カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

追伸:その 今 だからこそ 何を見るか

たとえばさ

自分がふだん バカにしている事態から

何らかの逆襲……バカにし返されたりなどね したら

そりゃもう ショック倍増なんだよね

 

そこでさらに 自分が

いつもの倍の怒りを持って対処するか

 

あるいは

先に見下していた自分の感覚の

くだらなさ加減に気づいて

バカにするという意識自体を捨てる

(そして自分の問題と相手の問題を

明確に区別して その意識を持った自分のほうの

そもそもなぜ そんな? の部分を探る)か

 

どちらを向くかによって

自分の成長の幅が 変わるよね

 

というか 怒りやショックだけに

また とどまっていたら

もしかしてそれ 学びどころか

いずれは自分が 退化 劣化 していくかもよ?

そっちのほうが 悲しくならない?

 

あなたには そんなところで

「とどまらなくてはならない」理由など

本当は ないのにね

 

自分が 自分を 規定し 拘束する

その辛さは もういい加減

手放していいんだよ……

 

自分を何かで がんじがらめにしているのも

自分の選択肢のひとつでしかないのだということ

 

そういう気づきが あなたに 訪れますように

 

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Photo by stevepb
Pixabay

 

同じやり方か 違う視点か

たとえば

ひどい風邪を引きました

すぐ治したくて

薬をいつもの3倍の量 飲みました

 

その結果

身体に負担がかかって

余計に身体が辛くなって

そのため気力も落ちて

つまりは免疫力 下げて

風邪がさらに 治りにくくなりました

 

そりゃそうだ 身体を酷使することのほうへ

あなたがさらに加担しているもの

薬物増量なんてまさに 

疲労効果はテキメンだよね

 

薬剤とか 他の誰かとか 

そういう外側の表面上の何かで 何とかする前に

開けっ放しの窓がないか

薄着のままではないか

食べ物を控えて休むことは

なぜ選択しないのか

寝具を変えて部屋も暖かくして

湿度を上げることは?

 

今までやったことのないことは

なぜ選ばないのか?

 

なぜ風邪を引いたのか? のところは

まったく完璧に無視して

引いた自分を責めて

引いたけど休みたくないって

つまりはそこでも 評価におびえている

 

今の環境 今の状況から自分で 

見つけられることは無視して

そんな外側の表面上のことにだけ集中していたら

これからも最悪な風邪

たくさん引くことになるよ

 

いつになったら

それを引きずる理由 探す気を起こすかな?

いつになったら

毎回 自分が自分で悪化させる理由に 

気づいていこうとする気持ちが

表れてくれるかな?

 

自分の選択肢の裏側の 

おびえている気持ちと

いつになったら 対峙できるかな?

 

風邪を引いたら休むしかなくなる

それが悪いんじゃないよ

安直な対症療法ばっかり選ぶから

苦しさがいつも来て しかも深くなって

長引いて そんな状態を繰り返すんだよ

 

はい もちろん 風邪に限らない話だけれどね

 

簡単に助けてくれそうなものだけに頼る

そうした対処療法ばかりの その視野

やめていいんだよ いつからだって

自分のために 

そこだけで 毎回終わらせるのはもう やめにしようよ

何なら 今すぐにでも 

部屋を見渡してみていいんだよ

寝具をチェックしていいんだよ

服を 湿度を 確認し始めていいんだよ?

あなたのおびえは どこから来ているのだろうね?

 

あなたが 今まで

決して見てみようとしなかった

あなたの内側の 奥の部分に

新しいヒントが待っているからね

 

いつかそこに アクセスする勇気を 持ってね

 

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Photo by Hans
Pixabay

 

「俺はね、こう思うよ」と表現できること

私が今、働いている職場の、上司に対して

この人は他者の意見を聞く「用意」をしているな、と思えるのが

タイトルの「俺はね、こう思うよ」という言葉である。

 

この表現は、私がブログを書くときに、

とても気をつけるようになったことでもある。

 

私には、私の感じる「こうしたらいいんじゃないか」という思いがある。

でもそれは「私が感じること」であって、

他者にも『当てはまるかどうか』はわからない。

 

ましてや、こんな「心の内側のこと」を表現しようとしているから

それこそ、それを『正しいかどうか』で言えば、

100人いたら100通りの答えがあるのだということを、

鬱の間に、事例としてたくさん見させてもらった。

 

ゆえに、私は意識的に「ああ、これは私の意見だよな」ということを

ふまえて話せるようになってきていると自分では感じているし、

それもあって「人当たりの良さ」(笑)という評価も、

いただけているのだろうと思う。

 

つまりね、この「自分はこう思う」という言葉を『口に出す』ためには、

2つの覚悟が必要なんだろうと、私は思えるのだ。

 

ひとつめは

「私はこう感じる人間である」ということを、

自分が一方的に他人に押しつけるつもりはない、

と自覚できること。

 

私の意見はあくまで『私個人』の感覚。

だから、はっきりとした表現を使って伝えるような場合であっても、

あくまで『自分が、個人的に、こうだと思った』ということを

意識しながら伝えられるかどうかで、

口調がはっきり、変わってくるように感じる。

 

「これは○○○○だから△△でしょうが!」と表現すれば、

受け止める側に「押しつけ」と受け止められる場合があるけれど。

 

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

って言われたら、それは「この人個人の『主張』だな」ってことが

ニュアンスとして、伝わるよね?

柔らかくなるというか、押しつけにはならないで済むというか。

 

そういう自覚を自分が持てるかどうか、

そういう視点に立って「他者はどう感じるだろうか」の部分もまた、

拒否せず「待てる」ような感覚を、持てるかどうか。

 

その幅というか余白をつくる覚悟、みたいなものを

自分で持っていないと、言えない言葉なのかも、と思う。

 

もうひとつは、

「自分がこういう考えを持つ人間である」

ということを明かす覚悟。

 

こちらはね、比べてみたらもっとわかりやすいと思う。

「これは○○○○だから、あの、△△なんじゃ……」という表現より

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

というほうが「主張」として強いよね。

自分の意見を、きちんと伝えているニュアンスが届く。

 

「自分は、こういう考えを持つ人間」だと、

『自分に許可』しているから

「自分はそう思うんだ」と、伝えられる。

 

で、本来、自分がそう感じるっていうことは、

何より先に、自分で自分に「許可」していいのだと、

私は思っている。

なぜならそれは、たいていの場合、

その人自身の「個性」や「感性」だから。

 

さらに1対1の間柄だったら「相性」も関係するかもしれないよね。

同じことをAさんがBさんに言っても、Bさんは悪く受け止めないけれど

CさんがBさんに言うと、Bさんは悪く受け止める、みたいなこともありうる。

 

でもそれはCさんが悪くてAさんが良い、という話ではなく

あくまでBさん側の感性。

他にいろいろな情報や感情が、Bさんの内側にたくさんくっついているから、

Aさんに対しての態度とBさんに対しての態度が変わる。

 

もっと言ってしまえば、そういう情報をたくさんくっつけることにより、

Bさんが「同じことを言われているのに、相手によって

受け止め方……つまり気分を変える」のであれば

それは、Bさん側の何かの「問題」が関わっていたりもする。

 

はい、だからそこは「知らんがな」の世界ですね。

AさんやCさん側の問題ではない部分も、きっといろいろあるだろうと。

 

相手の問題は、相手に任せてよいのです。

そこまで配慮してあげて、遠慮して「△△なんじゃ……」ってやっても、

Bさんにはそれ、伝わらないよ。

 

相手の問題は相手に任せて、

自分はこう感じる人間、ということを伝える覚悟をすれば

「私はこう思うんだよね」って、付け足せるようになるよ。

 

たぶんね、自己主張が強すぎる(押しつける)場合も

弱すぎる(遠慮する)場合も、その裏には

「私を認めてほしい」

の気持ちが、がっちり、くっついているのだろうと思う。

 

認めてくれるかどうかは、相手側の感性であり、

相手側の問題も大いにからんでいたりする。

そこをごり押ししたり、おびえたりするから、

「伝えたい内容」以外のところで、おかしなことになるのだと。

 

私はこれまでの人生で、ある意味、主張し合わないといけない関係、

というか「強く主張しないと、うまくやっていけない」環境下で、

つまりそうするのが「よいこと」と信じて育ち、

でもそこに「私の感じることを認められたい」がくっついていたから、

伝えたいこと以外の部分でややこしい事態を何度も経験し……

(あ、大ゲンカに至って決別、ってところまでは、

ほとんどの場合、進んでないよ。ただ方向としてはそんな感じってこと)。

なんかこれ、違うな、おかしいな、と思っている間に、

別の部分の問題から鬱になって……。

 

そこで『自分で自分がまったく信じられない』という事態に陥って、

やっと、初めて「自己主張」と「わがまま・押しつけ」の違い、

自分がどんな育ち方をしていたのか、の客観視、

あらためて「私はこう思うんだよね」と言っていいこと、

でもそれを言うのは「覚悟」がいるんだってこと、等々を

学んできたクチです。

 

うちの上司がどういう過程を通って「それはこうだと俺は思うよ」って言葉を

身につけたかはわからないけれど、

彼も彼なりに何らかの、そういう経過と練習を積んできたんだろうな、

ということは、やり取りからはっきり感じられる。

なので仕事を進めるうえで、お互いに安心して

「これは△△じゃないか」をぶつけられて、話し合えるのである。

 

そういう方が直属になってくれたことは、

アウェーの身(笑)としてはありがたい限り。

さらにもう一人のお偉いさんも「受け止める幅」を持っておられる方なので、

私の「異業種での経験」を使ってほしいと感じてくださっている

(ゆるい、というのは、そういう意味では素晴らしいね)。

 

ということで、根本的な感覚として

「女性というのは、守ってあげるもの、という愛玩物」

が主流の業界、ある意味、不思議な男尊女卑が成立しているという

「気持ち悪さ」もまた、感じる職場であるにも関わらず(笑)!

ふだんから私も「自分はこう思う」を使うことができ、

認められたい、わかってほしい、という部分にはこだわりすぎずに

『伝える覚悟』と『受け止める覚悟』の両方、

そのバランスの取り具合を日々、練習させてもらえていると思える。

そう、もちろん私も、まだまだ練習が必要なのだ(^▽^;)

だからその部分では今の職場に、すごく感謝しているm(_ _)m☆

 

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Photo by Gadini
Pixabay