昨日、日付が変わる直前に挙げた前記事と、
そのもう少し前からの、一連の『認められたい』記事にもつながる話。
追伸としての、他の方の記事をご紹介したいと思います。
その前に、自分の文章もいろいろ綴りますが、お許しを。
認めてほしい、認められたい。
頑張っていると、ほめられたい。
ほめられたいのに、頑張れない。
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頑張れない症状が出ているのに、
頑張れと言う人がいる。
考え方が偏る症状が出る病なのに、
なぜそんなふうに考えてそんなふうにやるのよ!
と怒ったり嘆いたりする人がいる(私はこれをされるのが嫌で、鬱の間中、
実家の両親には病のことを秘密にしていた女……。復活開始後にバレたけど)。
これらがね、教えてくれているのは
「あなたが今『認識している』ところの、
その『頑張る』という感覚は、
あなたに、無理を強いる種類の捉え方となっていますよ、
そっちの捉え方でなくていいですよ」
ということだと思います。
本来の意味において
「頑張ればよいことがある」というのは、今の私が感じていることですが
(そして何度か書いてきたから……くどいと感じる方がいたらごめんなさい)、
『我慢して何かをやった「あと」で起こる
結果としての楽しみやうれしさ』だけではないのです。
頑張る、には、他にも『過程を楽しむ』というやり方があり、
過程を楽しめるからこそ
『頑張る』=『やり続ける』ことが苦痛にならない
の範囲となって、続けられるというメリットも生まれるのだと。
たとえばチョコレートやご飯などをダイエットのために大部分、
いきなり絶ってしまうやり方。
そして常に「不足感」を持ち、実際に栄養も不足気味になる。
そんな無理をするから続けられなくて、
反動で、ある日、たくさん食べる。
しかもそれまで栄養不足気味で、
自分の身体を「飢餓」の方向に近い状態に追い込んでいれば、
久しぶりの栄養分に身体はとても喜び、身体の恒常性を保つために、
ここぞとばかりに、体内に蓄えようとします。脂肪として、骨として。
だから、以前よりずっと早く、一気に体重が戻り、
しかも体型は、ついて欲しくないお腹周りや顔に肉がつく、
という形ですぐ膨らみます。
そりゃそうです、それまで飢餓方向の状態にさせていたのは、自分ですから。
○月○日に☆kgになっておくだけ(そのあとはそこまで体重を落とさなくてもよい)、
くらいのわかりやすい目標であれば、我慢も確かにできます。
でも、一生、スリムな体型でいたいなら、
食べる量や運動量を、無理のないペースで調節していかないと、続けにくいだけです。
運動も、ある量を超えて習慣化させるると
「その運動量をこの先もこなせるように」と
身体が事前準備のために、大量の栄養素を必要だと感じ始めるのだそうです。
運動系の部活動をしている若者がたくさん食べるのは、
使ったから、だけではなく、準備のためにもそうなるようです。
過多な運動は、かえってふだんよりお腹を空かせることになるし、
身体は不足にならないようにと、これまたしっかり蓄える準備を始めてしまう。
つまりは栄養状態、血圧、血糖値、脂肪などの身体状態を的確に把握しながら、
個別に計算され尽くしたプログラムなどを実行しない限りは、
過度な運動も、いつかはダイエットに逆効果になるそうです(同様に、
安易な食事プログラムや薬剤等の使用も、反動をのちほど起こすことにつながるのは
想像できるかと思います。自分を守ろうとしてくれる身体の機能って、
それなりにすごいのです)。
ダイエットに限らず、そんなふうに何かのために自分が無理をし続けると、
SOS信号が、自分自身から発せられます。
身体からも、気持ちからも。
それを無視して「何とかしよう」とすると、
必ず身体が、あなたを守るために維持体制そのものを変え始めたり、
反動として「何らかのエンスト」が起こるのです。
ということは。
自分をひたすらいじめ続ける人には、遅かれ早かれ、結果としての
「良くない反動」が降りかかってくるだけ、になります。
私も頑張りすぎていたときは、身体の抵抗力が落ちて、
まんまと大人の麻疹で入院とか、やっていました。
ま、子どもの頃「三日ばしか」にしか罹患してなかったことも原因ですが(^^;)
あとは壊死性リンパ節炎。ひたすら微熱が続いて、身体がだるくなるという病。
大病院の、リンパ系の専門医でも
「教科書でしかお目にかかったことがなかった」と話してくれました。
そんな感じの反動、そして最後に、徹底的に自分を認められなくなる、鬱という病。
段階を経てますね、ええ、私も。途中で気づいても良かったのにね……。
まあ、私はそういう学び方でないと、気づけなかったタイプということです。
そして今はその学び方自体、私自身は否定していない。
それどころか、鬱病で気づけて良かったと思う。
鬱病の、さらにその先を進み続けていってしまうと、
見えてくる出口は「生きるか死ぬか」しかなくなるから。
その出口を、確かに私もあのとき、暗い暗いトンネルの中で見ていたから。
話を、元に戻しますよ。
『頑張る』その力は、だから今の私には、
『楽しめること』に向けたほうがよいのだと思えるのです。
たとえば単純に、
歌ったり、踊ったり、音楽を奏でたり絵を描いたり、
自分が楽しむための文章を綴ったり、
何かを観に行って晴れ晴れとした楽しい気持ちになったり……。
そうやって、笑うこと、心地よくなること、うれしさを感じること。
自分の感覚を喜びの方面で満たしてあげることは、
自分にとって決して『苦痛』ではないはず。
それならば、そうした喜びの時間を、費用面でも確実に得たい。
ずっと安定した「安心」も、自分は欲しいから、
たとえばそれゆえに、サラリーマンをやるのだ、というふうに捉えてみる。
サラリーマンという立場は、自分が選んだ『安心と喜びのための通り道、手段』である。
そういう意識が当たり前になれば、仕事をやる意味も、
少しずつ変わっていくでしょう。
さらには、その、自分が選んだ仕事で、自分が「楽しめる部分」に気づければ、
「楽しみを味わう」ほうに注目することで、
ストレスを少しでも減らせることにもなります。
この作業はわりと好きだな、と思えたら、
その作業が、なぜ好きだと思えるのかも、
自分のために、知っておくといいですよ。
一度、紙に箇条書きでもして、
そのポイントを自分に対して見える形にしてあげるのはお勧めです。
あと「やるのが苦痛ではない作業」にも、よいポイントは隠れていると思います。
つまりはやった「あと」の達成感でなく、自分に向いている部分を味わう、
その過程を楽しむことのほうに、
力をより、注いであげればいいのだと。
これも『頑張ること』の範囲には、含まれませんか?
自分が注力するのだから。
もちろん、今は苦しすぎて、仕事など手につかない状況であるのなら、
ひたすら「過程から楽しめること」を探せばいいですし、
それすら難しいときには、柔らかいタオルケットなど、肌触りの良いもので
自分をくるんで、安心させてあげて、眠りましょう。
眠りが浅いなら、寝る前にゆっくり入浴したり、
夕方4時ごろに、軽く疲れる程度まで散歩してみるのもいいですよ。
そろそろ寒さも、和らいでくるでしょうしね。
そのときには、街路樹の下草の花や緑にも、注目してくださいね。
何も求めず、でもそこで「普通に、シンプルに」生きている植物を見ることは、
自分に「温かい気分」を与えてくれます。
花の中心部分の、不思議さや美しさを見てもいいです。
町の喧騒は、どうしたって今の自分とは関わりない、と
思える人もいるでしょうから、それこそ自分を非難せず、
はい、関わりないままでいてください。別にそれでいいので。
そんな期間もあるのです、人生では。ただそれだけの話です。
今の状態で見栄、張らなくていいですよ。それってホントに、くだらないから。
変わりたいとか言いながら、見栄を大事にし続けると、
よけいに変化を遅くさせることにつながります。
何のためにそんなこと、するのでしょう。
変わりたいなら、「ちゃんと変わって」みていいじゃない。
過去の栄光の美味しいところを残したい?
それが理由で今、自分が苦しんでいるのに?
過去をゆるめて手放すこと、そんな頭の中だけにしかない、記憶という「亡霊」に、
もう自分が縛られなくていいこと。
それをゆるそうよ、まず自分に。
遠くの景色とか、空を眺めるのも心地よいでしょう。
とはいえ、展望台等の、あまりにも高い広い眺めは、
自己の「現実感」をさらに薄くするので、
鬱の人には単純に向いていません、あしからず。
高すぎず、かつ、雑草が生えているような土手の上くらいなら、ちょうどいいかも。
そんなふうにして『あ、これは心地いいかな、楽しめるかな』というものに
少しずつ、気づける機会を作って、自分にそれらを増やしてあげてください。
私の場合は、もはや回復するしかない、と自分に定めた頃、
睡眠時間がまだ狂いまくっているなかで
平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』に、ずいぶん助けられました。
時代小説にはそのときまであまり興味がなかったですし、
当時はまだ完結していなかったのですが
(現在は新章で、子どもたちの時代の話になっています)、
そのとき出ている最新巻までの全巻を、何度読み返したことか……。
悲しみの中の温かさも表されていて、慰めとなりました。
ま、こんなふうに提案のみをしても、
「ふん、どうせ私は」とソッポを向かれるだけかもしれないので(笑)、
楽しむことを無視した『頑張り』について
ていねいに説明してくれている記事を、ご紹介しておきますね。
このブログ、タイトルこそ『スピリチュアル』と付いていますが、
今回の説明は、英会話の勉強 vs. Google翻訳など、
現実的でちょいと笑えますよ。
読者からの反応(というか反発)が強すぎて、意図せず1週間にも渡って
ご説明されることになったようです。
文章も読みやすいので、ぜひ最後まで、読んでみてくださいね。
スピリチュアル的な部分は受け止めなくても、本当にだいじょうぶな話ですから。
◎みつろう さん
『笑えるスピリチュアル ~ 知ってるトキはシっている ~』
努力シリーズ①
努力シリーズ②
努力シリーズ③
努力シリーズ④←これはメソッドだから、いつでも使えます。(だそうです)
努力シリーズ⑤
努力シリーズ⑥
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