カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

自身のことを……

もう一つ、抽象論にて、表明させてください。

 

どこまで率直に、

そうであろう 

と、心掛けるか。

 

何かを認めてもらうために、ではなく。

自分が、自分を、落ち着かせ、

肚をくくる覚悟を『続ける』ために、

自身で心掛ける。

 

ただ、それだけのために

「私はこうである」ことにする、と

決意表明する。

 

こうなろう、でもない。

そんな夢を語る時期が必要なときも

確かにあったけれど、

もう、そうすることに決める! と

思えたときには

「私は、こうである」という表現で

世界に向かって宣言するしかなくなるのだ。

 

それは、切羽詰まってのことでもない。

他者から何を思われようと

貫き通す覚悟を決めれば、

自然にそういう決意の形になるのだと、

今朝、気づいた。

 

焦るつもりもないし、

奢り高ぶるつもりもない。

これから何が起ころうと、

「私はこうである」という姿勢を、

貫きたいのだ、私が、何よりも。

 

具体的にどうするか、ではなく、

自分がどうあるか、から、

次のステップが見つかり始める。

このことを、私はここ数年間で

たくさん見せてもらい、教えてもらえたのだ。

 

だから今度は、私が、やってみる番である。

 

そんな気持ちから、早朝に書いた

「私は大樹」の意思表明が生まれた。

 

私は、柳には、なれないのです。

ボッキリと折れたことで、それには気づいた。

でも、もうあの折れ方をしないでも済む、

自分にも出会えた。

 

自分に、嘘をつきたくない。

そして、もう私は、二度と自死も「選べ」ない。

 

自死をあきらめてから、結局は

この2つを、自分自身に叩き込む練習をしてきて、

その結果、生まれた「在り方」なのだ。

 

自分自身に嘘をつかなければ、

折れようはないんだな、という納得感を

得られたことは、とても大きかった。

 

そしてまた、このようなブログを始めて、

そこで得たもの、経験した物事、

他の方の記事等から、出会いから、

得られたもの。

 

もろもろを通じ、導かれて、

これでいいのだ、と思えるようになったことが

本当にありがたい。

 

ゆえに、もう一度、書く。

私は、春の初めを纏う大樹である。

その道を、最後まで歩いて行く。

 

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Photo by AllAnd
Pixabay

 

お役目

私は言の葉を 広げている大樹

春の初めを纏う大樹

 

私のもとに来られ 休まれるかどうかは その方の自由

 

私は訪れた方に

ひとときの 休息場所を提供し

その方が己の春を迎えられる

準備の時間を ともにする

 

小さな春を 自力で見つけた方は

私の元を離れ 更なる自己の旅へ向かわれる

必ず 再び 自力で 歩き出される

 

私は言の葉を広げ

その方の「見つける力」を ただ 信じる

そうした自己の役目を

果たすべく佇む 一本の大樹

 

そのための整いを 怠らないようにしよう

言の葉を丁寧に扱い 広げ続けよう

その方自身の 春を見つける力の蓄えを

それぞれの言の葉が きっと手伝うだろうから

 

光を 木漏れ日から 再び

それが私の お役目である

 

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Photo by Hans
Pixabay

 

自分を責めても楽しくない→ならば やめる

何かができるようになったら

何かのきっかけさえあれば

自分を責めるのをやめられるのに

 

えーと

確かに そんな機会に巡りあえたら

ラッキーだよ

ごくたまに そういう方法も

使える場合は あるかもしれない

 

ごく たまに ね

 

たいていの場合 その 

いつ巡りあえるかわからない機会に向かって

延々 努力を続けていくうちに

止まってしまったり するよね

 

だってすでに相当 自分を責めてきて

エネルギーが枯渇気味だから

すぐにエネルギー切れを起こして

ストップしたり 

元の場所に転がっていっちゃったりするんだけど?

(あ つまりね

それが坂道で大石 転がして

頂上へ持っていくような努力だった場合 

休んでるときも石を支える力が必要だから

支え切れなければ

当然 元のところへ転がっていくよ という話)

 

あのさ 

得て 初めて 自己批判をやめられる

そんな まれな巡りあわせの方法以外にね

 

単純に やめる

 

っていう方法もあるんだけれど

なぜそっちは 採用しないのかな

 

そんなに自分を立派にしなきゃ 気がすまない?

それはなぜ? 

なぜ達成や立派さにこだわらなくちゃいけないの?

それは何から来た信念? 

なぜそんなことを当たり前だと思ってるの?

そうじゃなきゃ 何があなたを困らせるの?

 

バカにされるのは 

あなたが立派じゃないからでなくて

他人をバカにするような

『自己の未解決問題』を抱えた相手とばかり付き合って

パワーバランスゲームばかり 争ってきたからじゃないの?

 

あるいはあなたが パワーバランスゲームにばかり

注目してきたからこそ じゃないの?

 

自分を責めたら 楽しくないよね

だったら止めなよ それだけだよ

責め続けなきゃ堕落するとか

マゾヒストかよ?

 

責めるのは やめたくない

ゆるめることはあっても根本的にはやめない

けれど うまくいかせたい?

 

つまりは何か 他人に言い訳できそうな理由を作らなくちゃって?

 

自己を責めるのをやめるために

言い訳できるものを作る努力 するのじゃなく

きっかけに巡りあう機会を 待つのでもなく

 

情けない自分を そのままで

いたわる練習を始めるほうが

よほど効果的なんだけれど?

自分にまで言い訳できなきゃ 

何かいけない理由でもあるわけ?

 

楽しくないことは やめる

自分をバカにする採点 

その練習ばっかり積むことも含めてね

 

やらない という選択するだけだよ

そこに立派な大義名分つけなきゃとか

何か 成功さえすれば とか

もう見栄張るの 本気でやめなよ……苦しいのなら

 

苦しいからこそ 先に 責めること自体を やめる

別にそれでもいいんだよ

こっちを本気で練習したことないのに

それではダメとか 決めつけんなよ 

知ってるやり方しかイヤとか? お子さまなの?

 

傷ついた人に 静かに寄り添えたり 見守れたり

相手の力を信じてあげられる 大人になりなよ

 

そして 見守る 寄り添う その練習のときには 当然 

自分の存在も含めるんだよ 傷ついた自分で練習可能なんだよ

 

それをダメとか決めつけている 原因のほうを 先に知りなよ……

 

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Photo by Hans
Pixabay