだの間違いだの

そういうジャッジ 一切しないで見る必要があるからさ

 

あなたのbe(感じること 状態 あり方)を

あなた自身がまず知ること

そしてそれは 批判や褒賞の対象にするものではなく

ただ そうなんだ と知ることが

そういう私なのねと 受け止めて腑に落とすことが

相手に共感を示すための 土台になるの

 

心屋さんや武田双雲さんが言ってるのは

あなたのやり方(do)ではなくて

あなたのあり方(be)のヒントで

あなたはあなたで 素晴らしい かけがえのない存在だっていうのは

紛れもない事実 なのだと 私も思う

 

あなたが 他の人とは違っているから

他者は(もちろん私も含め) 新しい捉え方 考え方 を知ることができる

私はあなたのおかげで

自分が何をいいと思う人間であるか 知るきっかけにできるの

すべての人に 違いがあるのは 本当は とてもステキなことなんだよ

そういうふうに受け止めて 自分が使っていければね

だからさ あなたの感性や感覚を否定する必要はないし

ましてやあなたの『存在』(be)を否定する必要なんて 

本当は まったく ないのだよ……

 

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Photo by GLady
Pixabay

 

追伸:

子どもに対して 本当にやってはいけないことを伝えるために

たとえば自分や他人をひどく粗末に扱ったりするときには

それが絶対にダメだと知らせるために 頬を叩く場合もあること

それを私は あり得ると思っている人間です

そういう「目覚め」が必要なときには です

 

人が他者に対して どれほど人という存在が大切であるか 

本気で知らせるために たとえば泣きながら 相手を叩くことがあるのは

自分の言うことを聞かせるために相手を叩くのとは

まったく意味が違うと 捉えています

 

なので すべての暴力反対 の方には

その点で 私は別の感性を持っていると

捉えていただければ幸いです

 

 

何かしないと「もらえ」ない

実績あげなくちゃ

思いやり示さなくちゃ

常に点数取らなくちゃ

 

そうじゃないと 私は 与えてもらえない

 

これがベースになっていると、

必ず何かをしないと、自分は

「してもらえない」存在なのだと、

自身へ言い聞かせているに等しいこととなる。

 

それで、かえって、ときには評価を奪いに行ってしまう。

「どう?」「これでいい?」「うれしい?」

「素晴らしい?」「さあ、点数つけてよ」

って他者に(態度や視線で訴えるのも含めてね)、言いに行ってしまう。

 

それって、他者が自分から「いいね」と言い出すチャンスは、

少なくとも、奪っているわけなのですよ。

相手が自由に感じて、思いをめぐらせる隙間を、与えないのです。

 

自分がそうするのはなぜか?

不安だから。

 

じゃあ、あなたが不安だったら、相手の自由、奪ってもいいのかな?

他人に気を遣っているつもりで、実は他人に気を遣わせてばかりになってないかな?

 

もし近い関係の相手なら、あなたの不安を取り除くためには、

相手が常に常に常に、

あなたを「良いと評価し続ける」必要があることになってしまうよ、それ。

 

不安のほうを、自分で、自分のために、手放す練習、したほうがよくないかな?

もらおうとすることに注目するのでなく、

なぜここまで私は奪いに行こうとしてしまうのか、の根っこにある

「自分への不信感」について、探ってみてもいいんじゃないかな?

 

そしてまた、自分を外側からだけ、変えようとしたら、

そこでも「何かをしなくちゃ」いけなくなるよ。

 

何かをすることで自分を変える前に、

何を感じているのか、それはなぜなのか、

なぜこんなに不信感や不安だけに、自分がわざわざ注目しているのか、のほうを、

『違うやり方』で探ってみてもいいのだと思う。

 

夢がないとか、お金が、ステキな見た目が、などの「得る」こと、

やった結果という『do』の部分でなくてね。

自分を信頼して呼吸できること、っていったい、

どんな感覚なのかな、ってことを、覚えてみる、知ってみる練習、

始めてみてもいいんじゃないかな?

 

誰にも構ってもらえない、見捨てられた状態、

つまりそういう『be』が怖いんだよね?

 

でもあのさ、基本的なところで、自分が自分を見捨てていなければ、

別にそんな「見捨てられている状況」なんて、発生しないのだよ。

 

発生しないの。本当に、本当の話。自分が常にそばにいる、ある、から。

 

つまりね、逆を言えば、

常にあなたが『自分を見捨てて外側から受け取ること』を当たり前にしているから、

それが基本の『状態』(be、あり方)だから、

何かして(do)、結果を受け取ることに注目しちゃうのだと、私には思えるの。

相手がどう受け止めるかは、相手のそのときの状態(be)によっても変わるから、

相手の状態(ご機嫌、be)を読み取るには?

そしてよい結果を出す(示してもらう、

相手にも反応をdoしてもらう)には?

そのためのよいやり方とは? のほうにばかり、注目しちゃう。

 

で、その結果、やってみて起こる『状況』は、

相手側が示そうかどうか、示すのなら、どう示そうか、

という思いをめぐらせる自由をなくしてしまう、

そういう形で相手に「良い評価の強制を求める」可能性さえあるんだよ?

 

それって結局、

『自分本位』と受け止められてしまうかもしれないよね? 相手には。

意図したことと、真逆の事態が起こるよね。

 

あなたが自分を今のようにただ批判しまくって嫌っていたら、

周囲には自分本位と取られかねない。

そんな悲しい『状況』って、嫌だよね?

 

だからさ。

私がやってあげる、あるいはやってしまう、

誰かに対する何か、が問題ではないの。

 

あなたにとっての「自分という存在」との、

良い関係づくり、がポイントなのよ。

 

自分に対してイラつく点、腹が立つ点、たくさんあると思うけれど、

それ全部、きっと「誰かに言われたこと」がきっかけ、

誰かからの反応がきっかけなはず。

求めに行きまくっているわけだから、当然、ほとんどが他人がらみだと思う。

そしてそれを、失敗などと、捉えているはず。

自分を嫌う理由、根拠にも、しているはず。

相手にも都合や気持ちがあるから、たまたまそのとき、相手がよくない状態(be)で、

だからこちらが、よくない反応、評価の言葉(相手のdo)という結果を、

受け取っただけかもしれないのに。

 

なのでね、全部、いったん、地面に埋めちゃってください、

その自己評価、というか、自己批判。

相手のそのときの都合、混ざりまくってるから、きっと必ず。

 

一切がっさい、捨ててください。

ただ捨てるだけでなく、地面に埋めちゃって、

さらに、平らな土地にならしてしまってください。

 

もう、その過去は、いいから。

十分、その思い出、苦々しく味わい尽くしたから。

地面に、還してあげてください。

 

本当に本気で0から、

改めて始める、自分との関係。

そこに、注目してあげてくださいね。

その覚悟ができるかどうかは、この先、とても大きな違いを生むと思います。

 

他人の失敗を延々恨んでいたら、ちっとも幸せになれないままだよね?

それと同じく、自分の失敗を延々、呪っていたって、

何も変わらないし、変えられない。

逆にそれは、変えることを拒否さえしてしまう態度でもあると、

私には思えるのです。

 

完全に埋めちゃって、ならしちゃえ、まず、自己批判そのものを。

目の前から、消してしまってください。

 

そこからが、スタート、だよ。

 

2015_05_22

Photo by フリー写真素材 Futta.NET

 

○○が言ってたから……

だって○○も そう言ってたしね

この言葉を 会話の最初や最後に自分が使うとき

あるいは心の中で思うときには

自分自身に一度 問いかけてみてもいいと思う

 

『私は 本気で それに納得しているのか』ということを

 

伝聞であると 相手に伝えること

それは ときに 聞いた側の人に

「私本人は内容の責任 取りたくありません」

と 受け止められてしまうこともあるから

 

私は 誰かに言われた通りに 受け止め感じているだけで

それが私の本当の感覚であるかどうかは

私にも 実はわかっていません と

伝えているかもしれない

 

よく似た たとえでは

イジワルを言う子どもが

「みんなそう言ってるわよ」

と付け加えるようなもので

 

ではその みんな って誰だよ

直接 あなたと同じ意図で言ってるかどうか

自分で確認してみて もしそうなら

その人たちの意見も参考にしたいから 教えてよ

って 尋ねたら 実は

一人か二人 その子の意見に

深く考えず そうかもね って

同意しただけだったりするかもよ?

 

そして そう言葉を返されたイジワルな子ども本人は たいてい

「みんなって……だから『みんな』よ!」くらいの

説明しかできず しどろもどろになったりもするよね

それもまた 責任を取りたくない

そういう気持ちの 現れだったりするわけ

 

あるいはまた

たまたまね それを知ったきっかけが

本に書いてあった テレビで言っていた であって

さらに『ああ その通りだな』と 自分が感じて納得した

なので 自分がそう感じたってことを伝えるね

 

と 相手から言われるのと

 

本に書いてあったのだから

テレビで言っていたのだから

そうなのよ! 

 

と言われるのは 聞いた側が 

受け止める感じ ずいぶん違うよね?

 

前者は

「私が 知った内容を受け止めて

なるほど と 思い

同じ感覚を持っている人間であることを 自分自身で感じたから

それをあなたに 伝えるね」 だから

そう感じたのは自分自身であることが 相手には 伝わる

 

で 後者はね

「本 またはテレビが言っていたことを

私は信じるの 

だって 本やテレビで言うってことは

誰か偉い人が 言うという権威があるでしょう

あるいは 公共に出すのだから

ウソではないと いうことでしょう

だから あなたに 伝えるの」というような感覚であって

内容よりは 本やテレビというものの権威を信じているからだってことを

相手に 伝えているよね

 

じゃあその「中身」について 

あなたは「どう感じた」か?

その部分は 相手に届かないよね

 

こうなると

あなたの意見は どこに行ったの?

って 下手したら『虎の威を借る狐』みたいに

受け止められてしまうことだってあるし

あるいは あなたはテレビの 信奉者なの? 

テレビに言われたら 盲目的に信じてしまうの?

って 思われるかもしれない

 

あなたのほうも別に 知ったかぶりをして

知識を自慢したいわけではないよね?

だったら 自分自身がどう感じたかの部分は

挟んでいいんじゃない?

それを知ったのはたまたま○○がきっかけなだけであって

○○が言ってた『から』信じて 伝えるわけじゃないよね?

 

まあ 上司と 新人の間で板挟みになって

上司の意向を伝える役目を仕事として振られて

仕方なく「○○さんが言っていたのだけれど」であればさ

そういう『仲裁役の伝書鳩』を自分がやらされているだけで

これは自分の本意ではないよ と 新人にも伝わるかもしれないけれど

 

だいたい そういうときには「私は こう思うんだけれどね」っていう説明を

あなたもまた 挟みたくなるはず

 

たぶん「○○が言っていた」というこの表現は

そういう感じのときにのみ 使ったほうが

私はね 無難だと思えるのさ

 

あるいは本当に 紹介したくなったのなら

素直に 紹介するね って言えばいい

それがさも「正しい」かのようには 表現しなくていいのだと 思えるのだ

 

あとね バリエーションとして「○○がやっていたから」もあるよね

テレビか何かの宣伝文句でもないのだから 

そんな付加価値 つけなくても良くない?

 

いずれにせよ

あなた自身の感性を もっと大切にしてあげて

自分がなぜそう感じるのかも 自分のために つかんであげていいのだと

そうすれば 権威に黙って従うかのような表現は

使わなくても すむようになると思えるよ

 

今日はわざわざ 当たり前にも思えること書いてみたけれど

もちろんこれがテレビや本だけの話に限らないことが

どうぞ必要な方に 伝わりますように……

 

2015_05_19

Photo by Misha Dontsov
ID:201307140400
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