カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

その指 別に くわえ続けなくていいのに

自分ではやらずに 『いいなあ』 

「達成できない方法」ばかりわざわざ試しては 『いいなあ』

 

どちらも 自分の可能性を 捨てておきながら

指をくわえては 他人をうらやんでいるのね

 

可能性を捨てている?

うん そう 自分が楽しめるやり方をしたって

「幸せになれない」と信じ込んでいるの

 

やっていない人と 試している人では 全然 違うんじゃない?

ううん どちらもね 

「こうやったら どうせ こうなるに違いない」ってところに縛られててね

別のやり方 試さないの

 

自分が それをできるかどうか より 

自分が それをやりたいかどうか より

結局は 他人にどう思われるか のほうが大切で

そっちに従うの

 

自分が楽しいことをしたら 必ず 他人には文句を言われるに違いないとか

自分が今さらやったところで 何も大して 変わらないとか

アタマのなかだけで 考えて 他を 見ないの

 

私から見れば 自分を見捨てているように見えるよ どちらもね

 

やるのはたいへんだし やるのは怖いし ふーん そうなんだ

それで他人は なぜうまくいっているのだろうと うらやましがるだけ?

別にいいんだけれどね それもあなたの人生だし

そこからやがて 気づきが生まれていくことがあるのも

たくさん例を見て知っているしね

 

でもね やってみたらどうなるか の世界は 試さないで

試さないのに なぜ他人は と 言い続けるの 辛くない?

 

うん あのね あなたが見ているその「他人」さんたちは

多かれ少なかれ そういうのを「やってみた」人たちだと思えるよ

たいへんだからやらない 怖いからやらない あなたがそう思っていることを

多少でもね やってみたことがある人 結構おられると思えるよ

 

このままではイヤだ それがきっかけで コップに水を 入れました

そこへ 自分がよく知っている いつものパターンの A を入れました

水 または 水+A そのどちらかで とどまっているだけでは

何の変化も起こらない

 

知ってる? 化学反応ってね

とあるA と とあるB が水のなかで混ざったときに

水 + A + B

になるのでなくて

水 + C

になったりもするんだよ?

あなたは今 たまたまね まだ その C の存在を知らずにいるだけで

 

もちろん 水 + A + B になるときもあるけれど

そのときは違う Bを 『次に』 試してみればいい話でさ

 

今までの あなたがよく知っているパターンの

水だけ あるいは 水 + A ばっかり でなく

そこに B という よくわかっていなかったこと 足してみてごらんよ?

 

その B というものの 選択基準はね

「あなたが 自分で 喜べること」 なんだと 私には思えるよ

うん 自分だけが 喜べるもの でもいいの 

他者を物理的 精神的に 破壊しない(拘束しない)範囲のものであればね

 

そうしたらね いつか必ず 化学反応が起こって 「あなたが」変わるよ

いや本当 冗談でも比喩でもなく 

自分が喜べることを 自分にいろいろ 足していってあげてごらんよ……

 

他者を見ては いいな うらやましいな って思ってさ

その指 別に この先も くわえ続けていかなくてもいいんだよ

B を探す 試す 勇気  自分のために いつか出してね

 

2015_06_14

Photo by Foto-Rabe
Pixabay

 

追伸:小説でも学べるよ ということで

自分の気持ちを 大切にすると同時に

他者と気持ちを「確認しあう」こと

隠さないこと 

怖いものを 無視しないこと

 

それらがどれほど 大切かを

思い知らせてくれる話のご紹介

 

人のため と言いながら

結局 自分しか見ていなかったり

自分の世界があればいいと 内にこもったりする 

そのズレが 何を生むか が

デフォルメされて 描かれている

 

文体に賛否両論が あるとはいえ

20歳でこれを 書けた人 

その才能は 認めてもらえたらと思う

 

自分が何を つい ないがしろにしてしまっているのかを

女性にも 男性にも

考えてもらえる作品だと思えるので

メインブログのほうで お知らせしてみたくなった

 

自分を大切にすることって

他者と関わることって

気持ちを 感情を きちんと相手に伝えることって?

それらが 生み出すもの

それらの「欠如」が 生み出すもの を

感じてもらえたら 幸いです

 

恋愛ものとはいえ わりとサイコな作品なので

甘いゆるい系の小説がお好みの方には

向いていないかも

結末は 柔らかくて いいけれどね

 

例によって アフィリでないリンクにて……

 

2015_06_14_2

『ひとめあなたに…』
新井素子 著 創元SF文庫
¥862

 

自分の気持ちを 大切にすること

他者へ 気持ちを 伝えること

自分と 他者の 自由を どちらもゆるすこと

あきらめないでね いつか その「すごさ」 体感してね

 

 

努力と結果と押しつけと。

とある方のFacebookのコメントで

『人の努力を笑いのネタにする資格が自分にあるのか考えてみろ』という感じの

書き込みを見て、ザワザワして思わず意見を書き込んできた(謝りつつ書いたが、

その記事の本質とは関係ない話だったので申し訳なさは感じた……)。

その方のコメントフィードが荒れないことを祈りつつ、

こちらに土俵を移して、自分が感じたことを書き込んでおこうと思う。

 

努力した。その結果を表現した。

その内容を、他者がどう受け止めるかは、他者の自由だと私は思っている。

このブログでもたびたび書いていることだが、

私がこんな勝手な話しかけブログを書いているのは、

本当に私が「やりたくて」やっていることであって、

それを「こんなふうに使ってください」とか

「こんなふうに感じてこうしてください」なんて

『命令』する気は毛頭ない。本当にない。

そう感じてくださればいいな、という「祈り」は籠めるけれど、

真逆に感じられる方がいたって、私が怒る筋合いではないのだ。

 

なぜなら、私は「SNS」という、誰もが自由に意見を書き込める場で、

こんなふうに文章を書いているから。

そしてこれは、別に文章やブログだけの話でもなく、

日常で「人と関わる」ときに気をつけたいことだとも思っている。

 

私がやったことを他者がどう受け止めるかは、その人の選択の自由であり、

それを私が「心地悪い」と感じた場合、改善の努力をするかどうかもまた、

私自身の選択である。

 

「私がこれをこんなふうに努力してやったのだから、

あなたは私が意図した通りに、これこれ、こういうふうに

受け止めなさいよ!」というのは、基本、

その人のエゴの押しつけであると思えるのだ。

……ごめんなさいね、親子の間でも、親が子に、子が親に、やっていると思える。

私も一人の子どもとして、未だにその部分は持っていると思う。

 

相手に、または誰かに、認めてほしい。

その気持ちは当然わかる。というか、私も普通に持っている。

だが、どうするかは相手の選択の自由である、ということについては、

昔よりは理解できてきたように、自分では思えている。

 

だから、届かない人には届かない、ということも、割り切れるようになった。

そこを「なんとしてでも」とゴリ押ししたところで、無理なものは無理なのだ。

 

じゃあとくに、他人が関わってくる部分での努力は、

相手がどう受け止めるかわからないから無駄なのか、というと、そうではない。

まず何よりも「私がやりたくて」やって、そのときに私が「心地よければ」、

その努力は無駄ではないのだ。

結果を他者に押しつけようとするから、ややこしくなるだけで。

 

たとえば家事なら、掃除をしたかったのは私。

洗濯したかったのは、誰か特定の相手のために料理することを選んだのは私。

料理したら食べてもらえる相手がいる幸せを楽しみつつ、やったのであれば

そこでまず、無駄、失敗、とかという「概念」そのものは、必要なくなる。

私が心地よいのだから、そのときに。

 

それを誰か特定の人のためにやって、

その相手が負担に思ったり、不満に思ったりしたら?

 

そこで次に行うことは、全部を相手の言う通りにするのでもなく、

全部を自分の思うままにしようとするのでもなく、

「自分としてはどういう意図であったか」を説明しつつ

では「どの程度、どんなやり方なら、お互いがより心地よくなるか」を

臆することなく、探ることなのだと思う。

そこを怖がったり、勝手に判断したりするから、ややこしくなるのだと。

 

私は私の自由で、私の気持ちを尊重して、私のやりたいことをする。

相手はそれを、自由に受け止める。

そこが通じ合ったときに喜びがわくからこそ、

誰かのために何かをすることが「お互いにとってうれしいこと」に変わる。

 

最初から相手の評価を狙っていくと、意図したことと違う結果が生まれたときに

自分、または相手を責めなくてはならなくなる。失敗、などと捉える。

やることが怖くなる。自分の気持ちを、あるいは相手の気持ちを大切にしなくなる。

 

でも怖いからと『何もしない』ことを選択したら、

自分のなかに湧く「やるうれしさ」も

他者との間で起こる「通じたときのうれしさ」も感じられない。

これらは、やらないと、感じられないこと。

 

つまりそうやって、何かを自分がやって「表現」した瞬間、

それは「外に現れて一人歩き」を始める。

話した言葉でも、文章でも、行為であっても。

そして相手がどう感じるかまでは、本来、コントロールすべきではない、というか

コントロールできるものではないと、私には思えていて、

だからこそ!

通じ合ったときに、ありがたくてうれしくなるのだ。

対等で、うれしい。

自分も相手も、両方、大事にできるからこそ、より、うれしいのだ。

 

自分がやる喜び。

まずそれを大事にできないと、こうした状態は、生まれない。

「私が自由に、自分のために、やりたいことをやった」からこそ、

通じたらもっとうれしいのだから。

 

そして自分がやる喜び、を大切にするためには

自分が「本当は」何をしたいかを大切にしないと、

自分が何を感じてどうしたいのか、を大事にしないといけないだろう。

 

他者の顔色をうかがう人は、ここをすごく軽く扱う。

軽く扱うどころか、自分が感じることを相手に気に入られるために

無視さえしようとする。

「結果を出す」ために、自分の感じることを封印するのだ。

 

自分が何をすれば「自身での喜び」を感じられるか無視して、

他人の思惑、他人の反応だけから喜びを得ようとする。

それはある意味「他者の思うとおりの人形」になることに、実は等しい。

人形と言えば聞こえはいいけれど、

「精神的な奴隷」と表現したらそのひどさが伝わるだろうか。

 

自分が疲れて、疲れれば疲れるほどうまくいかなくなる理由が、わかるだろうか?

無駄に空回りしていく理由、それは自分という存在を自身では放置しながら

その一方で「認めて認めて!」って他者に自分を押し出す、

気持ちのうえで相手の奴隷になりながら、押しつけることをやめないからだ。

自分が自分を無視しておきながら、他人には認めろと押しつける矛盾。

 

そう、私もかつて、評価欲しさにやり過ぎて、ある日ぼっきり折れたのさ……。

 

あなたが、やりたいことをやる。

あなたが、自分で喜べるから(他者が喜ぶから、より先に!)やる。

 

その結果を他人に対して「押しつける」のでなく

自分がやったら、努力したら心地よいこと、が第一選択肢。

その選択範囲内でのみ「他者にとっても、喜んでもらえそうなこと」を選ぶ。

そうやって初めて、努力した気持ちも、活きていく。

 

誰かが喜びそうなことを第一優先にするから、おかしくなってもいくのだ……。

 

もちろん、今の私も、まだまだ練習していること。

たぶん、社会で生きて(活きて)いく限りは一生、練習することなのだろうと思う。

 

でもね、そうできるようになったことがうれしい。

そうできる環境でいられることが、うれしくてありがたい。

 

今日のこのブログも、私が書きたいと思えた話。

ここから、誰かに何か届けば、とてもとてもありがたくてうれしい。

その方が持つ「受け取ってくださる感性」、

その方自身のお力に、今日も私は心から感謝しつつ、祈ります。

 

必要な方に、必要な言葉が、届きますように。

 

2015_06_12

Photo by Body-n-Care
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