カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

自分が好き≠自分だけが好き、ましてやもっと≠自分勝手

なんか降りてきたみたいに(笑)書き留めたくなったので、書いておく。

自分が好き、ということは

自分だけが好き、というのとはまったく違う。

「自分だけが好き」な人って、おびえている人だよ。

言ってしまえば他人が怖い、

他人というものはこの私を攻撃するに決まっている、と、

どこかでなぜか、信じている人。

なぜそれを信じているかというと

「素の自分のままでは、攻撃されることがある」と信じているから。

つまり、攻撃がありうるという前提の部分では他者を信じていないし、

攻撃される可能性を持った自分がいる、と思っているのだから、

その部分では自信がない、そういう意味で自己を見下げている人、なの。

わかるかな。

自己否定……他者から本当は攻撃されてしまうような自分がいると思っていて、

その部分では自分を嫌っているからこそ、攻撃が最大の防御、になるの。

そうして結果的に、

表面上の振る舞いとしての「自分勝手さ」が立ち現れてくる。

まあ、確かに自分のことしか考えていない、というか、

自分のその、おびえから来るものしか、

その人が見ていないのは事実なんだけれどね。

それは自分が好き、と自身でも表面上、勘違いしつつ

実は一部で思い切り自己否定しているから、

他者が怖くて攻撃するのよ。

ましてや、そんなタイプの人を横目に見て

「自分のことが好き、だなんて思ったら、

自分勝手な人間になってしまうじゃないの!」

なんて思っているのだとしたら、それもまた大きな勘違いだよ。

「こんな自分」を、自分でも「ちゃんと否定する」ことが

正しいあり方だ! と信じている人は、

そういうふうな方向へ、おびえるよね。

その人もまた、他者が、とくに他者の目が、怖いから。

で、他者攻撃の代わりに、

へりくだるほうを選ぶだけの話になる。

どっちも苦しいと思えるよ。

自分を好きでいる、って、単純に、

自分に弱い部分があることを、自分で「知っている」ことだ。

それが「良い」わけでもなんでもない。

というか、良い悪い、そんなジャッジ、必要がない。

ただ、そうなんだな、と、淡々と認めている状態なんだよ。

先の二者に比べてごらん?

かたや、他者が怖くて攻撃し、かたや、他者が怖くてへりくだる。

あえてそれと比べれば(本当は3番目のタイプの人って、

自分と他者をそういうふうに比べる気もないはずだろうけれど、

一応ここでは、無理矢理、比較してみれば、の話ね)、

3番目の「そういう自分がいるのだと認めた人」って、

なんだか強い気がしない? 動じなさそうに思わない?

そう、結果的に、第三者が見れば

「そういうふうに見えてしまう」だけの話。

だって3番目の人自身は、自分が弱いこと、知ってるからね。

つまりは、弱くて、いいのよ。弱いままでいいの。

弱さと自分への愛は、相関性、ないの。

そして弱くてもいいと「知る」ことが、

結果的に、その人に強さを与える。

さらにね、そういう人は

「あなたはそう思うのですね、私はまあ、そうじゃないのですが」

というふうに、

自分とは違う他者の言葉を受け止める余地を持てる。

なぜなのよ! 違うわよ! あなたが間違っているわよ! などと、

相手を攻撃する必要が、なくなっていくの。

ただ単に「そうですか、でも私は、あなたと同じように感じられないので、

そういう方向は選択したくないのです」と宣言するだけでよくなる

(そして宣言後に、ならばどうする、と折り合うかどうかも、自由だ)。

ねえ、そういう態度の人がいたとして、よ。

それって果たして、攻撃、だろうか?

それは自分勝手、だろうか?

3番目の人に、なぜそんな余地ができるかといえば、

弱い自分も、好きでいていいと知っているから。

それを実感できているからこそ!

他者もまた、弱くたっていいし、自分と違っていていいと、わかるの。

肌で、わかるの。これ、理屈や理論じゃないんだよ、感覚なの。

私はこれを、鬱以降、実践する練習を始めて

(あ、ちなみに私はそれまでは、自分の正しさを主張したいパターンでした)、

実際に今はもう、ラクになってきてるよ。

前に少し書いていた、

かの「お姉さん」みたいな人が出てきたとしても、

勝手に目の前から消えてくれるし

(円満な形で彼女がいない職場に移った)、

じわじわ、そういう引き寄せ的なことも起こってきていて、

ゆっくり良い方向に進んでおります……ありがたいことに。

今となっては、あそこで、それなりに自分で練習を積めたうえ、

無駄な戦いのエネルギー、消費せずに済んでラッキー(笑)程度。

たぶんそういうふうに、物事を受け止められるの。

私自身としては相変わらず「私って弱いまま」なんだけれどね(笑)、

これ、強くなったように、たぶん感じられるでしょう?

少なくとも、動じなさ、の面でね。

だから最近の私は、

自分を好きになる、自分を信じる練習をすることって、

マハトマ・ガンジーやマザー・テレサ、

あるいはイチロー選手や、先日逝去された「森のイスキア」の

佐藤初女さんといった方々の生き方を学ぶことと、

同じ意味に捉えているよ。

今日のこの記事が、必要な人に、伝わりますように。

 

2016_06_26

Photo by AmberAvalona
Pixabay

 

それってそもそも、の設定の話かも

昨日の夜、書いた話に、続くことになるのかな。

 

誰も私を相手にしてくれない

という表現を使う人は、往々にして

 

誰も私を依存させてくれない

(それが誰も私を選んでくれないだの、私を見捨てるだの、という感覚になる)

=誰も私を無条件に「ヨシヨシ」してくれない

 

と言ってるなあ、と感じられる。

それって本当は、

自分で自分を無条件でヨシヨシしていい、ってことを知っていく旅、

なわけだけれど、今はまだ、他者との関係に話を絞るね。

 

まあ、とはいえ、親との関係性でこれを説明するとなると

とくに私のブログを読んでおられる方の場合、

心の内でものすごい抵抗感に出くわされるであろうことは

想像に難くないので……。

個別対応ができないここでは、今回、

「恋愛」や「友情」の関係性の面で、書いてみるよ。

 

あのね、それが「できない」ということは

そもそもやらなくていいんだよ、と

今、まさに、教えてもらえているのですよ。

まあ、今は届かないかも知れないけれど、

我慢して読んでみてね。

 

で、無条件に「ヨシヨシ」なんて望んでないって?

たとえば代わりに一生懸命、尽くすもん! って?

 

でもそれ「代わりに」だよね。

つまりは交換条件、だよね。

そこからしてすでに設定、ずれてるよね。

 

さらに言えば

誰も私を選んでくれない、とか言うわりには

あなたが「ヨシヨシしてくれると思える相手」を

もう、いちばん最初の段階で

メチャクチャ選んで限定している

ようにしか思えないのだけれど。

 

自分がめっちゃくちゃ視野を限定して、

自分が依存したい相手を選ぶ

この人しか目に入らない! とか言い張る( ̄□ ̄;)

 

→お互いの依存による交換条件がうまく成立しなければ、

当然、その関係は壊れる

 

→そこで一転、今度は「選ばれなかった」という被害者モードに陥る

 

→選ばれなかったのは、私という人間が「汚い」せいだわとか言って

相手だけでなく、さらに自分を責める

 

→この苦しみから、自分では抜け出せないから、と、次に

依存できそうな相手をまためちゃくちゃ限定して選ぶ

 

→依存のための交換条件が合わなければ……

 

ねえ……こうやって書いたら、このサイクルの設定自体が

全体的に何かおかしいことが、わかるかな?

 

たとえば、

あなたはいつも耐えていつも我慢して、

いつも自分が悪くて

いつも相手に見捨てられ(?)たあとに

「相手の記憶が自分を苦しめるの!」って言って

相手を恨んだあげくに自分と相手を罵倒するの。

 

そりゃ、幸せ、なんて気持ち、無理だわ。そこでは感じられないわ。

そもそもの設定で、あなたがその視野とそのやり方を、

選んでいるのだもの。

 

たとえ百歩譲ったとしても、

交換条件が合わない

=自分に合わない

ってことでしょう?

じゃあ、別れてよかったのよ。

その相手って、自分も他人も大事にしないもの。

他者を傷つけても言い逃れなどをしようとする

つまりいい加減な相手が、自分から離れていきました

=私が悪い、私が劣っている、私がケガレテいるからそうなった?

 

あなたという人間に対して、ダークな相手のほうが

耐えられなくて逃げ出した、という発想は、なぜそこで浮かばない?

ダークな人間にだって、逃げる権利くらいはあるよ、そりゃね。

 

ダークな人間にさえ、相手にしてもらえなかった私? 何それ?

ダークな人間に苦しめられ、振り回され続けたかったの?

そこまでしても、依存が大切なの?

なぜわざわざ、合わなかった相手との別れを

恨みと自己罵倒にばかり、置き換えるの?

 

愛と「人間の出来・不出来」はまったく別もので

そもそも「依存」なんて関係を設定する必要がない、

まったく別の視野があることはなぜ知っていかないの?

なぜそれは練習しようと思わないの?

 

なぜ依存のほうがラクだと、自分に合うのだ、

そのやり方しか私は目に入らないんだと、

勝手に自分を限定して勝手に信じているの?

信じるに足る理由? そこには何があるの

過去の、偏った視点によって解釈された

ゆがんだ現実認識の記憶? 

それが確固たる証拠になるの? 本当に?

 

おっと、キツイ言葉を強調してるね、昨日から。ごめんなさいね。

でもすでに、現にあなたは幸せじゃないし、苦しんでいるのに、

なぜそのやり方が「当たり前」だとか「それしかない」と信じているの?

 

そこを、解きほぐしてみたら? って言ってるんだけれど、

なぜそっちはやってみようとしないのかな……。

本当に不思議。

 

まあ、それが学びとして必要な時期って人もいるかもしれないけれど、

実際には、それがゆがんでいるなって気づいたのであればもう、

そんな学び、いつだって自分からやめていいのよ。

 

やめるためにわざわざ、さらに苦しい自死なんて方法を使わなくても、

あなたが本気でやめると決意して、どんなに怖くても

違う視点を探す! と決めるだけでいいんだけれど?

 

だめ?

 

2016_06_25

自分の代わりに、誰かに自分を愛してもらう方法を使わなくても
「私も相手も違っていて自由で対等で大切」っていう関係を選ぶ、
そのために「自分を“知って”いく」作業、始めてもいいのにな……

Photo by condesign
Pixabay

 

失敗をイメトレ。過去の悲しみを、緊張を、痛みを、苦しみを、不幸を(以下略)

3割の成績でいればいい、と割り切って

そのために20年以上も精神集中の練習、

自分を高める練習を心掛けるイチロー選手。

 

よいジャンプを何度も何度もイメージするという羽生選手。

 

素晴らしい棋譜を大量に研究するという

将棋や囲碁の棋士。

 

「理解してくれないのね! でも、ならば次へ!」

と世界を飛び回り、寄付を集め続けたのが、

かのマザー・テレサだった。

 

突き抜けた才能の人たちでさえ、やっていること。

才能のある彼らでさえ、練習を繰り返している、と

だからこそ、うまくいっているんだよ、と

教えてくれていることがあるよね。

 

成功したいなら、先に

成功した状態のイメージを

自分に植えつけ続けることが大事だと、さ。

 

失敗を恐れ、失敗を意識すると、

失敗したときの感覚をイメージすることになり、

身体全体が固くなる。

 

つまり焦りや緊張が、

実際に自分を失敗に導くということ、だ。

 

もう一つ、よく経験しそうな話。

ふだん、自分が嫌いだと思う、腹の立つ相手が

誰かから気に入られている場面に出くわしたら?

たいていの人は「なぜあの人が!?」という疑問を感じるだろう。

逆にその人が上司などから叱られていたり、

その人に対する不満をどこかで聞いたとしたら

「やっぱり! そうだよね」と感じることだろう。

 

そして、これが自分の好いている人なら、真反対のことを感じるだろう。

 

以上の2点から導き出せる、あなたがうまくいかない、苦しくなる原因。

 

あなたが

自分を

嫌いと思ったままだから。

 

悪いイメージを重ねる練習をするからこそ、

失敗もするし、うまくいかないし、

悪い面ばかりを「やっぱりね」と自分から強化する。

さらにうまくいかない方向へと、

自分が、自分を連れて行く。

 

自分を良くする練習ををあきらめ、

逆の練習ばっかり積んで、

自分のパフォーマンスを自分で下げておきながら、

「どうせこんなもの」「どうせ私なんて」

「どうせ世間は」「どうせあの人は」って

勝手にすねて、あきらめているんだよ?

 

自分への罵倒を続け、過去の嫌な場面のイメージングを

脳内で繰り返し続けるからこそ、

よい状態から、自分を遠ざけるのだ。

そして結果、さらなる否定の『やっぱりね』につながる悪循環。

 

だから、もう本当に、何度でも言うよ。

あなたが、誰かに選んでもらったら、人生がうまくいくのに、

なんていう完璧に他人任せな依存を求めるのはなぜか。

何かがうまくいく、うまくできるようになったら、を

信じ込んでいるのはなぜか。

 

そんな、何かの外付け条件を『達成』したら、

そのセルフイメージを変えられるわけではないのよ。

何年もの間、そのことで

すねて恨んで罵倒して自己卑下するほうばかり、

選んでいるようだけれど。

見ている部分、それ、ズレまくりだよ。

今日は断言してみるよ、うん。

 

そのセルフイメージこそが、これまでずっと、

あなたをうまくいかせにくくしてきたのだ。

 

だから、うまくいくようになりたいのなら、

 

そもそも、なぜそんなセルフイメージを

『○○だったから』などという過去の記憶から

真実なんだよ! と疑うことなく思い込み、

みずから後生大事に、

何よりも大切に抱え込んでいるのか?

 

そっちのほうを疑問に思い、

そこに潜んでいる、自分のおびえやおそれ、に

立ち向かう気になれるかどうか、が鍵になる。

 

「いい人」だと思われたら、そりゃ誰だってうれしいよ。

でも、あなたの場合、

そこに『異常なまでに執着している』のであって、

その『異常さ』にまでつながってきた理由には、

自分で気づいて、自分がゆるめる必要があるのだ。

 

あえて異常、という強い表現を使っているけれど、

要は執着の程度がひどすぎて、

すでにあなたの感覚や思考が偏りまくっているということ。

 

なぜ、そうなるのか。

何をどこまで「こうに違いない」と信じ込んでしまっているのか。

なぜ、自分のパフォーマンスを上げるために

リラックスせず、逆に『見張り』状態になるのか。

 

成功に導く方法と真逆のことをしているのに、

それをし続けなきゃ「失敗する」などと

“あなたが”信じているのは、なぜだろうね?

 

真逆のことを延々、繰り返してきた結果、

あなたは自分を今、

そこまで罵倒し続けることに至っているんじゃないのかな?

 

だからどうか、その悪循環の理由を解きほぐす勇気を、

あなたが持ってくださいますように。

 

2016_06_24

夜明け前は、世界がいちばん暗いという。
だからこそ、明けたときが美しい。
そしてひとりの例外もなく、世界中で夜は明ける、ありがたいことに。

Photo by Ryan Sebastyan
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