カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

自分に対する、わー(^^;)(^◇^;) という記事紹介

しばらく書いてなくてすみません。

本日もブログ紹介つきでございます。

 

この記事では親、という例を

出しておられますが

要するに『自分がもらえなかった』ことに

フォーカスしていたら、

そりゃキツイよね、という話なのですよ。

 

不足を人のせいにしたら

逃げっぱなし。

 

不足を自分のせいにしていても

苦しみっぱなし。

 

でさ、それ、『何を使って埋めたら』

満足できると思っているの?

 

この埋めるもの、のバリエーションが

お金、恋人、結婚相手、

美容、体重、あるいは病気、

食べ物、着るもの、住むところ、

持ち物、ギャンブル、酒、クスリ、

地位やら名誉、賞賛、承認になるわけで。

 

『ま、どうせこんな私なんて』に端を発するところの、

あらゆるバリエーションへの放浪が始まる。

 

だから、そこじゃないのよ。

その『不足にフォーカスしていること』が

いちばんのポイントで、

それがあなたの苦しみを生む。

 

なぜ自分が常に不足感にフォーカスしているのか、を

ときほぐさないと、

あなたのバリエーション対象が

単に移り変わるか増える一方なんだよ。

 

ねえ、どうしてそこは無視するの?

なぜなのか、ほどいてみる勇気、

出すつもりは一生ないのかな?

 

ずっと『不足埋めジプシー』として、

バリエーション対象の間を次々、

放浪する旅を続けたいのかな? 

 

別にさ、それだけじゃないんだよ。

他にも『自分を味わう楽しむ旅』など、

いろいろな『まったく別の旅』があるのに、

そういうことはなぜ、知ろうともしない、したくないのかな?

 

◎ぴこさん
私は親の愛を知らないから 私は自分の子供を愛せない
http://amba.to/28StUlI

 

2016_06_23

Photo by Unsplash
Pixabay

 

還してくれない、循環が起こらない! と怒るときに

あなたはその人と

愛 や 思いやり という種類の循環を起こして

幸せを感じてみたかったのだろうけれど

 

そのときにさ

 

押しつけて 取引しようとは していなかったか

それを起こし合うことを本当に望んでくれている 相手であったか

 

そういうことは きちんと意識したほうがいいと思えるんだ

 

そもそも 愛 やら 思いやり やらは

自分から発動「しちゃう」自然なものであって

 

駆け引き 取引 還してもらうのが目的のもの

そういうことに 使うものじゃないのよ

(あ はっきり書いてゴメン)

 

発動する側が 勝手に発動しちゃう自分を 知ったとき 

うれしく感じる種類のもの というのが基本

 

それを 取引項目として 押しつけておきながら

さらに還してもらおうとするなら それ 単なる計算づくの行為だし

勝手に発動しちゃったのなら そのあとさらに

還してもらおうともくろむのは 

発動時と 返還時で うれしさを二重取りしようと 

やっぱり計算してるってことで

 

それを計算してるのは あなただ ってことなのよ

 

ましてや 還してもらいたい相手を その人にしようと 決めたのも

その相手に 計算づくで 取引をもちかけたのも

どちらも それ あなた自身が選択したんだよ?

 

自分で(取引したい)相手を選んで 

自分が相手に勝手に期待して 持ちかける行動 選んで

自分で それらを決めてるのに 文句や不満 言ってるんだよ?

取引する限り 必ず その「自分勝手さ」という部分は つきまとうよ?

 

期待を裏切られた! とか 恨んでやる! って なんなんだよ と 

私が感じるのは いつもね その部分に なんだ

裏切られたとか言う前に 発動しちゃう自分がいたことは 喜ばなかったの?

そういう機会があったこと そういう相手がいてくれること 

なぜたっぷり 喜ばない 味わわない でいられるんだろう

 

ペットに対しては これ 出来る人 多いと思うんだけれどなぁ……

なぜ 人間相手だと すぐに計算 取引 始めちゃうんだろうね

 

狙わずに 味わうためにやって

そのあとで 結果として 勝手に還ってくるときのうれしさって

狙ってやるときの 10倍 100倍になるよ?

 

ペットの存在 知ってる人なら 意味 わかるよね

「受け止めてくれた 通じた」ときの うれしさ 知ってるよね?

 

人に対しても 完全に ではなくても 

一部 同じスタンスで いいと思うのだけれど

もともとの土台で もう 

たとえば 「いてくれて かわいい! うれしい! 感謝!」

みたいな感じの方向から 捉えれば いいと思うのだけれど……

 

人間が相手なら 取引は するもの しなくちゃいけないもの なの?

それができなければ 「私はダメな存在」なのだと 勝手に決めつけてないかな?

 

2016_06_18

かわいくて 言うこと聞かなくて
存在自体がもう「どうしようもない」って感じで
自分の内側の 愛っぽい何かを 
「勝手に放出させられ軍団」の一味(笑)

Photo by gomopix
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まだまだ自分を知り、学ぶ練習中なのだ

私は、私のことを、鬱のあと初めて(というか今までとは違う)新しい形で、

「好きになっていいのだ」と、許可を出していく練習を続けている。

 

鬱以前の私は、いつもいつも、自分を見張ってた。

悪いところがあったらダメ出しする減点タイプの見張り。

 

母の代わりを果たしているかのように自分を見張って、

何か「良くないこと」があったら、

自分を叱って否定していたから。

惰性でズルズル、ダメなことをやるときはあっても、

それをやりながら、でも心の中ではいつも、批判して自己を否定してた。

 

私は常に、私自身の批評家であり、批判者だったの。

「お母さんの真似」を、して生きてきた(あ、実際のところはどうあれ、

私が、母からそうされている、と勝手に受け止め、

勝手にそうするべきと思い込んで、見習ってきたってことね)。

 

それを強制終了させられ、じゃあ、どうするっていうの? と

真っ白(ある意味、お先真っ暗の視界ゼロ)になって、

その後、土台からしてもう「一からつくり直しかない」という感覚になったとき、

私は初めて自分を『直視する』練習を始めた。

 

この『直視』は、自分を批判なしにただ「見る」というところから始まり、

そこから、自分のことは自分が愛していいんだな、ということを

「言葉としては」知ることが出来た。

 

で、「実際に、私の場合はどうやったらいいのか」を模索し始め、

その練習を始めたわけだ。

 

そして、今のところの「実感」。

 

自分を励ますだけでなく、ときには叱っていい。

そのこと自体は『悪い』わけではない。

それは単なる「心が揺れたことによる気づきのサイン」だから。

 

たとえば今日は楽しい、今日はなんとなくイヤ。

それも当然、あっていいのだ。

イヤとか思っちゃ「いけない」わけではなく、

思ったところでやるべきことはやる必要があるから、

せめてこれ、と5分だけ必要なことをやるとか、

作業ペースを大幅に落とす、とか。

そういう「自分との折り合い」をつければいい。

 

良くないのは、そういう心の動きを「自己採点」に利用すること。

極端な表現をすれば、○○できればプラス30点、出来なきゃその逆、とか、

心の動きなら、前向きの場合、私は100点、

後ろ向きなら、落ち込んでしまうなら、はい、0点、みたいにやること。

 

これがね、単純に

ち・が・う

のよ。

どんな「とき」であっても、私は私の「もっとも強力な味方」であっていい。

自分の、いちばんの応援者は、自分なの。

 

味方で、応援者だからこそ、ときに厳しいことも言ってみたくなる。

でもその動機は、「批判」や「採点」でなく「愛情ゆえ」だ。

そのときの、自分を、愛を持って叱ってる。

そういう「受け止め方」をしていいの。

 

「お母さんのように、お父さんのように」する必要はないの。

「私は私」だから。他の誰でもないから。

 

そこを忘れるから、自分にとってややこしくなり、苦しくなる。

自分を批判する他者(まあ、いちばん多いパターンは

家族等の身近な人かな)の「真似」をする必要、ないのよ。

あなたはその人には「なりきれない」から。

あなたは、自分にとっての「他人」になんて絶対、

なり代わり、できないから。

 

なのに、なぜ私は、誰かのように、あるいは誰かの真似をして、

私自身を常に採点しているのだろう?

私はいつから、自分の批評家、批判者になったのだろう?

なぜ、なったのだろう?

 

そういうところを、ひも解いていく練習は、とても自分を柔らかくするよ。

私もまだまだ、そういうことの、練習中なのです。

っていうか、これ、案外、私のなかでは根深いわ……(^_^;)

 

2016_06_16

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