木元見春 のすべての投稿

嫌われたくない『あなたのため』はウソ

他人にばかり目を向けて、それに呼応する形で、上辺だけで自分の感情を扱って。

自分が『そこで本当に感じること』をないがしろにすると、

どういうことが起こっていくのか。

 

その具体例が、今日はバンバン、私のところに届いて、つながりました。

 

つまりは自分を大切にするってどういうことか。

また『自分を大切にしていない人』に対して、他者が何を感じるか、

そしてその他者の「のちの変化」までも。

 

まあ、なぜ1日で同時に見つかるのだろうね、

というのをリンクでたくさん、紹介してみます。

 

たまたま『母と子』がメインの例になっているけれど、

父、母、兄弟、姉妹、夫、妻、子ども、彼氏彼女、親友、

つまりはそういう身近な人に対し、

『自己否定して、自分を粗末に扱っている』人が、やってしまっていることを

外側から捉え直せる機会になるかと思います。

 

すべて私が、読者登録させていただいている方で、

すでに著名だと私が捉えている方には、

すみません、事前掲載許可なしで、

自由に紹介してから連絡してよいと言ってくださった方には、その通り事後報告で。

あと、リンク先のURLは、すべて短縮しました。ご了承ください。

 

相手の顔色を伺いすぎる人も、

他者の言動に文句を言いまくる「批判視点」好きな人も、

結局は他人のことを軸にして、理由にして、

そこ「だけ」を元にして、自分を好きでいてよ、と押し付けたり、

あるいは自身で「自分を認める」、

そうなりたいがゆえの理由を見つけようとしている。

 

でも実際に、自分自身に対してやってることは

落ち込んでみたり、否定したり、イライラしたり、なのよね。

 

たとえば犠牲方面の『あなたのために』って、それ、

そうやって他者に気持ちを預けて他者を利用することで、

つまり自分が「得ようとしているものにだけ」注目してますよ、

ってな方向の話も、今回はあるからね。

 

そういう強烈なのも混ざるから、刺さる人には刺さるだろうけれど、

さ、思い切っていってみましょうか。

 

まず『あなたのために』尽くしすぎるバージョンから。

ご本人の文章で、疲れ切ってしまっていることははっきり伝わると思います。

ぶっちゃけ、これは痛々しいのみで終わります。

でも、過去にこのようなお母さんを持っていた人からのコメントが、すごいのです。

この記事を読んでから、コメント欄の最初から8人目、

shunさんのコメントにもどうぞお目通しを。

それでもなお、自分の誠意の部分については、

こうやって、他者があとから受け取ることもあるよ、

相手も変わっていくのよ、の例ね。

◎武田双雲 さん
『悩み相談『中学生の子供の反抗期、、、』』
http://ow.ly/3xJLPb

 

では、この母のようなタイプの人が、

なぜそんなに相手(この場合は子ども)に尽くそうとして

疲れ切ってしまっていたか、

自分自身で激白している記事リンク付きのものを。

そのリンク先も痛くて優しくて気づいてて素晴らしいけれど、

それを解説している「カエル姉さん」さんもこれまた辛口なのに愛情タップリ。

心屋流って、バリエーションすげーですよ。いつもながら感心。

◎ カエル姉さん☆リライトで未来をカエル!心屋認定カウンセラー さん
『犯人は同一人物です。』
http://ow.ly/3xJLNx

 

さあ次は、逆に他者への批判を垂れまくりのお母さんバージョン。

それを防御しようとしていた子どもたちが、やがて自動的に何をするようになるか、

しかも、それにいつ、どのように気づいていけるか。

事実が見えない、という言葉が痛いっす。

これは今日の更新記事ではないけれど、私が読んだのは今日だったのだ……。

◎事実を話す@心理カウンセラー神谷 さん
『そのままの結果』
http://ow.ly/3xJLRD

 

こういう児童虐待方面の人、あるいは逆の モンペ(モンスターペアレンツ)方向の人は、

他人(ここでは子ども)を自分のために使っていること、すぐわかるよね。

ではなぜ、そんな利用をするのかの、簡単な解説。

明日の続きがこれまた鋭そうでドキドキしますが(^^;)

◎ライフモチベーター奈緒美 さん
『思い通りにならぬ事への耐性力』
http://ow.ly/3xJLTQ

 

さ、リンク先を読んでくださった方には、わかると思います。

自己否定しまくっていても、他者批判しまくっていても、

他人に尽くしまくっていても、

「なぜ自分がそれをやってるか」を、いつかは思い切って探してみないと、

結局、イライラかグチグチか、

いずれにせよ苦しいまま、自分がグルグルするだけ、ということが。

 

そしてね、このブログを読んでくださっているのは、

自己否定派の方が多いと思えるので、そういう部分での

自分の視点のズレを、別の角度から、捉え直してみていいよ、ってこと。

 

初めは自分の嫌な面に注目するようで、それを自分や他人に暴露するようで、

怖いと感じるだろうけれど、

結果的には、自分をラクにしてくれるんだよ。

これ、本当にそうだから。

やったあとでしか、わからないことなの。

 

苦しいまま、止まって思考だけグルグルさせるほうを、選ばなくてもいいんだよ?

苦しいがゆえに、これらの例のように、他者を自分のために

変なふうに使ってしまったら、また人間関係も辛くなるよ?

それでなんだか、自分は存在する意味がないとか、

そっちのほうに傾いていって止まってしまっていることに、

どうか、いつか、気づいてくださいね。

 

そもそも、これだけの人がいっぺんに、こんなテーマを書くってことは、

それだけ、世の中の人がみんなそれぞれ、問題をうまく解決できなくて

なんだかんだモニャモニャ、試行錯誤してるってことでしょう?

あなただけがうまくいってないんだ、って今、信じていること自体、

完全なる思い込みだということが、わかってもらえるかな。

その意図もあって、今日はリンクをたくさん、張ってみたくなったのです。

 

最後に。

嫌だなと感じている、自分の「欠点だと思えること」も、

こうやってみると変わるかもよ、の例も挙げておきます。

 

これもまたね、自分を大切にする、ひとつの方法。

こんな小さなことから、自分をゆるめてみる、違うことを試してみる、

その練習を、始めてみていいんだよってことで。

前後合わせて3つのシリーズ記事になっています。

◎ 愛と魔法を現実に☆スピリチュアルティーチャー癒羽(ゆう)さん
『「開き直ろう!」の解説』
http://ow.ly/3xJM4f

 

震えているのは、もがいているのは、

決してあなただけじゃない。だいじょうぶよ。

必要な方に、必要な部分が届きますように。

 

2015_04_14

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人生に狙い通りの意味を持たせようと、あがくこと

鬱の人、気分が落ち込んでいる人は

もしかしたら未来に、

何かに(何かの状態に)なろうとし過ぎるあまり、

今の『何者でもない、そうなってはいない自分』を

軽く見過ぎて、また、同時に

軽く扱いすぎているのかもしれない。

 

過去の自分を振り返っても、

ある地点にまで『到達した人』になろうとしてたと思えるのよ。

 

あのね、将来、あなたが望む、

何者かにもし、なれたとしよう。

 

では、その次は? 

維持するために、必死になる?

そんな心配は何もすることなく、

一生安泰で一生健康で一生、幸せでいられるかしら。

 

不足や不安から何かになろうとすると、

その『望むもの』にたどり着いたところで、

次の不足、次の不安に目を向けるだけにならないかな?

 

だってあなたがその『何者か』になったのは、

不足と不安から、やっていたのだもの。

 

こんなはずじゃなかった、あるいは

次はこれを失ったらどうしよう、等々、

『望んだものを得たはず』なのに、

さらなる不安に悩まされたり、その状態に

文句を付け始めたりはしないだろうか?

 

たとえば、お金を得たとしようよ。

豪遊するの、確かに楽しいよね。

お金に群がる他の人間たちを、

たまにはお金で『はたいて』バカにして、

私は、オレは偉いんだ! って、

権力者の気分を味わったとするよね。

 

で、その次は?

 

え? そんなバカなこと、しないって?

でも勝ちたかったんだよね、社会のゲームに。

勝ったあとは? 慈善事業にでも目覚める?

 

まあ、それが本当にあなたのしたかったことだとして、

慈善事業も、良い人であり続ける努力は必要だよね。

さて、どこのどんな人を救おう?

世の中にはたくさんの不幸な人がいる。

思いつくまま、気が向くまま、片っ端からお金で助けつつ、

同時に、この資産を回しまくって減らさないようにしないとね。

 

こんなふうに書くとわかるかな。

今のそのままで、たくさんのお金を得ても、

あなたの視点はどこか『社会との競争』から離れられなくない?

競争に、いつも最後までどこか縛られてしまわないかな?

 

夢を持つなとか、実現するなっていうわけでは決してないよ。

お金持ちなら、たとえばお金をたくさん使って、

本当に豊かな心を保っていられて、自由な人もいる。

 

でもそういう人たちのインタビューを読むと、

あ、これ、たくさんの人や本などで言われているし、

私もインタビューを読んで感じる共通点なんだけれど、

たとえばお金に関することなら、

『お金がなかったときから、別にそんな競争に参加はしていない』感じなのよ。

 

「今の目の前」を楽しみながら、味わいながら、やってるの。

楽しむこと、心が豊かになれることが先で、

それが狙い通りの結果につながるかどうかより、

自分がまず「今」やったらうれしいから、

それがよいと思えるから、その気持ちに従ってやってるように思えるの。

反社会的でない範囲でね。競争ではない視点でね。

 

そしてそれは『あまりにも大それた目標』ではやってないの。

方向性は見つけていたとしても、

常に「今の目の前」のこと。

それを味わう、自分がホッとする、楽しむ、そのためにやるって感じ。

 

アップルコンピュータを製作「し始めたとき」の、

学生時代のスティーブ・ジョブズとそのお仲間とかさ、

当時の写真なんて、もうヒッピースタイルのオタクにしか見えないのよ(笑)

 

でもすごく楽しんでるの。

うれしそうなの。

確かに、役にも立つはず! って信じて、アイデアは練っているけど、

なんせもう、作るところから楽しんでるから、

睡眠不足の顔してるのに、うれしそう。

 

昨日紹介した、みつろうさんのブログも、

過程を楽しめるなら、という話、してたよね。

 

それは才能があるかないか、ではないと思う。

下手の横好きでもいいし、お金に直接、結びつかなくてもいい。

ステキな彼氏彼女と上手くいって結婚できるとか、

誰かに認められて有名になるとか、

そんな『結果』を産まなくても、味わえる、楽しめる、

自分が納得できるなら、まずはそれでいいのだと。

 

そもそも、そうやって味わう、楽しむからこそ、

そのうちより良い活かし方にも、気づいていくのだと思うよ。

 

それは狙ってやったことより、もっともっと、

ステキな感じのことにつながって、

しかもあなたのオリジナリティがきっと輝いていて、

もっと社会にも還元できるかもしれない。

 

何かを得ようと、何者かになろうと狙い過ぎるあまりに

今、反動で『得られない』と、苦しんでのたうちまわるよりは、

あるいは競争相手をこき下ろして悪口言って

スッキリしたつもりで実は自分の怒りを増幅させて、

なおさら自分をイライラさせるよりは(はい、

その批判視線に自分をも含めたりするよりは)、

今、目の前で、自分を楽しませること、ホッとさせること、

うれしさを少しでも感じられること、喜びにつながること、

心が温かくなれること、やってよかったと思えること、を

ひとつでも少しでもやってみるほうが、

そして実際に感じて味わってみるほうが、

自分の今の状況からの解放や、幸せに、よほど早く近づけると思う。

 

放置自転車に引っかかって折れそうになっている花を

元に戻してあげるだけでも、自分で「よかった」とは思えないかな?

 

もちろん、そのために不幸な人をわざわざ探し出して

自分が心地よさを味わうための材料にはしなくていいよ。

それやると、また反動がすごいからね、いろいろ。

自分がひどく疲れる、悲しむことにもなる。

 

さらにはこれって、実は、鬱になってようとなっていまいと、

同じスタンスでいいのだと思えていること。

 

自分がどういう気持ちを『保っていくことを選ぶか』は

自分が、決めていいのだと思う。

 

足りないことや嫌なことに注目し続ける人生を選ぶ人も確かにいるし、

他人との競争しか見つめられない人もいる。

 

でも、あなた本人が! それに縛られなくちゃいけない理由はない。

それだけが正解、なんてものは本当は存在していなくて

(不正解ならある。自分『だけ』を喜ばせることに、必死になることだろうと思う。

まあ、そういう人はやがて「天網恢々疎にして漏らさず」になっちゃうけれどね)、

本当は、何を選んだっていいのよ。

 

本当は、別に競争しなくていいし、

「とくには勝つことにつながらないと感じること」を選んだっていいのだと思う。

 

あなたが、自分で自分をホッとさせることから、うれしくさせることから、

そういうものからこそ、

あなたの予想や仮定や狙いや想像を超えた「次」が、始まるのだと思うから。

 

そっちのほうが、結果的に、自分が余計にうれしくなれないかな?

他者と自分を犠牲にしない範囲において、

喜んだりうれしくなったり「してはいけない人」なんて、

自分自身を縛らない限り「存在していない」のだから。

 

今すぐには辛すぎて無理だとしても、

目の前のうれしさを、自分のために、自分から、

何者(あるいは物質)に頼らずとも選べること。

その事実に、いつかスルリと、気づいていただけますように。

 

2015_04_13

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「頑張る」と「我慢して無理する」は同義語だと思っている人へ

昨日、日付が変わる直前に挙げた前記事と、

そのもう少し前からの、一連の『認められたい』記事にもつながる話。

追伸としての、他の方の記事をご紹介したいと思います。

その前に、自分の文章もいろいろ綴りますが、お許しを。

 

認めてほしい、認められたい。

頑張っていると、ほめられたい。

ほめられたいのに、頑張れない。

2015_04_12

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ID:201502071400
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頑張れない症状が出ているのに、

頑張れと言う人がいる。

考え方が偏る症状が出る病なのに、

なぜそんなふうに考えてそんなふうにやるのよ!

と怒ったり嘆いたりする人がいる(私はこれをされるのが嫌で、鬱の間中、

実家の両親には病のことを秘密にしていた女……。復活開始後にバレたけど)。

 

これらがね、教えてくれているのは

「あなたが今『認識している』ところの、

その『頑張る』という感覚は、

あなたに、無理を強いる種類の捉え方となっていますよ、

そっちの捉え方でなくていいですよ」

ということだと思います。

 

本来の意味において

「頑張ればよいことがある」というのは、今の私が感じていることですが

(そして何度か書いてきたから……くどいと感じる方がいたらごめんなさい)、

『我慢して何かをやった「あと」で起こる

結果としての楽しみやうれしさ』だけではないのです。

 

頑張る、には、他にも『過程を楽しむ』というやり方があり、

過程を楽しめるからこそ

『頑張る』=『やり続ける』ことが苦痛にならない

の範囲となって、続けられるというメリットも生まれるのだと。

 

たとえばチョコレートやご飯などをダイエットのために大部分、

いきなり絶ってしまうやり方。

そして常に「不足感」を持ち、実際に栄養も不足気味になる。

そんな無理をするから続けられなくて、

反動で、ある日、たくさん食べる。

 

しかもそれまで栄養不足気味で、

自分の身体を「飢餓」の方向に近い状態に追い込んでいれば、

久しぶりの栄養分に身体はとても喜び、身体の恒常性を保つために、

ここぞとばかりに、体内に蓄えようとします。脂肪として、骨として。

 

だから、以前よりずっと早く、一気に体重が戻り、

しかも体型は、ついて欲しくないお腹周りや顔に肉がつく、

という形ですぐ膨らみます。

そりゃそうです、それまで飢餓方向の状態にさせていたのは、自分ですから。

 

○月○日に☆kgになっておくだけ(そのあとはそこまで体重を落とさなくてもよい)、

くらいのわかりやすい目標であれば、我慢も確かにできます。

でも、一生、スリムな体型でいたいなら、

食べる量や運動量を、無理のないペースで調節していかないと、続けにくいだけです。

 

運動も、ある量を超えて習慣化させるると

「その運動量をこの先もこなせるように」と

身体が事前準備のために、大量の栄養素を必要だと感じ始めるのだそうです。

運動系の部活動をしている若者がたくさん食べるのは、

使ったから、だけではなく、準備のためにもそうなるようです。

 

過多な運動は、かえってふだんよりお腹を空かせることになるし、

身体は不足にならないようにと、これまたしっかり蓄える準備を始めてしまう。

つまりは栄養状態、血圧、血糖値、脂肪などの身体状態を的確に把握しながら、

個別に計算され尽くしたプログラムなどを実行しない限りは、

過度な運動も、いつかはダイエットに逆効果になるそうです(同様に、

安易な食事プログラムや薬剤等の使用も、反動をのちほど起こすことにつながるのは

想像できるかと思います。自分を守ろうとしてくれる身体の機能って、

それなりにすごいのです)。

 

ダイエットに限らず、そんなふうに何かのために自分が無理をし続けると、

SOS信号が、自分自身から発せられます。

身体からも、気持ちからも。

 

それを無視して「何とかしよう」とすると、

必ず身体が、あなたを守るために維持体制そのものを変え始めたり、

反動として「何らかのエンスト」が起こるのです。

 

ということは。

自分をひたすらいじめ続ける人には、遅かれ早かれ、結果としての

「良くない反動」が降りかかってくるだけ、になります。

 

私も頑張りすぎていたときは、身体の抵抗力が落ちて、

まんまと大人の麻疹で入院とか、やっていました。

ま、子どもの頃「三日ばしか」にしか罹患してなかったことも原因ですが(^^;)

 

あとは壊死性リンパ節炎。ひたすら微熱が続いて、身体がだるくなるという病。

大病院の、リンパ系の専門医でも

「教科書でしかお目にかかったことがなかった」と話してくれました。

 

そんな感じの反動、そして最後に、徹底的に自分を認められなくなる、鬱という病。

段階を経てますね、ええ、私も。途中で気づいても良かったのにね……。

 

まあ、私はそういう学び方でないと、気づけなかったタイプということです。

そして今はその学び方自体、私自身は否定していない。

それどころか、鬱病で気づけて良かったと思う。

鬱病の、さらにその先を進み続けていってしまうと、

見えてくる出口は「生きるか死ぬか」しかなくなるから。

その出口を、確かに私もあのとき、暗い暗いトンネルの中で見ていたから。

 

話を、元に戻しますよ。

『頑張る』その力は、だから今の私には、

『楽しめること』に向けたほうがよいのだと思えるのです。

 

たとえば単純に、

歌ったり、踊ったり、音楽を奏でたり絵を描いたり、

自分が楽しむための文章を綴ったり、

何かを観に行って晴れ晴れとした楽しい気持ちになったり……。

 

そうやって、笑うこと、心地よくなること、うれしさを感じること。

自分の感覚を喜びの方面で満たしてあげることは、

自分にとって決して『苦痛』ではないはず。

 

それならば、そうした喜びの時間を、費用面でも確実に得たい。

ずっと安定した「安心」も、自分は欲しいから、

たとえばそれゆえに、サラリーマンをやるのだ、というふうに捉えてみる。

サラリーマンという立場は、自分が選んだ『安心と喜びのための通り道、手段』である。

そういう意識が当たり前になれば、仕事をやる意味も、

少しずつ変わっていくでしょう。

 

さらには、その、自分が選んだ仕事で、自分が「楽しめる部分」に気づければ、

「楽しみを味わう」ほうに注目することで、

ストレスを少しでも減らせることにもなります。

 

この作業はわりと好きだな、と思えたら、

その作業が、なぜ好きだと思えるのかも、

自分のために、知っておくといいですよ。

一度、紙に箇条書きでもして、

そのポイントを自分に対して見える形にしてあげるのはお勧めです。

あと「やるのが苦痛ではない作業」にも、よいポイントは隠れていると思います。

 

つまりはやった「あと」の達成感でなく、自分に向いている部分を味わう、

その過程を楽しむことのほうに、

力をより、注いであげればいいのだと。

これも『頑張ること』の範囲には、含まれませんか?

自分が注力するのだから。

 

もちろん、今は苦しすぎて、仕事など手につかない状況であるのなら、

ひたすら「過程から楽しめること」を探せばいいですし、

それすら難しいときには、柔らかいタオルケットなど、肌触りの良いもので

自分をくるんで、安心させてあげて、眠りましょう。

眠りが浅いなら、寝る前にゆっくり入浴したり、

夕方4時ごろに、軽く疲れる程度まで散歩してみるのもいいですよ。

そろそろ寒さも、和らいでくるでしょうしね。

 

そのときには、街路樹の下草の花や緑にも、注目してくださいね。

何も求めず、でもそこで「普通に、シンプルに」生きている植物を見ることは、

自分に「温かい気分」を与えてくれます。

花の中心部分の、不思議さや美しさを見てもいいです。

 

町の喧騒は、どうしたって今の自分とは関わりない、と

思える人もいるでしょうから、それこそ自分を非難せず、

はい、関わりないままでいてください。別にそれでいいので。

そんな期間もあるのです、人生では。ただそれだけの話です。

今の状態で見栄、張らなくていいですよ。それってホントに、くだらないから。

変わりたいとか言いながら、見栄を大事にし続けると、

よけいに変化を遅くさせることにつながります。

 

何のためにそんなこと、するのでしょう。

変わりたいなら、「ちゃんと変わって」みていいじゃない。

過去の栄光の美味しいところを残したい?

それが理由で今、自分が苦しんでいるのに?

過去をゆるめて手放すこと、そんな頭の中だけにしかない、記憶という「亡霊」に、

もう自分が縛られなくていいこと。

それをゆるそうよ、まず自分に。

 

遠くの景色とか、空を眺めるのも心地よいでしょう。

とはいえ、展望台等の、あまりにも高い広い眺めは、

自己の「現実感」をさらに薄くするので、

鬱の人には単純に向いていません、あしからず。

高すぎず、かつ、雑草が生えているような土手の上くらいなら、ちょうどいいかも。

 

そんなふうにして『あ、これは心地いいかな、楽しめるかな』というものに

少しずつ、気づける機会を作って、自分にそれらを増やしてあげてください。

 

私の場合は、もはや回復するしかない、と自分に定めた頃、

睡眠時間がまだ狂いまくっているなかで

平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』に、ずいぶん助けられました。

時代小説にはそのときまであまり興味がなかったですし、

当時はまだ完結していなかったのですが

(現在は新章で、子どもたちの時代の話になっています)、

そのとき出ている最新巻までの全巻を、何度読み返したことか……。

悲しみの中の温かさも表されていて、慰めとなりました。

 

ま、こんなふうに提案のみをしても、

「ふん、どうせ私は」とソッポを向かれるだけかもしれないので(笑)、

楽しむことを無視した『頑張り』について

ていねいに説明してくれている記事を、ご紹介しておきますね。

このブログ、タイトルこそ『スピリチュアル』と付いていますが、

今回の説明は、英会話の勉強 vs. Google翻訳など、

現実的でちょいと笑えますよ。

 

読者からの反応(というか反発)が強すぎて、意図せず1週間にも渡って

ご説明されることになったようです。

文章も読みやすいので、ぜひ最後まで、読んでみてくださいね。

スピリチュアル的な部分は受け止めなくても、本当にだいじょうぶな話ですから。

 

◎みつろう さん
『笑えるスピリチュアル ~ 知ってるトキはシっている ~』

努力シリーズ①
努力シリーズ②
努力シリーズ③
努力シリーズ④←これはメソッドだから、いつでも使えます。(だそうです)
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努力シリーズ⑦