人生に狙い通りの意味を持たせようと、あがくこと

鬱の人、気分が落ち込んでいる人は

もしかしたら未来に、

何かに(何かの状態に)なろうとし過ぎるあまり、

今の『何者でもない、そうなってはいない自分』を

軽く見過ぎて、また、同時に

軽く扱いすぎているのかもしれない。

 

過去の自分を振り返っても、

ある地点にまで『到達した人』になろうとしてたと思えるのよ。

 

あのね、将来、あなたが望む、

何者かにもし、なれたとしよう。

 

では、その次は? 

維持するために、必死になる?

そんな心配は何もすることなく、

一生安泰で一生健康で一生、幸せでいられるかしら。

 

不足や不安から何かになろうとすると、

その『望むもの』にたどり着いたところで、

次の不足、次の不安に目を向けるだけにならないかな?

 

だってあなたがその『何者か』になったのは、

不足と不安から、やっていたのだもの。

 

こんなはずじゃなかった、あるいは

次はこれを失ったらどうしよう、等々、

『望んだものを得たはず』なのに、

さらなる不安に悩まされたり、その状態に

文句を付け始めたりはしないだろうか?

 

たとえば、お金を得たとしようよ。

豪遊するの、確かに楽しいよね。

お金に群がる他の人間たちを、

たまにはお金で『はたいて』バカにして、

私は、オレは偉いんだ! って、

権力者の気分を味わったとするよね。

 

で、その次は?

 

え? そんなバカなこと、しないって?

でも勝ちたかったんだよね、社会のゲームに。

勝ったあとは? 慈善事業にでも目覚める?

 

まあ、それが本当にあなたのしたかったことだとして、

慈善事業も、良い人であり続ける努力は必要だよね。

さて、どこのどんな人を救おう?

世の中にはたくさんの不幸な人がいる。

思いつくまま、気が向くまま、片っ端からお金で助けつつ、

同時に、この資産を回しまくって減らさないようにしないとね。

 

こんなふうに書くとわかるかな。

今のそのままで、たくさんのお金を得ても、

あなたの視点はどこか『社会との競争』から離れられなくない?

競争に、いつも最後までどこか縛られてしまわないかな?

 

夢を持つなとか、実現するなっていうわけでは決してないよ。

お金持ちなら、たとえばお金をたくさん使って、

本当に豊かな心を保っていられて、自由な人もいる。

 

でもそういう人たちのインタビューを読むと、

あ、これ、たくさんの人や本などで言われているし、

私もインタビューを読んで感じる共通点なんだけれど、

たとえばお金に関することなら、

『お金がなかったときから、別にそんな競争に参加はしていない』感じなのよ。

 

「今の目の前」を楽しみながら、味わいながら、やってるの。

楽しむこと、心が豊かになれることが先で、

それが狙い通りの結果につながるかどうかより、

自分がまず「今」やったらうれしいから、

それがよいと思えるから、その気持ちに従ってやってるように思えるの。

反社会的でない範囲でね。競争ではない視点でね。

 

そしてそれは『あまりにも大それた目標』ではやってないの。

方向性は見つけていたとしても、

常に「今の目の前」のこと。

それを味わう、自分がホッとする、楽しむ、そのためにやるって感じ。

 

アップルコンピュータを製作「し始めたとき」の、

学生時代のスティーブ・ジョブズとそのお仲間とかさ、

当時の写真なんて、もうヒッピースタイルのオタクにしか見えないのよ(笑)

 

でもすごく楽しんでるの。

うれしそうなの。

確かに、役にも立つはず! って信じて、アイデアは練っているけど、

なんせもう、作るところから楽しんでるから、

睡眠不足の顔してるのに、うれしそう。

 

昨日紹介した、みつろうさんのブログも、

過程を楽しめるなら、という話、してたよね。

 

それは才能があるかないか、ではないと思う。

下手の横好きでもいいし、お金に直接、結びつかなくてもいい。

ステキな彼氏彼女と上手くいって結婚できるとか、

誰かに認められて有名になるとか、

そんな『結果』を産まなくても、味わえる、楽しめる、

自分が納得できるなら、まずはそれでいいのだと。

 

そもそも、そうやって味わう、楽しむからこそ、

そのうちより良い活かし方にも、気づいていくのだと思うよ。

 

それは狙ってやったことより、もっともっと、

ステキな感じのことにつながって、

しかもあなたのオリジナリティがきっと輝いていて、

もっと社会にも還元できるかもしれない。

 

何かを得ようと、何者かになろうと狙い過ぎるあまりに

今、反動で『得られない』と、苦しんでのたうちまわるよりは、

あるいは競争相手をこき下ろして悪口言って

スッキリしたつもりで実は自分の怒りを増幅させて、

なおさら自分をイライラさせるよりは(はい、

その批判視線に自分をも含めたりするよりは)、

今、目の前で、自分を楽しませること、ホッとさせること、

うれしさを少しでも感じられること、喜びにつながること、

心が温かくなれること、やってよかったと思えること、を

ひとつでも少しでもやってみるほうが、

そして実際に感じて味わってみるほうが、

自分の今の状況からの解放や、幸せに、よほど早く近づけると思う。

 

放置自転車に引っかかって折れそうになっている花を

元に戻してあげるだけでも、自分で「よかった」とは思えないかな?

 

もちろん、そのために不幸な人をわざわざ探し出して

自分が心地よさを味わうための材料にはしなくていいよ。

それやると、また反動がすごいからね、いろいろ。

自分がひどく疲れる、悲しむことにもなる。

 

さらにはこれって、実は、鬱になってようとなっていまいと、

同じスタンスでいいのだと思えていること。

 

自分がどういう気持ちを『保っていくことを選ぶか』は

自分が、決めていいのだと思う。

 

足りないことや嫌なことに注目し続ける人生を選ぶ人も確かにいるし、

他人との競争しか見つめられない人もいる。

 

でも、あなた本人が! それに縛られなくちゃいけない理由はない。

それだけが正解、なんてものは本当は存在していなくて

(不正解ならある。自分『だけ』を喜ばせることに、必死になることだろうと思う。

まあ、そういう人はやがて「天網恢々疎にして漏らさず」になっちゃうけれどね)、

本当は、何を選んだっていいのよ。

 

本当は、別に競争しなくていいし、

「とくには勝つことにつながらないと感じること」を選んだっていいのだと思う。

 

あなたが、自分で自分をホッとさせることから、うれしくさせることから、

そういうものからこそ、

あなたの予想や仮定や狙いや想像を超えた「次」が、始まるのだと思うから。

 

そっちのほうが、結果的に、自分が余計にうれしくなれないかな?

他者と自分を犠牲にしない範囲において、

喜んだりうれしくなったり「してはいけない人」なんて、

自分自身を縛らない限り「存在していない」のだから。

 

今すぐには辛すぎて無理だとしても、

目の前のうれしさを、自分のために、自分から、

何者(あるいは物質)に頼らずとも選べること。

その事実に、いつかスルリと、気づいていただけますように。

 

2015_04_13

Photo by Unsplash
Pixabay

 

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