カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

今、すでにあるものを……

今のある意味、恵まれた環境。

それを、いかに無くさないようにするか、は、ちゃんと注意する。

でも、その過程では、なるべく自分がラクをするため、

手を抜ける工夫をする……。

それってさ。

今、あるものを「そうなるまでに築き上げてきた人たち」に

ただラクしてぶら下がるだけであって……。

しかもその手抜きっぷり、関わる周囲や、

ぶっちゃけお客様にも、迷惑かけたり、いい加減さを見抜かれて、

プチプチ怒られてますけど?

自分たちの都合ばかりになってて、プチプチ、信用減らしてますよ?

 

ゆえに、目の前のことしか見ないお姉さんが

会社で気に入られる理由も、よくわかった……。

 

役員さんのおっしゃることは、すんなり理解できるのに、

部長クラスの言うことに「???」となってしまったのは、これだったか。

会社全体の利益改善、なんて、

部長クラスでさえ、本気では視野に入れてないのかも。

というよりどうやら、入れたくないらしいのかも。

部外のことなんて、余計な仕事、なのだろうか……。

 

なんか、アラカン役員さんたちの、苦労が忍ばれる。

温度差、ありすぎて、驚く。

私は「熟した果実がすでに、腐り始めかけているところ」に

遭遇しているのかもしれない。

 

全体からの視野が「余計なこと」なら、

私が感じていた「アウェー」感覚も納得できる。

うん、別に「気に入られなくても」良くなった、本気で。

嫌われてはいないけれど(笑)、この違和感は、消さなくていいや。

 

長いものには巻かれ、文句を言わず、改善も提示せず、

黙々と従う羊が欲しいのなら、それはどうぞご自由に、だ。

 

私は本当に良い先輩方に、これまでたくさん恵まれてきたのだと

今、本気で思える。ありがたい経験をさせてもらえた。感謝……。

 

ここに学びに来たのね、私。

最初から期間限定で、良かった(^▽^;)

 

今日は自分の話だけになって、ごめんなさい。

 

2015_08_19

Photo by Lotus Carroll
cc-library010001909
CCライブラリー

 

あんなことがあったから……

あんなことがあったから

あんな目に遭ったから

あんなことをしたのだから

 
ゆえに

私は 幸せになっては「いけない」とか 

私は 幸せになれないに「決まっている」とか

また絶対 あんなことになるに「違いない」とか

 
それって全部 過去の記憶から自分が「そう信じることにした」だけの話だよね

 
過去の記憶というのはあくまでも

「そのとき それ自体を 自分が こう解釈した」

という 話なのだけれど それを

絶対

だと思い込むことに決めたんだよね?

そういう方向を選んだのは まぎれもなく 自分だよ

 
寝たきりであっても 毎日幸せで 感謝にあふれてもいいし

ホスピスにいても 心穏やかで うれしさを感じてもいい

 
そういう人と 実際に 私は 話をさせてもらったから

今を見て その今の自分を どう解釈するか は 

自分が選んでいいのだと 思えている

 
私ね 星野富弘さんの画集を いちばん最初に見たときのこと

今でも 覚えてるのよ

 
その画集の表紙には 車いす生活の話などは 何も書かれてはおらず

ただ「星野富弘の画集である」と わかるだけ の体裁だったの

 
私は あの 素朴な絵のなかに 力強さを感じて

「へえ 絵手紙かな なんか気になる……」と思って 

その画集を 手に取ったのだ

 
言いたいこと 伝わるかな?

自分が惹かれるものには 普通に 勝手に 惹かれるの 

自分の「感覚」と彼の「車いす」には 何も関係などないのよ

 
ましてや

今の自分

を表すのに あなたの背景も過去も 別に必要ないのよ?

それこそ あなたの容姿や性格のことさえ 関係ない

 
今を 自分が どう感じて それを 自分で どう解釈して どう扱うか

すべては それの 連続であるだけ

 
「あなたが見る」世界は あなたが「そう解釈してる」んでしょう?

そのことは なんとなく わかるよね?

あなたが「好きだな」と感じる あなたが「嫌いだわ」と感じる

あなたが心地よい あなたが気分悪い

そういうのを感じて そう解釈してるよね? 

周囲の人を 社会を 自分を

  
そして それに基づいて 自分の行動もまた決まるよね?

 
ならば 行動の前に 解釈の仕方を 変えることも可能なのよ

そこが変われば 行動なんてそれに基づくから 変わるのよ 勝手に

 
過去をつなげて 過去を積み重ねて そこを基準にして

批判して 非難して 罵倒して

過去の自分を 延々 自分にとって悪いほうへ 利用する

 
そういう「解釈の仕方」をすることが辛いなら

その「仕方」そのものを 別にやめていいんだよ?

過去の記憶と 今の自分を 自分でわざわざ 

苦しむために つなげなくても いいんだよ?

 
背景なんて 別になくても 他者には「届け」られるし 

その気になれば つながれるよ?

 
あなたが過去の自分を 今の自分につなげるからこそ

他者と なんとかかんとか もにゃもにゃするの

うまくいかないと許されないとか ダメだとか

心がさみしすぎて狂いそうとか 

それさ もうまるで 「贖罪」だよね

 
「過去のひどさを 帳消しにしたいがゆえの 何らかの 代理のもの」

を 求めようとしてしまうのかもよ?

 
他者と信頼しあって つながるのに 過去は いらない

だって記憶喪失の人だって 苦しい面は持ち続けながら

それでも 幸せになっていいでしょう? 

それとも 完璧な状態じゃないと「ダメ」なの?

 
つながるのは 今 目の前だし 構築していくのも 今から「先」なのだから

あなたが 今 先に 自分を 自分の解釈を 変えていいのよ……?

苦しい思いをしたからこそ その過去を わざわざ自分から選んで

自分につなげなくても いい

 
私が言っていること 難しかったらごめんね

必要な方に 必要な言葉が 届きますように

 

2015_08_17  
Photo credit: Lotus Bud / 蓮(ハス)の蕾(つぼみ)
via photopin (license)

 

自己イメージと、周囲に醸し出すものと。

自己イメージって、なんとなくあるよね。

それ、実はときに、諸刃の剣でさ。

 
『こういうふうにするのが私らしい』、

と強く思い込み過ぎると、

今度はそのイメージに自分が振り回されることになる。

 
たとえば、

「自分の意見はちゃんとはっきり言わなくちゃ、私らしくないのよ!」

と決めつけたら、次からは

何につけてもはっきり言わなくちゃ『いけない』

というルールを、自分に強いることになる。

 
で、はっきり言わなくちゃいけないわけではないときにでも

いきなり主張を展開し始めて、KYになったりする

(はい、過去の私も、そういう傾向、あったと思うよ)。

 
親切にしなくては、優しくしなくては、というのも同じ。

自己イメージを決めつけて、ルール化しちゃうと、

今度はルール違反を自分が犯したときに、

そのことによって、変なモヤモヤを抱えることになる。

 
で、これ、『こんなふうに見られたい』という理想の自己イメージも同じく、でね。

本当は、自分の「気持ち」がそぐわないのに

無理して「こうならなきゃ!」と決めてやると、

周囲には、却って変な方向に受け止められたりする。

 
そもそも、そんな自己イメージを持つのって、

『そうじゃない』自分を嫌っているからなのよね。

 
意見ははっきりいわなくてはいけないのに、言えなかった。

自分勝手なことしてしまった。

等々、嫌っているの。

 
だったらね。もし。

 
そ こ が 

そ も そ も

ズ レ て る の よ

 
と、耳元でささやかれたら、

どんな気持ちになる?

 
自分の「マイナス」の自己イメージも、

自分が思い描く「プラス」の理想像も、

そのイメージの内容でなくて

「自分の○○なところが嫌」と思ってしまう、その『気持ち自体』が、

あなたにとっての「ズレ」を生み出す原因、

あなたの苦しみの元だったとしたら?

 
わかるかな。

ならば根本的に、ほかの「何か」を変えていかなくちゃ、とは思えない?

 
私の、このタイトルのブログを読もうとしてくれている人は、

自分のことを全部嫌っているか、

「自分のこの部分が嫌い」と思っているか、

あるいは人間関係で、なぜかいつも、人とケンカしちゃう、

ズレが生じる……って問題を、抱えていると思うのね。

 
過去の私がそういう人だったし、今もまだまだ、私自身が練習中だから、

表現の方向性の違いはあっても、

自己批判好き、

他者批判しちゃう、

自分のここが嫌い!

というふうな部分を持たれている……、

その点で似た人は、結構、私が引き寄せるだろうと思えている。

相手に言うか言わないかは別としてね。

 
で、変える練習を始めた私が今、強く実感していることは、

自分に『新しいことを詰め込む』だけでなくて

『否定している部分を消していく』作業もしなくては、

『新しい部分』が染み込んでこない、実際には……ってことなの。

 
鬱がいちばんキツかったときなんて、

自己批判99.9%で、『自死できない自分』さえ罵倒してたからね、私。

 
も、ね、そこから、違ってた。

あ、これは、間違いという意味でね、ズレていた。

 
自己批判すれば向上する、というのは、

あくまでも『自分を信じている』ことがしっかりベースにあって、

その上で『まだまだ』とか、『もうちょっとこういう方向へ』と願うときに

有効なやり方なの。

自己信頼なしの自己批判

は、ただの自分イジメでした。

今だから私も言える。ちっとも効果ないよ、それ。

 
そして、土台の自己信頼なしで自己批判をする人に共通のイメージ。

これはどうやら、2つのパターンに分かれるように思えるのだけど、

ひたすら「キツイ」「怖い」「言い過ぎ」さらには「よく怒る人」もいるかな、

そういう「厳しさを、当たり前のように平然と、他者へ押し付ける」

というパターンか、逆に

「言えない」「気弱」「小心者」

と、自分でも思うし、他者からもそう思われるパターン。

 
だいたい、どちらかに偏る傾向にあるように思う。

そして両者に共通しているのが「頑固者」じゃないかな、と。

 
ま、頑固者なのは「こうでないといけないのに!」って決めつけているわけだから、

そりゃ当然、そうなる訳で。

 
ようするに、柔軟性がないの。

それの、弱いか強いかバージョン。

 
柔軟性っていうのは『~であるべき』からは、生まれない。

他者の別の考えに基づく声も、

ちゃんといったん、先に受け止められて、

そのあとで、自分にとってそれは「心地よいかどうか」を選び、

選んでからも、自分が選んだ方向を他者や相手には押し付けない。

何を選ぶかは、相手の自由であることを認めると同時に、

だからこそ、自分が選ぶ方向もまた、

自由であっていい、と思えること、じゃないかな。

 
少なくとも、柔軟性って、そういうものを含んでいると、今の私は捉えている。

そしてそういうのって、練習できるのよ。

自分がそうしようと、決めればね。

 
そのために必要不可欠なのが『自己信頼』なの。

だから自己批判ばかりしている人は、そこをまず、本気でやめないと、

いつまでたっても『考えの偏った頑固者』の雰囲気を、

周囲に醸し出すことになると思うよ。

 
まあね、こういう書き方すると、またね、憤慨する「怒り好き」さんが

きっといらっしゃることだろうけれど(^^;)、

別に、苦しいままでいいなら、それもご本人の選択なので、どうぞご自由に。

 
今の自分。嫌いな自分。

あるいは、ものすごく嫌いな部分、許せないところを持っている自分。

そこからは、本当に抜け出せるよ。

それは自分で、できることだよ。

 
そのために、他者との関係云々、以前に、

なぜここまで、私は私のことを批判してるんだろう、

ってところから、先に手をつけてみてね。

 
そのほうが結局、物事が、うまくいくようになるよ。

そのほうが、柔らかい自分になって、その柔らかさを醸し出せるようにもなるよ。

どうか、どうか、あきらめないでね。

 

2015_08_13
Photo byi olfiika
ID:1503301300
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0