誰かを延々、恨んでいるとき。
そこで自分が選択していることは
私は「自己の幸せの実現」という責任を、
あなたにまるまる放り投げて
全部「やらせたかった」のに、
なぜあなたは、それをやらなかったのよ!
という、相手への責任追及である。
自分を幸せにするという責任を、自分では負わず、
相手に、あなたの勝手で丸投げしておきながら、
「それを受け止めて実行しなかったなんて!!」と言っている状態。
え? まだ表現が難しい? じゃあ、これならどうかな。
私は○○において、幸せな気分を感じたい
(○○は仕事でも恋愛でも、何でもいいよ)
→でも、自分で自分を幸せにする、という責務ってたいへんそうに感じるから、
そんな面倒は相手に丸投げして、相手に全部「やらせ」たかった
→相手はそれを引き受けなかった
→なぜ私の分の責任を、あなたは負わなかったのよ!
って、文句を言い続けている状態。
つまりは他人任せ、自分の責任を、自分で負いたくないの、今も。
自分の、その「逃げ」の部分を見たくないから、
あいつのせいにしちゃえばいい! って、やっている。
親子の間で、家族の間で、彼氏彼女の間で、
上司と部下、先輩と後輩、友達同士……。
そのバリエーションやシチュエーションは、さまざまあるだろうね。
そうなのよ。
恨みを続けていられる間は、自分で自分の責任、取らなくていいの。
そして一見、似たものに思える『憎しみ』という感情と『恨み』は、
ともに、他者のせい、という共通項はあっても、
その『自分で自分を幸せにする責任』の部分で、
方向性が全然、違うな、と感じる。
憎しみは、「壊されたもの」への執着(という表現をあえて使うね、ごめん)と、
「壊した責任を持つ」と感じられる他者への怒りだから。
幸せの自己責任、という部分において、
毛色がはっきり違うように思えるのだ。
ま、両方を混ぜている人も、いるだろうけれど。
恨みという感情ってね、間違いなく、
あなたが逃げている部分、あるのよ。
これを読んでかなり腹が立つ人もいると思うけれど、
じゃあ、あなたはなぜ自分で自分を幸せにしないの? って尋ねるわ。
そこに明確に答えられる人は、どうぞコメントで説明してくださいな。
どんなに相手がひどいか、または自分が恵まれていなくて不幸か、等は
延々と語れるだろうけれど、
なぜ自分で自分のことを幸せにしようとはしないの?
という質問に、「そうしない理由」をガンガン述べられる人って、
まずそんなにいないと、私は思う。
本当に自分の幸せの責任を、自分で負うつもりなら
自分がイヤだと思う対象に対して延々と、
自己のエネルギーと時間を使うことのバカバカしさ
(しかもそのエネルギーも時間も「真っ黒」ゆえ、自分が疲れるしね)に
気づいていくから、やがて「恨む」行為自体を、もう忘れようとするし、
実際、徐々に忘れられる。
「そんなことに自分を使うくらいなら、
他のことに意識を向けよう、自分のために」って思えるもの。
それができない、というのなら、
そもそもあなたが、その人と関わっているときに
相手の力を「使って」自分を幸せに「させよう」と、
もくろんでいたってことだよ。
心理学の専門用語を使うなら、これを依存、とも呼ぶのだろうけれど、
今日の私としては(ごめん、別に意地悪で言ってるわけじゃなくて
はっきり書きたい気分なだけ)、
「ああ、つまりは、自分で自分を幸せにするなんて、
『他人の幸せっぷりに負ける』ようでいやだから、
自分の分の責任は全部、他人に丸投げして、
自分は責任負わずに、ラクして他者より『優位に立ちたい』のよね」
と表現したいわ。
ということで、今日の私が言いたいことは、書けたように思う。
あとはあなたの自由なので、あなたにお任せするけれど、
こういうことを、こういう書き方するの、私も初めてなので、
最後に、もう一度、聞いてくね。
あなたは、
なぜ自分で、自分のことを幸せにしようとはしないの?
その勇気と覚悟は、どんな状況からでも、いつからでも、
出して&持っていい、と私には思えるよ。
P.S そろそろ私自身も『幸せになる勇気』を読む時期になったのだろうな、
この文章が自分の内側から出るってことは……、と、ふと思う。
「依存」は幸い、ないけれど、
なにがしかの「逃げ」、いや「避け」は、あったか……? うん、あるな(笑)(^_^;)
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