カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

自分を知る……自分と「友達」になってみる

昨日のつづき、になるかな。

他者との関係云々、を捉える前に、自分を知ることについて。

 

そもそもあなたは、本当はどうなりたいと思っているのか、

なぜそうなりたいと思えるのか、

その「気持ち」は本当に、自分が喜べる種類ものなのか……等をね。

 

初めて出会った人のことを知る、みたいなつもりで、真摯に、

自分に質問してあげてみてください。

 

イヤな自分を『見たくない』と言い張る人は、

たいてい、そういう部分を見ることを

「おびえて」やらないな、と感じているのです。

 

人としてどうあるべきか、みたいなこと、表面的な夢や願望は、

限りなく語れるのに、

自分が「本当はどう捉えていて、それはなぜそう感じるの?

本当の本当には、何を望んでいて、それはなぜなの?」

の部分は、見ないんだよね。

 

深く掘り下げていくと、自分の器の小ささが、露呈するように感じて、

それがもう、感覚的にイヤだと感じて逃げるのかな……と(かく言う私も、

ボッキリ折れるまでは、まんまと、そんな人間の1人でした(^_^;)。

ええ、強がり方面の表現を使ってやってたな、私の場合)。

 

でも、そこを見ずして、

上っ面の「こうあるべきなのに」「こうなりたいのに」ばっかりで固めて

他者にいつも、自分の持論で反論・説得・主張・自己卑下(あるいは

心のなかで相手に文句言い……)を、展開している人を見ているとね、

 

そのあなたの今の「姿勢」のほうが、よっぽど

『あなたの器の小ささ』を露呈しちゃってるよ

 

と思えるのだ。

 

別に自分が、小さくて、いいじゃない。小さい部分もあって当然じゃない。

だからこそ、逆に、愛されたりもするんだよ?

どんっっっだけ、大きく立派で完璧でないと、ゆるさないのさ、自分のこと。

その大言壮語、誇大妄想、もうさ、そんな無理しなくていいんだよ?

 

たとえば、だけれど。

最近、よく見かける(ペタやいいね、をくれる)集客ブログのうち、

『友達100人、カレカノもできて!』なヤツって、

ご本人の盛り上がり気分が大げさすぎて、

逆に必死さ、痛々しさが伝わってくる。

 

知らない相手からいきなり、熱々な言葉で痛さと喜びを語られると

他者ってけっこう、冷静になるのよ、知ってる? 

そして「うん、その100人、たぶんほとんどが『知り合い』ってレベルだろうし、

恋愛相手とも、結婚してからにしてね」

というツッコミを簡単に入れられる感じがする(^_^;)

 

マーケや集客、とかいう話以前に、

まず他人の感情というものや、

自分との「違い」を知って、人間関係を磨いておいでよ。

それこそその、100人との間で、さ。

 

例に挙げて申し訳ないけれど、そう、これも

器の小ささ、の、ある露呈なんだよ。

自分しか見てないってことを、はっきり伝えちゃってるよ、

仕事として「友達作り」をテーマに選んでるのに! 

など、くっきりした「ズレ」を感じるんだよね。

 

しかも、自分のことしか見てません! なのに、

実際、その人が見つめているのは「表面的な自分」のみっぽい。

「奥の自分」のことは、自分で、つかんでなくない?

お金がいっぱいあれば幸せになれるのに! とかいう短絡思考と

同じパターンになってない?(そういう意味合いの宣伝文章を

実際に書いておられるので、私はそう感じてしまうのだ)。

 

外側を埋めることに必死な人は、その前に、自分を知ろうよ。

自分が外側ばっかり見ている理由(他者批判が好きな人とかも同じだと思える)、

それはなぜなのか、自分自身が、先に知ろうよ。

 

そのために、もっとまともに、本気で改めて、

自分自身と 「はじめまして」 を

やってみていいと思う。

 

これまでさんざん罵倒してきた、

さんざん知っている「つもり」になっている、

あなたの「今の自分」って、

すごく表面的な部分だったかもしれないよ?

 

しかもその表面的なところだけで、

うまくいく、いかない、って、判断・評価してきたかもよ?

 

自分が何を喜び、何をうれしいと感じ、なぜそうなりたいのか、

そうなったら、さらにどう感じるのか、それはなぜ、なのか。

 

何回か「私はなぜ?」を繰り返し、

それは本当の望み? あなたが心から喜べるもの? と、

自分に質問してみたとき(自分の内側の感覚のみ、ね。

相手が云々とかいう、他者が何かする、でなく、

自分が感じる、自分がしている、その瞬間、その場面に対しての喜びだよ)。

 

「自分の内側の喜び」を想像しただけで、心が思わず躍る。

そんな単純さ、そんな素直な笑顔で、即刻

自分が「うん!」って、答えられないなら

(そして内側の喜び、と言われたときでも、

他者の反応についてのことしか、自分が例として想像できないなら)。

 

あなたが今まで見てこなかった喜びや悲しみ、

あなたが見てこなかった「自分」は、まだまだたくさん

あなたの内側にいると思えるよ。

 

2016_03_30

Photo by tookapic
Pixabay

 

媚びもまたウソのひとつ

そうは思っていないのに、

そうだよね、と同意する。

嫌われたくないから。

 

本当はしたくないのに

うん、やるよ、と、

まるで自分がそれをやること、

楽しんでいるかのような返事をする。

嫌われたくないから。

 

そんなふうに思わないで! 

私は、あなたが大事で大事で、って

自分が怒りを感じているときにも、

相手を先に懐柔しようとする。

嫌われたくないから。

 

思っていないことに同意する。

やりたくないことをやる。

怒りより、相手からの理解、のほうを大事にする。

 

全部、相手に対して、ウソついてるよね。

相手にウソをついて、その場をしのごうとしてるよね。

 

あなたはウソで相手を丸め込もうとしているの?

あなたは、都合よく相手をコントロールしたいだけ、

そのためなら手段を選ばないわ! と言わんばかりに

ウソをついて。

 

それ、自分に対してさえ、本心隠してるよね。

自分が本当は何を望んでいるか、

見ないようにしちゃうんだもの。

ウソ、相手にだけでなくて自分にも、ついてるよね。

 

それで苦しくならないようにするなんて、無理だよ。

それで相手とうまくいけばいいとか、無茶だよ。

自分についたウソは、いつか自分にバレるよ?

相手についたウソも、バレることあるよ?

 

あなた、わざわざ、

信用を失うためにやってるわけじゃないのに、

結果として、自分からも相手からも

『信用のおけないヤツ』

って扱いを、やがてされることになるよ?

 

だからね、他者依存も、さらには共依存も、マズいのよ。

共依存なんて「お互いをウソで塗り固める」しかなくなるから。

それこそが思いやりの証だ、広い意味での愛の証なんだ、

ってお互いに言い張り合って、

相手が自分を裏切らないか、

お互いに見張りをし合うようになるから。

 

そんなの、愛でも平穏でもないわ。

自分で、我欲とおびえだけしか見つめない、

結局は相手のことすら真実の目で見ようとしない、牢獄だわ。

 

ずっと不安でずっと不満なの、当たり前でしょう?

相手にも自分にもウソつきまくれば、

何が本当に『自分にとって心地よいか』なんて、

わからなくなるじゃない。

 

いい加減、自分にウソつくの、やめなよ。

そこから、始めなよ。

媚びも格好つけも、

本気でやめていいんだよ。

 

それが、やがて、他者への、他者からの信頼を生む。

 

だからこそ、自分の感じること、

無視しちゃいけないんだよ。

その練習が先に、必要なの。

 

この気持ちって、私にとって本当?

おびえから来るウソじゃない?

もし、この瞬間、おびえないでもだいじょうぶだとしたら、

私は何を選ぶ?

 

2016_03_29

Photo by Schmid-Reportagen
Pixabay

 

「消える」というあきらめ方をする前に

自分を、この世から消したくなるのは

自分を罵倒することに疲れたから、

状況を自分でコントロールできなくなったから、

この世界の現状に疲れたから、だよね。

 

でもそれ、自分を罵倒しつつも、自分を守ろうとして

(立場や自分のいる意味、みたいなものをね、守ろうとして)

選びたくなるのかもな、と思えるよ。

 

少なくとも、私は過去、消えたかったとき、そうだった。

ダメな自分が大嫌いで、でも気持ちの奥底では、最後の手段みたいに、

そうやってどこか守ろうとしてた、自分を。

 

そこには、実は、自分を大切にしたい気持ちが

ちゃんと隠れていて、

本当は「ふつうにまともに」大切にしたいからこそ!

ダメな自分を「叱り飛ばす」形で

あれこれ、説教を、自分に続けてきたんだと思う。

 

そこに、ときには、自分をわかってくれない

他者への文句も挟みながら、でも本当は同時に、

相手にちゃんと立ち向かえない(あなたが

想像するところの勝ちを得られない)って部分で、

自分をバリバリに叱ってるんだよね。

 

うん、それ、心の奥で

自分の最後のプライドを守る、

自分を守るつもりでいる感覚、になっているとは

思うけれど、そう思ってるのになぜか、

それよりも「こんな自分を罰したい」が勝ってしまってて、

自分を究極に痛めつけてやりたくもなってる(罰したい、ね)。

かなり視野の狭い、しかもマゾ的な発想になってるよ。

 

そんな自分を、見たくない、感じたくないんだよね、もう。

そこまで追いつめたのは、自分自身なんだとわかってるし。

 

で、そこまで自分を追いつめた理由のひとつってね。

本当に望んではいない「やり方」ばかり採用して、やって、

やることで得られる「結果」ばかりを自分で採点してきたから、だよ。

あるいは偏った考え方の他者の採点だけを

自分が信じてきたから、なんだ。

 

すでに今まで、やりたくない「やり方」を、

自分から選んでおきながら、

うまくできなければ罵倒してきたの、自分のこと。

 

だったらさ、そこ、やめてみようよ。

もう自分は、消えてもいいのだよね?

だったらその前に一度くらい、真剣に、

素直に、自分を、まともに、大切にしてみようよ。

 

「やり方」「結果」の前に、自分の「感じること」を

ちゃんと、つかんであげようよ。

 

何かを「実行して実現」させるより前に

「自分が何を感じていて 何がうれしくて何が嫌か」を

もっとまともに捉えてあげていいと思えるの。

他人の目を気にして、見栄ばっかり張る前にさ。

 

それがたぶん、本当の意味での「自分を知る」第一歩だよ。

どうせ消えてもいいのなら、そこをちゃんと一度くらい、

やってみてあげたら? 自分に、さ。

 

感じることに、素直になる。

素直に、それを表す。

かんしゃくを起こしたり、激泣きまでしなくても、

自分のこと、自身に対して、他者に対して、

楽に表現できるようになるよ。

 

そしてそれができたらね、これだけは絶対、保証する。

「私の中の世界」が、変わる。

 

かつ、それがわかり始めてから、さらに自分の感覚を

大切にして、感じ取って、素直に表現(欲ばっかり見つめて、

他者へ不満だけを「ぶちまける」こともなくなるよ、

自分の感覚と気持ちを、本当に感じてあげられたらね)、

できるようになったら?

 

時間の差はあれ「私の周りの世界」、

つまり現実も、変わり始める。

 

だから今はまず、今の自分の、本当の叫びを、

最初に逃げずに聴いてあげてください。

カッコつけずに、非難もせずに、聴いてあげて。

 

消えるのは、そういう「やったことのないチャレンジ」を、

ちゃんと感じてみてあげたあとでも、全然、遅くないよ。

 

勢いだけで、消える前に、さ。

どうかな?

 

2016_03_28

Photo by condesign
Pixabay