違いはギフト。だから「自分の感じている」ことを素直に~前編~

自分が抱えている問題に、自分とは違う意見を言われたとき、

知らないくせに

わかってない、わかってくれない

ってなるとき、あるよね。

 

これは、自分と相手の『違い』なのだから、

それを知る機会ではある。

そしてその違い、自分にとっては視野を変えたり、

他者との関係を改善できる『ギフト』になり得るのだ。

 

そうするための方法として、

わかってない、の内側に潜んでいることがいろいろあると思えるので、

これを3つほど、ひも解いてみたいと思う。

 

まず1つめ。

わかってくれない、のときに、自分の立場や都合を、相手にかぶせて、

そこでものごとを捉えて怒ってしまうことがある。

あなた側の気持ちや価値観に合わないというイライラは、

実は相手のせいだけではない理由で起こっていることもあるから、

場合によってはその腹立ち、かぶせないほうがいいこともある。

 

逆に相手の問題を、自分の問題であるかのようにのように捉えて 

『さもありなん』な、決めつけ型の解決策を語るのも、

相手を尊重しない、敬意を払わないという危険性を伴う、と思える。

 

このことについて、有名ブロガーさんの

ある記事を見つけたので、まずそれをご紹介してみたい。

これはたまたま、子育て論、がテーマになっている例ね。

◎ かさこ さん
ブロガーかさこの「好きを仕事に」
『子どもがいない人の子育て論や親はこうあるべきだ論は微妙である』
http://kasakoblog.exblog.jp/23087054/

 

かさこさんは経験者側からの感覚について述べられていて、

未経験のときの自分についても、内省されている。

確かに未経験の人は、自分から「わきまえる」のが

とてもとても大切だと、私も思う。

 

かといって、経験者の側も一方的に「知らないくせに」ではない。

たとえば上記の例で言えば、

親が知っているのは、自分の子どものことだけ。

それ以外の子どものことは、自分の子どもほどには『近く』ないよね。

それ、ひとくくりにできるのかな、本当に。

 

そしてまた、未経験者だからこそ、あるいはまだ経験が浅いからこそ、

『恐れずに言えること』も、かさこさんがおっしゃるように、確かにあると思う。

 

経験、立場に限らず、こんなふうに、他者と自分に『違いがあること』を

まず自分からいろいろわきまえて、そこは尊重していけば、

それはやがて、周囲に伝染するよ、間違いなく。

私も今、練習していて、それは実感することが多い。

 

わきまえて、『違うのが普通』を前提にしたら、

自分がイライラすることがまず減って、

私の態度が変わるから、 相手のほうも変わっていく。

あと、こちらの割り切りが早くなったり、

状況を見て、揉めている場合ではないな、とか、

今は気持ちが届かなそうだな、ってときは、

いったん、説明することを止める見切りもできる。

 

それから、2つめ。

上記の、わきまえて尊重、というやり方を採用してみることで、少なくとも、

何かそのときのテーマを自分の「今の問題」と照らし合わせて、

本筋でないところに引っかかって、そのことを発言してしまう、という事態が減る。

 

これもまあ、起こりうる話だけれど、

違いを尊重することで、自分ではその本筋からのズレ、かなり減った気がしている。

問題のポイントを見失わないように、と、そんなことも意識できるのだ。

 

わかるかな、問題のすり替え、みたいなズレ。

たいてい、それは反論って形で現れるんだけれど、

はい? 何か違う部分で怒ってない?

って、途中で他者が気づくようなこと、あるよね。

本人は気づかないのだけれど、

周りから見たら一目瞭然だったりする。

 

以前に例であげた、自分を認めて欲しいお姉さんもそうだね。

頼んだ書類が自分の手元に今、ないという事実、そちらの問題ではなく、

「受け取ってないんですけど」というところにまで、いきなり質問が飛躍する。

 

彼女が選ぶ言葉、そこからもう 

『失敗したくない、それが怖い』と思っていることが伝わってしまう。

事実確認以前の段階で最初から、こちらが渡していないことになっているから。

 

でもね、「私にそう気づかせる言葉を使っている」ことに

彼女自身は、気づけない。

それは自分の『怖い』と感じる気持ちを、見たくないからだと思う。

そして勢い、断定的な言葉を使ってしまう。

 

問題は、今、書類がない、なぜなのか、どう対処するべきか、であり、

しかもこの場合の事実は、彼女が『受け取ってから、なくした』んだよね……。

なくなったという責任、押しつけ合ってる場合じゃないのに、

ハナから、押し付けることが大切になってしまっている。

つまり他者への、

自分の問題、自分の怖さの押しつけ

にもなりうるんだよ。

 

本当、こうしたズレってよくある話なのだけれど。

だから難しいのだけれど。

 

違い、を意識すると、相手が言ってくることの中身を、

ていねいに扱おうとするから、今はこの話だよね?

って「自分が」ズレに気をつけられるよ。

逆に、こちらが伝えるときも、違いがあるのだから、

いちばん伝えたいことはここ、って意識して、

重要なこと、必要なことを伝えるように意識するのを、練習できるよ。

 

さらに3つめ、ね。

これがいちばん、練習が必要だなあ、と思えること。

なぜズレが起こるんだろうと考えてみたとき、

はっきりモノを言っているつもりの人でも、

その奥に、さらに気持ちを隠していることがある。

それが実は、ズレの元なのかな、と。

 

たとえば怒るのは、自分の言いたいことが理解されないから、

それが『悲しくて悔しい』からだったりするのに、

自分が『悲しくて悔しい』の部分は、

本人もまた怒ってるから、見ないんだよね。

 

相手に文句をつけることで、

自分の言ってることが「正しい」かどうか、

そっちのほうへ意識が行ってしまう。

正しい云々でなく、お互いが「違う」のでどうする? という問題なのに。

 

怒りの表現というのは、とくに直接やり合った場合、競争、争いに変わりやすい。

だからより強く感情を訴える、たとえば声を大きくしたりして、

言葉を並べ立てて、相手を打ち負かした者が『勝ったり』することあるよね?

 

それ、状況次第ではどちらも「アリ」なことも、わりとあるかもしれない。

正しい、という意味では『どちらも絶対的な間違いではない』ときもあるのに、

その内容や、お互いの気持ちをすり合わせることより、 

正しさ、という勝ち負けのほうが大切なポイントに変わってしまうのだ。

 

長いので分けるね。

 

~つづく~

 

2015_05_12_1

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

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