木元見春 のすべての投稿

『ない』を 見つめて

食べられる食べ物 もらえて

着られる服 もらえて

眠れる寝床 もらえて

風邪を引いたら看病 薬 もらえて

学校へ行ける環境 もらえて

お出かけする自由 もらえて

 

で さらに?

自分をもっと えこひいき してくれなったから

求めるだけのもの 存分に返してくれなかったから

足りない足りない足りない

だけを見つめる?

もらえてないもらえてないもらえてない

それで憎み続ける?

 

代わりに誰か

私を えこひいき してよ!

って?

 

あなた自身の力は

あなたのためには使わない?

誰かから 何かをもらうためだけに使う?

 

あなた自身が持ってる

思いやりや優しさや愛は

自分のためには使わない?

ある特定の

あなたが狙いを定めた誰かから

何かをもらうために

交換物として 渡すだけに使う?

 

狙ってない相手からは 拒否してるもんね 実際

 

うん

自分が欲しいもの

自分が望む限定的な相手からだけ

差し出されたときに

初めてあなたは

きっと 満足するだろうけれど

 

そのあとで

それがちょっとでも減ろうものなら

また 足りない地獄 へ逆戻りだね

 

それさ

相手を 奴隷のように扱わない限り

望む量を望んだときに必ずもらうことなんて無理だから

つまり相手を 自分の奴隷か人形にしたいんだね

 

自分が 

自分を尊重しないと

他人のことも 結局は

尊重 できなくなるのかもしれないね

 

有ることが難しい

=有難い

だから ありがとう で

つまり ありがとうの反対は

『当たり前』らしいよ

 

ということは

あなたが今の『ありがたさ』を

当たり前と思い続ける限り

望む相手と違う 他の人からなんて いらない!

って やり続ける限り

あなたはずっと

足りない地獄

もらおう地獄

のループから 抜け出すこと 困難なのかもね

 

そもそもが恵まれた国に 生まれていることだし

与えてもらってきたもの きっとたくさんあるよ

ゴミの山の中から瀕死の状態で

助け出された過去を 持ってる人

きっと少ないよね

 

だから 他の見つめ方も

他の在り方も

試してみてもいいんじゃない?

 

欲しい欲しい欲しい

ないないない

それだけを思い続ける

そのままの状態でいるよりは さ

 

幸せ という気持ちは

そもそも自分が

内側で感じる感覚だってことは

さすがに 知っていると思うのだけれど

ねえ なぜ外側だけを 探すのだろう?

 

それもまた あなたの自由 とは言え

不満しか見つめないやり方

不足しか見つめない視野

それがゆえに 見えてくる世界観は

確かに 苦しいだろうとは 思えるのさ……

 

2015_05_13

Photo by Alan Vernon.
GATAG フリー画像・写真素材集 2.0

 

違いはギフト。だから「自分の感じている」ことを素直に~後編~

◎前編はこちらからどうぞ。
http://miharu.feeling.jp/?p=3150

 

ならば、怒りで問題が勝負ごとにズレて変わってしまうのを避けるために、

怒りを「まずいったん」吐き出す相手は、

直接、本人に対してでなくてもいいこと、結構あると思える。

いったん誰かに話すなり、ひとりで整理してみても、いいのかも。

 

しかもその奥にあるのは、本当は

『悔しくて悲しい』って気持ちなのだから、

心理学の「アイ・コンタクト」でも言われているように、

なぜそれを『自分が』悔しくて悲しいと感じたか、

そっちのほうがよほど、自分にとっても相手にとっても、

大切なことだろうと。

 

私が

軽く扱われたような気がして悲しい

バカにされたように感じてしまって悔しい

 

そういうことのほうを相手に伝えれば、本当はいいと思うんだけどね。

 

泣いて相手を責めるより、

激怒して相手を責めるより、

自分の『感じている』ことに、注目してみる。

それを大事にすると、

私はこう感じる人だってこと、

相手と自分との違い、を、

他者にわかりやすく伝えることができる。

怒りよりもっと重要なことを、自分が相手に表現できるのだと。

 

それもまた、自分を大事にするってことだと、私は思うよ。

 

そしてね、

私はこう捉えて、こんなふうに喜怒哀楽の感情、持った、感じたよ

と、静かに言われたら、

それ、ケンカになるかな? 勝負になるかな?

え? そう受け止めるの? って、

一緒に気持ちの研究をするほうへ、いかないかな?

 

もし、そうならなくて「そんな受け止め方するのは

バカだよ」って言い切るような相手なら、

どこをバカだと思う? って尋ねてみればいい。

さらに、どこ、がわかったら、なぜそれをあなたは「バカだ」と思う? って。

 

それもまた、相手の価値観を知る機会、違いを知る機会。

もしかしたらすごくいい刺激、もらえるかもしれないよ?

捉え方にはAもBもCもあって、

あなたはAで私はCだった。

それならお互い、Bに歩み寄れないかな、とか。

そういうふうに進めていけば、自分と相手の違いは学びに変わって、

自分の視点を変えてくれる『ギフト』になる。

 

まあ、慣れてない人がこれをやられると

怖がって「うるさい!」とか、言ってくるときもあるけどね(^◇^;)

少なくともこちらは、プンスカな気持ちを引きずらないですむし、

投げかけた言葉は相手にも染み込んでいくから、

いつか、勝ち負けでないところで、折り合いのための会話もできるようになる。

 

自分の感じることを大切にすると、

こういう部分も変わっていくと、私には思えるのだ。

 

と、ここまで昨日、ザックリと書いておいたら、あらビックリ。

今日になって読んだ記事で、これに関連する話が、

カウンセラーさんのブログで3つも見つかったので、

それもリンクしておくね。

世の中の皆さん、それぞれ、練習されてるよ、ほら。

あなただけが、ダメで下手でひどいわけではないからね。

 

◎ カエル姉さん(高橋かずえ)さん
『「本音」と「言いたいこと」の違い。』
http://amba.to/1zV2R2k

 

◎ 事実を話す@心理カウンセラー神谷 さん
『意見=結論』
http://amba.to/1E3366u

 

そしてあの大御所も、自分の気持ちのほうを見ろ、と。

この方は更新数もあるので、ついあとにしようと放置すると

読むページ、溜まってしまうね(笑)

日付を見たら昨日で、さらにビックリ。

昨日と今日は、そういうこと伝えたくなる日だったのかな?(笑)

まあ、本当に、お金の常識云々、でないところで読んでみてください。

たまたま借金が例に挙がってるだけで、ポイントはそこではない……。

◎心屋仁之助 さん
『■借金の話を読んで腹が立った』
http://amba.to/1Pd7xHY

 

あ、そうそう。何度か伝えているけど、

後ろめたいことを「どうせ自分は○○だから」と、逆に、

自分への言い訳に使ってしまうと、

その後ろめたいやり方、止められなくなって、

自分が、自分をいちばん追い詰めるからね。

なぜ自分で、後ろめたい苦しいことを選ぶのか、なぜそうしたくなってるのか、

そこに隠れてる『感情』のほうも、見つめてみてね。

 

自分に正直になって、感じること、きちんと大切にして、

周囲に対しては『違い』を捉えて、自分でわきまえてみる。

 

やってみると、さまざまなズレを、自分が起こさないでよくなって、

しかも落ち着いていけて、

結果として自動的に、自分も周りも(周りには波及効果で)、

穏やかに解決させられることにもなっていく。

この『事実』と自分のラクさ、

伝える中身の大切さを、いつか、具体的に、味わっていただけますように。

 

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Photo by GLady
Pixabay

 

違いはギフト。だから「自分の感じている」ことを素直に~前編~

自分が抱えている問題に、自分とは違う意見を言われたとき、

知らないくせに

わかってない、わかってくれない

ってなるとき、あるよね。

 

これは、自分と相手の『違い』なのだから、

それを知る機会ではある。

そしてその違い、自分にとっては視野を変えたり、

他者との関係を改善できる『ギフト』になり得るのだ。

 

そうするための方法として、

わかってない、の内側に潜んでいることがいろいろあると思えるので、

これを3つほど、ひも解いてみたいと思う。

 

まず1つめ。

わかってくれない、のときに、自分の立場や都合を、相手にかぶせて、

そこでものごとを捉えて怒ってしまうことがある。

あなた側の気持ちや価値観に合わないというイライラは、

実は相手のせいだけではない理由で起こっていることもあるから、

場合によってはその腹立ち、かぶせないほうがいいこともある。

 

逆に相手の問題を、自分の問題であるかのようにのように捉えて 

『さもありなん』な、決めつけ型の解決策を語るのも、

相手を尊重しない、敬意を払わないという危険性を伴う、と思える。

 

このことについて、有名ブロガーさんの

ある記事を見つけたので、まずそれをご紹介してみたい。

これはたまたま、子育て論、がテーマになっている例ね。

◎ かさこ さん
ブロガーかさこの「好きを仕事に」
『子どもがいない人の子育て論や親はこうあるべきだ論は微妙である』
http://kasakoblog.exblog.jp/23087054/

 

かさこさんは経験者側からの感覚について述べられていて、

未経験のときの自分についても、内省されている。

確かに未経験の人は、自分から「わきまえる」のが

とてもとても大切だと、私も思う。

 

かといって、経験者の側も一方的に「知らないくせに」ではない。

たとえば上記の例で言えば、

親が知っているのは、自分の子どものことだけ。

それ以外の子どものことは、自分の子どもほどには『近く』ないよね。

それ、ひとくくりにできるのかな、本当に。

 

そしてまた、未経験者だからこそ、あるいはまだ経験が浅いからこそ、

『恐れずに言えること』も、かさこさんがおっしゃるように、確かにあると思う。

 

経験、立場に限らず、こんなふうに、他者と自分に『違いがあること』を

まず自分からいろいろわきまえて、そこは尊重していけば、

それはやがて、周囲に伝染するよ、間違いなく。

私も今、練習していて、それは実感することが多い。

 

わきまえて、『違うのが普通』を前提にしたら、

自分がイライラすることがまず減って、

私の態度が変わるから、 相手のほうも変わっていく。

あと、こちらの割り切りが早くなったり、

状況を見て、揉めている場合ではないな、とか、

今は気持ちが届かなそうだな、ってときは、

いったん、説明することを止める見切りもできる。

 

それから、2つめ。

上記の、わきまえて尊重、というやり方を採用してみることで、少なくとも、

何かそのときのテーマを自分の「今の問題」と照らし合わせて、

本筋でないところに引っかかって、そのことを発言してしまう、という事態が減る。

 

これもまあ、起こりうる話だけれど、

違いを尊重することで、自分ではその本筋からのズレ、かなり減った気がしている。

問題のポイントを見失わないように、と、そんなことも意識できるのだ。

 

わかるかな、問題のすり替え、みたいなズレ。

たいてい、それは反論って形で現れるんだけれど、

はい? 何か違う部分で怒ってない?

って、途中で他者が気づくようなこと、あるよね。

本人は気づかないのだけれど、

周りから見たら一目瞭然だったりする。

 

以前に例であげた、自分を認めて欲しいお姉さんもそうだね。

頼んだ書類が自分の手元に今、ないという事実、そちらの問題ではなく、

「受け取ってないんですけど」というところにまで、いきなり質問が飛躍する。

 

彼女が選ぶ言葉、そこからもう 

『失敗したくない、それが怖い』と思っていることが伝わってしまう。

事実確認以前の段階で最初から、こちらが渡していないことになっているから。

 

でもね、「私にそう気づかせる言葉を使っている」ことに

彼女自身は、気づけない。

それは自分の『怖い』と感じる気持ちを、見たくないからだと思う。

そして勢い、断定的な言葉を使ってしまう。

 

問題は、今、書類がない、なぜなのか、どう対処するべきか、であり、

しかもこの場合の事実は、彼女が『受け取ってから、なくした』んだよね……。

なくなったという責任、押しつけ合ってる場合じゃないのに、

ハナから、押し付けることが大切になってしまっている。

つまり他者への、

自分の問題、自分の怖さの押しつけ

にもなりうるんだよ。

 

本当、こうしたズレってよくある話なのだけれど。

だから難しいのだけれど。

 

違い、を意識すると、相手が言ってくることの中身を、

ていねいに扱おうとするから、今はこの話だよね?

って「自分が」ズレに気をつけられるよ。

逆に、こちらが伝えるときも、違いがあるのだから、

いちばん伝えたいことはここ、って意識して、

重要なこと、必要なことを伝えるように意識するのを、練習できるよ。

 

さらに3つめ、ね。

これがいちばん、練習が必要だなあ、と思えること。

なぜズレが起こるんだろうと考えてみたとき、

はっきりモノを言っているつもりの人でも、

その奥に、さらに気持ちを隠していることがある。

それが実は、ズレの元なのかな、と。

 

たとえば怒るのは、自分の言いたいことが理解されないから、

それが『悲しくて悔しい』からだったりするのに、

自分が『悲しくて悔しい』の部分は、

本人もまた怒ってるから、見ないんだよね。

 

相手に文句をつけることで、

自分の言ってることが「正しい」かどうか、

そっちのほうへ意識が行ってしまう。

正しい云々でなく、お互いが「違う」のでどうする? という問題なのに。

 

怒りの表現というのは、とくに直接やり合った場合、競争、争いに変わりやすい。

だからより強く感情を訴える、たとえば声を大きくしたりして、

言葉を並べ立てて、相手を打ち負かした者が『勝ったり』することあるよね?

 

それ、状況次第ではどちらも「アリ」なことも、わりとあるかもしれない。

正しい、という意味では『どちらも絶対的な間違いではない』ときもあるのに、

その内容や、お互いの気持ちをすり合わせることより、 

正しさ、という勝ち負けのほうが大切なポイントに変わってしまうのだ。

 

長いので分けるね。

 

~つづく~

 

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Pixabay