カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

あなたの「心」はどこ行った?

すみません、たぶん毒舌バージョン二夜め、参ります。

 

私はこんなにも辛い目にあって、

たいへんな目にあって、

苦しくて、苦しくて、寂しくて。

 

うん。

私もいろいろな場面で、そう思ったことはある。

この場合、その苦しみの深さ、を問題にしないでね、

そういう不幸自慢ごっこって、キリがないから。

何ならインドで道ばたに倒れている人と自分を、

想像で比べてみるといいよ。

キリがない、の意味、わかると思う。

 

傷ついた者の傷み具合、その痛みの度合いは、傷ついた者にしかわからない。

それは本当に、真剣に、そう思う。

だからその苦しみについては、たいしたことないのに、などと

言うつもりもない。

 

でもね、ときどき、聞こえてくるの。

直接、何かを言われたわけじゃないよ、

だから私がいろいろなところから

「そう受け止めた」解釈だけれどね。

 

私はこんなに傷ついて苦しいのだから、

誰か、私に関わってくれる人なら、一人くらい、

私がどうしたいかを尋ねてくれて、

つまり私のペースに合わせて、

私の望む通りに、

私をていねいに扱って、

大切にしてくれていいのに

っていう声が、ときどき届く気がするの。

 

でも、このとき、私は反射的に感じるのよ。

 

それ、あなた自身の「心」の力は、どこへやってるの?

って。

 

他者の愛、他者の思いやり、他者の心遣い。

それは本当にありがたいし美しいよ。

だからそれを、今の私が「ほしい」、

今、自分が苦しいからこそ。

そう思う気持ちも、わからないわけではないの。

 

でもね。

何をどう、他者ががんばったって、

他者はあなたに、成り代われないの。

どんなにあなたに尽くしたって、手助け、にしかならないのよ。

 

あなたの心の「内側」は、あなた自身の中にあって、

あなた自身が「受け止めて感じる」もの、だよね。

 

それを全部、あなたにとって『だけ』

心地よい方向へ「他人にやってもらおう」とする場合、

説明する労力だけで、相当なものになると思うよ。

そしてうまくいかなきゃ、きっとそこで、

相手に対する「かんしゃく」の気持ちも、湧いてきちゃうでしょう?

そうじゃないのに! って。

 

「そうそう!」って、あなたの思いにぴったりマッチできるかどうか。

良い方向での「そう、それ!」という感覚、感性。

その、

「そうであるかどうか」を知っているのは、

あなただけなのよ。

 

だから本当は、いのいちばんに、

あなたが自分のために何かやってあげる、

あなた自身の希望を叶えてあげることが

今のあなたには大切なんだと、私には思えるの。

 

他者に、自分が心地よくなるための選択まで任せて、

自分の思い通りにしてもらうことばかり

夢想して期待して、他者に向かって練習したがるから、ある意味その部分でも、

あなたの「苦しい」がよけいに、長引いているのかも、と。

 

自分の選択であれば、自分がそれに心地よさ、を感じるか、

毎回、わかるよね。

あなたにも、自分のことを「心地よくさせる力」があるよ。

それは物理的な行動や、行動の結果に限らず、

何より先に「思い」の部分で。

 

望んで期待して「行動として」やってもらって裏切られて(他者にも、自分にも)、

という結果だけを採点し続ける限り、平穏、なんていう世界は訪れない。

常に刺激、等の、そういう方向の「受け取り」を望み、

自分の思考も行動もすべて

「それを受け取るため」の、計算づくのものだけ、になってしまう。

 

その結果、本当は他者に全部お任せしたいのに

なぜかうまくいかない! という傷に変わるのだと、私には思える。

 

一昨日からの、恨みの話の、つづきにもなったね、これ。

 

あなた自身に向けてあげられる

あなたの「心」、あなたの「心の力」を、

あなたはどこへ隠しちゃってるの?

 

それをね、まずちゃんと「身体を休め」て、心の体力を取り戻してから

探すことのほうが、先だと思えるよ。

 

身近な(近づいてくれる)他者から「もらえ」なければ、

立派な人間として周囲に自慢できない、

つまり他者より優位に立てない、とか、

何か、そういう方向性のものを

正しい、そうあるべき、と感じていない?

「もらう」ものは愛情だったり、お金だったり、立場や地位だったり、

賞賛だったりするだろうけれど。

 

その「私が喜べるものを『他人にお任せ』してこそ、

世の中で価値あるんでしょう!」

という勘違い。

これは、私さえ良かったら、常にそれ『だけ』でいいんだ、という

逆の思い込みバージョンもありえるだろうけれど、

それこそが、あなたを苦しめているのだと、私には感じるられるよ

(私がいちばんに、と 私さえ良かったら、は「まったく別もの」だからね)。

結局のところ、あなたは何か誰かの飾り人形でもないし、

他者も、あなたの人形にはなり得ないのだから。

 

2016_04_13_1

Photo by geralt
Pixabay

 

「恨み」の考察、真夜中の追加説明

先に書いた記事の、説明、勝手に追加いたします。

「ラクして他者より優位」、

周囲に「わかりやすく」幸せなところを見せ付けたい、の部分ね。

 

そうやって自分の価値を誇示したいのかな。

そうやって誇示できなきゃ「負けてる」とか?

 

え、ラクしてない、と思ってる?

そりゃ、相手に、どうやって

こちらを幸せに感じさせるような努力を「やらせるか」は

工夫してるかもしれないけれどさ。

「自分を幸せにする」という部分では、何も責任を取ってないよ。

 

たとえば。

自分が幸せを感じられそうなこと、その行動を

相手にやらせるために指示する(懇願という命令的なヤツも使う)。

 

あとは、相手のやったこと、その採点への意識集中だよね。

相手の言動を評価して、気に入らなきゃ文句つけて。

あ、「態度」にも文句つけるかな。

私を幸せな気持ちにする態度、とってないじゃない! とか。

 

それなのに、というかそれに加え、自分のほうのことは

あなたの言う通り、望む通り、やったのに! などとも言う。

 

つまりは相手のやったことも、自分のやったことも、

相手のせい、相手の責任にしてるよね。

どちらの場面でも、その瞬間、その時点ですでに、

自分を幸せにするための手法を自分では考えも実践もせず

相手に丸投げしてる、

で、うまくやってくれない、望み通りの反応をしてくれない場合は批判しまくり。

それが今の段階の感情、つまり「恨み」だよね。

 

ね、恨んでる間って、自分の分の「自己を幸せにする」責任、

相手に丸投げでラクしてるでしょ。

少しは意味、通じたかな?

 

今回、毒舌的な書き方をしてみたくなった理由は、

私自身もわからない。

でも、指示して他者にやらせて「その結果を、結局のところ、見て」

あれこれ言う、というシチュエーションって

仕事で言えばクライアントさん側とか、上司の立場だよね。

 

あなたはつまり、お客様で、相手に何かを支払って、という契約をしたいの?

そうじゃなきゃ、相手よりエライ? 

あなたと相手との関係はそんなふうに「上か下」しかないわけ? 

とは、感じていたんだよね。

 

以上、夜中に目が覚めてさらに追加して、ゴメンね。

 

2016_04_12

 

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

「恨み」という感情、今日の私の考察

誰かを延々、恨んでいるとき。

そこで自分が選択していることは

私は「自己の幸せの実現」という責任を、

あなたにまるまる放り投げて

全部「やらせたかった」のに、

なぜあなたは、それをやらなかったのよ!

という、相手への責任追及である。

 

自分を幸せにするという責任を、自分では負わず、

相手に、あなたの勝手で丸投げしておきながら、

「それを受け止めて実行しなかったなんて!!」と言っている状態。

 

え? まだ表現が難しい? じゃあ、これならどうかな。

私は○○において、幸せな気分を感じたい
(○○は仕事でも恋愛でも、何でもいいよ)

→でも、自分で自分を幸せにする、という責務ってたいへんそうに感じるから、
そんな面倒は相手に丸投げして、相手に全部「やらせ」たかった

→相手はそれを引き受けなかった

→なぜ私の分の責任を、あなたは負わなかったのよ!

って、文句を言い続けている状態。

 

つまりは他人任せ、自分の責任を、自分で負いたくないの、今も。

自分の、その「逃げ」の部分を見たくないから、

あいつのせいにしちゃえばいい! って、やっている。

 

親子の間で、家族の間で、彼氏彼女の間で、

上司と部下、先輩と後輩、友達同士……。

そのバリエーションやシチュエーションは、さまざまあるだろうね。

 

そうなのよ。

恨みを続けていられる間は、自分で自分の責任、取らなくていいの。

 

そして一見、似たものに思える『憎しみ』という感情と『恨み』は、

ともに、他者のせい、という共通項はあっても、

その『自分で自分を幸せにする責任』の部分で、

方向性が全然、違うな、と感じる。

 

憎しみは、「壊されたもの」への執着(という表現をあえて使うね、ごめん)と、

「壊した責任を持つ」と感じられる他者への怒りだから。

幸せの自己責任、という部分において、

毛色がはっきり違うように思えるのだ。

 

ま、両方を混ぜている人も、いるだろうけれど。

 

恨みという感情ってね、間違いなく、

あなたが逃げている部分、あるのよ。

これを読んでかなり腹が立つ人もいると思うけれど、

じゃあ、あなたはなぜ自分で自分を幸せにしないの? って尋ねるわ。

 

そこに明確に答えられる人は、どうぞコメントで説明してくださいな。

どんなに相手がひどいか、または自分が恵まれていなくて不幸か、等は

延々と語れるだろうけれど、

なぜ自分で自分のことを幸せにしようとはしないの? 

という質問に、「そうしない理由」をガンガン述べられる人って、

まずそんなにいないと、私は思う。

 

本当に自分の幸せの責任を、自分で負うつもりなら

自分がイヤだと思う対象に対して延々と、

自己のエネルギーと時間を使うことのバカバカしさ

(しかもそのエネルギーも時間も「真っ黒」ゆえ、自分が疲れるしね)に

気づいていくから、やがて「恨む」行為自体を、もう忘れようとするし、

実際、徐々に忘れられる。

 

「そんなことに自分を使うくらいなら、

他のことに意識を向けよう、自分のために」って思えるもの。

 

それができない、というのなら、

そもそもあなたが、その人と関わっているときに

相手の力を「使って」自分を幸せに「させよう」と、

もくろんでいたってことだよ。

 

心理学の専門用語を使うなら、これを依存、とも呼ぶのだろうけれど、

今日の私としては(ごめん、別に意地悪で言ってるわけじゃなくて

はっきり書きたい気分なだけ)、

「ああ、つまりは、自分で自分を幸せにするなんて、

『他人の幸せっぷりに負ける』ようでいやだから、

自分の分の責任は全部、他人に丸投げして、

自分は責任負わずに、ラクして他者より『優位に立ちたい』のよね」

と表現したいわ。

 

ということで、今日の私が言いたいことは、書けたように思う。

あとはあなたの自由なので、あなたにお任せするけれど、

こういうことを、こういう書き方するの、私も初めてなので、

最後に、もう一度、聞いてくね。

 

あなたは、

なぜ自分で、自分のことを幸せにしようとはしないの?

 

その勇気と覚悟は、どんな状況からでも、いつからでも、

出して&持っていい、と私には思えるよ。

 

P.S そろそろ私自身も『幸せになる勇気』を読む時期になったのだろうな、

この文章が自分の内側から出るってことは……、と、ふと思う。

「依存」は幸い、ないけれど、

なにがしかの「逃げ」、いや「避け」は、あったか……? うん、あるな(笑)(^_^;)

 

2016_04_11

Photo by Wil Stewart
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