カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

良いか、悪いか?

良いを目指したいのに

ダメばっかり

 

うん あのね

良い でもなく

悪い でもない状態を

普通

って言うのよ 知ってた?

 

つまり 普通はイヤだと

常に 良い 状態 でないとイヤだと

 

でもさ その あなたの言うところの

良い って ドーパミンが出るような

うれしい! 楽しい! 喜んでる!

私 幸せだわ!

って感覚 だよね?

 

それが たくさんないといけない ってことは

しょっちゅう 

ドーパミン 出まくりにならなければ

幸せじゃないってことで

 

えーとさ そこなのよ 苦しみの元

そもそもドーパミンが出るときって つまりは

刺激

であるからして……

それって

状態

では ないのよね……

必ず

瞬間

なのだよ

 

ドーパミンが出まくる瞬間が それこそ

どんどん続いて 途切れなければ

やがて 身体は疲労しまくるし

気持ちも疲れるし 飽きるし

その分 ドーパミンが

途切れたあとの反動はひどいよ

 

要はすごくグッタリして

あらゆる能率も 体力も 落ちるだけだから

決して 良い状態 にはなっていかないよ?

 

瞬間のうれしさって

瞬間だからこそ

幸せ の範囲で収まってくれるわけで

常にラブラブ とか

常にフワフワ とか

うん ヤバイからさ それ 正直言って

 

あなたが求めているのって

ねえ つまりは刺激なの?

それで 刺激がない!

ドーパミンが出るような出来事が起こらない!

となると 途端に  なわけ?

 

もしかしたら

周りが悪いだの

自分が悪いだの

それもまた

刺激の反動だった ってことはない?

 

だからね 何度も言うの

遠くから 自分を

良い悪いの判断なし

単純に「眺める」練習も必要だと思えるよ と

 

状態 と 刺激 を

区別する練習になるからさ

 

状態の 幸せは

別に ドーパミンが出ていなくても

感じられるよ? 意味 わかるかな?

 

誰かと 何かで 刺激を受け取り合いしないと

幸せでない! と信じているのは 

それこそいったい なぜなんだろうね?

そっちを 知っていくことのほうが

悪いところ直して 良いもの(刺激なんだが)を

受け取れるようにならなくちゃ! とか 

夢想するよりは 

ずっと ずっと 大事なんだけれどな

 

ねえ なぜ 喜びの刺激だけが幸せなのだと

あなたは信じているのだろうね?

 

2015_11_02

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

無意識の「クセ」の話

今日はちょっと雑談っぽく、身体のこと、気持ちのこと、

その連動など、気づいたことの羅列です。

 

私のことを無視しようにも、

お偉いさんが、業務の流れについて

「これは今、どうなっているの?」と見直しを進められていて

(立場が変わってお偉いさんは全体を見渡す位置になられたため、

その方から私への、そういう質問が激増)、

私とそのお偉いさんの会話に聞き耳を立てざるを得なくなった(盗み聞きとも言うが)

最近のお姉さん。

 

そして私の言葉に、お偉いさんがなるほど、と言っていることにも

だんだん気づいてきたようで(全体の流れの話ゆえ改善案などもテーマになる)、

下手にツンケンすると、自分が損をする可能性があるということを

やっと少しずつ、わかってきた(?)様子。

 

こちらと目を合わさないのはそのままだけど、角度がゆるい(笑)

そして身体ごと硬直させてくるようなことはなくなった(って、意味わかるかな? 

拒否的な、かたくなな態度で、こちらに接してくる感じ。

彼女のそういう子どもっぽさゆえに、周りが微妙に緊張させられ、

とくにお偉いさんからはその光景を見るたび軽く、私が気を遣われて

心配されてる感じなんだよね……。

お偉いさん、まただね、って顔をされてこちらをご覧になられるから、

仕方なく私が微笑で返す、とか。

当事者である私は、自分側の弛緩を心がけているのだけれど、頻繁だからね)。

 

でまあ、そんなところから私は

「気持ちで拒否すると、身体が『態度』でそれを表しちゃうんだなあ」

ということも、改めて感じていたのだが。

 

そのおかげか、自分が身につけている「動作」についても気づくことになった。

これは単に「小走りするとき」の話なのだけれど。

 

最初は、お姉さんが社内で小走りするときに

バタバタ、足音がすることがきっかけだった。

お姉さん、やたら走るのです、なぜか。

まあ、いきなりかつ急ぎの書類作成などもあるから、

そのせいかもしれない(私は走らないタイプってだけかも)。

 

で、そのときの足音が、結構大きく聞こえる。

カーペット敷きのフロアで、3cmヒールを履いておられ、

ぺたんこシューズよりは走りづらいであろうのは当然だが、

彼女の場合、バタバタッと、なんかそれ以上の音がする。

 

なぜこんなに聞こえるのかなあ、と思って、自分の動作を振り返ったら、

走るときと歩くときの姿勢、実は私、違ってるわ……と。

点滅しかけた信号を渡ったときに、ふっと、ね、気づいた。

 

私は小走りしようと思って、その動作に移った瞬間、

腰の位置を上げる(骨盤を引き上げる)ようにしていたのよ、反射的に。

そして足の裏は、前側に完全に、重心を移していた。

かかとは最初に足を繰り出したときの一瞬しか地面につかないような感じ。

 

これは、陸上をやっていたときのクセなのだろう。

そうしないと自分が、軽くスムーズに、足を前に出せない。

歩いているときの腰の位置のままでは、キレイに早く走れないというか……。

 

いや、別にね、小走りだから早くなる必要はないけれど(笑)、そういう感じ。

だから自然に、というか勝手に「足音がしなくなる」のだ。

たとえヒールを履いていても、4cm以下なら本当に無意識に、

身体をキュッと引き上げて足裏の前側、使っていたのだった。

 

だからお姉さんの足音が「余計に」耳に届いたのだと思う。

自分では立てない音がすることで、感覚的な違和感を感じたのだろうと。

 

そこに気づいた瞬間、ほえー、練習って、なんかすごいな、と思った。

たかだか1年半だよ、「短距離走の走り方」をまともにやってたのって。

人生のなかの1年半。それも部活のみ。

なのに自然に、そうなってしまってた。

 

で、ここで記事のタイトルに戻るわけだけれど。

自分が無意識にやっていること、きっといろいろあるのだと思う。

たとえばさっきの、お姉さんが出す「かたくなな態度」もそうだけれど、

そうやって「嫌いだ」と思う相手に、

自分がどんな『姿勢・態度』を(それこそ周囲に伝わるほど)全身で

表しているかってことに、お姉さんは自身は、あまり気づけていないと思う。

 

ある意味、もったいないよね、これ。

 

とはいえ、周囲が「んん?」と感じるような所作、態度にまで

至ってしまっていることを、彼女がどう感じているか、

私は知らないままでいいのだよ。

彼女が「やって当然」と思っているかどうかまではわからないし、

それを尋ねたり、指摘するつもりも、私にはない。

自分が失笑しないようにすることと、その緊張感を「流す練習」を

することのほうが、私にとっては大事だから。

 

そして、足音の件で気づけたように、

自分がどんなふうに「単純に、身体を使っているか」と、さらには

「気持ちがどんなふうに、態度や所作に表れるか」についても

もっと注意を払ってみようと思えた。

 

ついでに言えば、思っているようには身体が動かないことにも

すでに気づいているので(笑)、そこも感覚、少しずつ養おう、と。

この前、Youtubeで見つけたダンスが格好良かったので、

ちょっと真似してみようと思ったら、

全然、身体がついていかなかったのよ(笑)

 

以前から、スケボーの上に立てなくなっていたり(笑)、

ジャンプするときに手足と胴体の動きがバラバラになっている(爆)ことにも

気づいてはいたのだが。

いやあ、足を上下、前後左右にキレイに動かすことさえ、

まともじゃなくなっているとは……。

別にダンスやっていたわけではないけれど、

ここまで連動が落ちている身体(笑)になってしまっているのは、残念。

筋力、神経的な連動の系統、バランス、全体的に上げていきたいわ。

 

ということで、そのダンス動画を、DVDとして見られるように

落としてコーディングしてメディアに焼いて、

それをスロー再生(爆)で練習することから、始めてみます。

太ももの後ろ側に効くスクワットも、復活させよう……。

 

あと、ふだんの動作ね。

気持ちが身体の所作を決めるってことは、

逆に身体の所作も、気持ちを変えるのに役立つってこと。

明るくなれるように身体を動かすと、

それに伴い、気分が回復するのだ。

 

たとえば気持ちが落ちているときって

単純に下を向いて歩いてしまうけれど、

背筋を伸ばして、10mくらい先を見ながら歩くだけでも、

「気分がちょっと変わる」と思えるよ。

 

そういうことからも自分を「変えてみる」練習、

よかったらしてみてください。

伸ばす、広げる、しかも身体の「前側の緊張」をゆるめる方向へ

動かすのが基本かと思う。

そして練習は「身についてナチュラルにできるようになる」ところまで

自分であきらめないってことも、ぜひ。

身につけば、私の小走りように無意識になれるよ、本当に。

私も最近、お姉さんに対する「スルー」力、本当にアップして

気が楽になってきましたよー(あ、私が言う「お姉さん」については

ブログ内を「お姉さん」で検索すれば意味わかります(笑))。

 

2015_10_31

Photo by LeeDongRyeol
Pixabay

 

認めてほしい、とは

日付を超えて 今夜 2本目

しかもこちらは ある意味 反省を含む自己開示だから

言葉が厳しくなるよ ゆるしてね

 

認めてほしい

側にいてほしい

つまりは私が「よい人」であると 

誰かが保証し続けてほしい

 

これを追求し過ぎて

お互いがそう思うようになった形態を

共依存

と呼ぶのだろうな と

今の私は感じている

 

私も「勉強」や「仕事」の面では

他者からの承認や評価を基準にしていた

それをしていたからこそ

言ってしまおう と思うのだが

 

他人から認めてもらわないとおかしくなる

という場合 ごめんなさいね

その人は

 

他人を使って自分を幸せにすることしか

考えていない

 

とも言えてしまうのだろうと

 

自分の幸せの源 その責任を

他人に「作り出せ!」「とれ!」と

命じているに等しいんだよね……それ

 

自分にしてみれば

尽くしている

頑張っている

だけなんだけれど

 

そういう姿を通して 他者に

ほら! ほら! どうよ! これならどう?

私のこと 認めるでしょう?

あるいは 愛するでしょう?

 

って 押し付けてる面が 必ずあるの……

 

いや本当 ゴメンね こんな書き方で

過去への反省の気持ちを

自分でこめている部分もあるからさ

 

何様? って気がしない? こんなふうに表現したら

私の過去の職場にいた 周りの人は 

私が自分の疲れも省みず

むちゃくちゃなペースで仕事した挙げ句の成果を

見せられる……つまり

ほめ言葉を ある意味 私から強要されて

迷惑だったろうなあ……って 今ならわかるのだ

 

はい 痛い人でした 私もまた

 

自分を幸せにすることは

まず 自分でやってよくて

それができるようになったら

周囲との関係も変わっていくよ

 

認めてもらうかどうかより

私がやってみたいから

やらせてもらってよいかな? に変わり

するとそこに 感謝も自動発生するから

ああ 恵まれてるや……ってことにも 気づきやすくなっていったの

 

そして そんなふうに動けるように 再び なったこと

あるいはまた再び 音楽や絵画や その他いろいろを

楽しい ステキ 面白い って 思えるようになったことや

自然の中に 自分の足で立てること

そういう諸々も ありがたく感じられるのは

自分なりに どん底 見たからだなあ って……

 

過去にも知っていたはずのことを

改めて 新鮮に味わえることに

『お得感』さえ感じられて

そのとき あきらめずに生きてみて よかった って

ちゃんと 本気で 思えたの

 

こうなるともう 鬱になったのが悪かった とも言い切れないんだよね

悪いことがあった 起こった

それは事実だけれど

その結果 再び または新たに 感じられることがあるのなら

その悪いこととはつまり

当時の私にとってマイナスの形をした「きっかけ」でもあったのだと……

 

命が消えた人に 二度と会えないのは もう どうしようもないことで

これだけは 一生 プラスには変えられないけれど

それでも なお 

私はあそこで命を消さなくてよかったな と思えたときには 泣けた

 

ちょいと話がずれたので戻すと そしてね

自分の幸せのために他者を使おうとする人は たいていの場合

幼少の頃に身近な人から

同じやり方を 教わっていて

というか 相手からそれを やられていてさ

 

たとえば私なら 

言うことをきかないと認めてあげないわよ! 

(つまり親の意見が何よりも正しいと思い

それを信じて行動すれば 私のことを「よい」と認めてもらえる)

というふうに

親から言われていると 信じていた

 

実際 親がどの程度 それをやっていたかは

当時 子どもだったから わからないんだよね

 

ただ 少なくとも 

私が 親からそう言われているに違いないと

『自分で信じ込んでいた』ことは事実

私が親の言葉を そう受け止めていたのだ

 

そして 人たるもの とくに私にいたっては

他人から認めてもらってこそ 価値があると

100%信じることにしたのだ 私がね

 

そうやって『親を中心とした他者に 認めてもらえなきゃ私はダメ人間』

という気持ちを 私は自分の基礎に据えた

 

そりゃもうさ

他人は 私の望むようには 私のこと認めてくれないから

(そうプログラムされたロボットでない限り 私の気の済むように

認めてもらうのって無理なんだよね 当たり前の話

その人だって 一人の独立した人間なのだから)

必死に頑張っていくしかなくなるわけで……

 

まあ 勝ち気方面のオッサン脳が幸いして

私は恋愛方面で依存を出さずに済んだが

(男と女じゃないでしょ それ以前に 人間対人間でしょう? なんて思ってた)

 

でもこれさ

「私のことを認めなさい!」を 異性の親から もし やられていたら

その親の身代わりとして 恋人から 完璧に認めてもらおうとすることも

当然 ありうるだろうなあ ということはわかる

 

いずれにしても 幸せを得るのに

他人を使っていく必要ないからね 本当に

自分がまず 自分を幸せにできるからね

そのための とらえ方 先に練習してね

 

実はそれができるようになると

他人との関係も すごく楽で よくなるから

 

自分を幸せにできるようになることが

つまりは自立 なんだな と

私は 40を過ぎてから やっと気づき始めて

(しかもはっきりわかったのは半ば過ぎてから……

時間 かかったなあ……(^0^;))

おかげで今は 心の基本形が

かなり穏やか

 

もし本当に 他者とのよい関係を築きたいなら

自分をまず徹底的に 自分で 幸せにしてあげてください

それは絶対と言って良いほど 

「孤独」とは別種類のものだからさ

 

今の私は 周囲に 温かい愛のある関係性を

性別も年齢も環境も関係なく つなげられるようになってきていて

それはね 本当に 鬱を経験したからあとだからこそ

できるようになった……自分のことを幸せにする許可 自分にはっきり出せた

 

内心ビクビクしてるのに他人にクレクレって「押し付け」してたからさ

そんなヘンな具合に 

他人を自分のために使わなくても済むようになれたこと

心から 感謝している

 

ちなみに 親に対しては

私が勝手にそう受け止めてしまうから

どうしてもそう受け止めるから 

そばでは暮らせない 

って伝えたのさ 今年の1月

親(まあ 母なんだけれどね)は激怒して

いまだに口を聞いてくれません(^0^;)

 

それでもね 一人の人間として 母のこと

私は好きだよ ってことは 今度伝えようと思う

 

そばにいるのは苦しいけれど

この距離から 私も あなたを好きなんだよ ってね

 

伝わるかどうか というか 

その言葉をどう受け止めるかは 母の自由なので

私もまた 自由にそれを言ってみるだけなのだ

そのほうが 私が スッキリしそうだから

その 母を好きだという私の気持ちに 嘘はなくて 

ただ 私にとっては苦手な一面があると

私が感じるから

やっぱりそう受け止めてゴメンね でも愛してるよ間違いなく

と 言えるだろうと 思えている今日この頃なのである

 

こういう経験をした私の結論

他者に求めすぎず つまり他者と比較方面で戦わず

自分をゆるして 認めてあげて 

基本ゆったり ときに楽しませてあげられると 

本当 楽にいられるよ

自分と争うこと やめていいよ 本気でさ

 

2015_10_27

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