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自分へのその「ふがいなさ」の気持ち、「見栄」から発生していない?

日曜日に、前日の「後ろめたさ」の続きを綴っていくうち、

見栄っぱりから生まれる「できていない自分に対するふがいなさ」と、

他人への「後ろめたさ」は、混同しちゃだめよ、と書きたくなった。

 

本当は「こうありたい」のにそうなっていなくて、

そんな自分が情けなくて、というとき。

周囲に対しても「申し訳なさゆえに自分が後ろめたい」と言いながらさ。

 

あの、その、あなたが言う「こうありたい」で目指す姿って、

本当は他者に対して

「ふふん、どうよ」と示せるようなもの、

つまり自分が優秀であることを誰かに示して

「悦にいりたい」、なんて姿だったりしないか?

ということを、書き始めてしまった。

で、そこについていろいろ表現していくうちに

 

「今はまず素直に受け取っていいことを、勝手に自分から拒否して、

なのに『本当はこうありたいのに!』と、高望みするのは、

それ、自分が立派で素晴らしいと思われたい、という方向の

ただの欲望であって。

 

ぶっちゃけ、周囲への感謝のかけらもない、勝手な妄想かもしれないよ」

という、かなり強い表現まで出てきて。

 

その筋から、さらに話をどう展開させようかと迷い、

「いったん寝かせておこう」と、

日曜日とさらに月曜日も、続きを書くの、やめたのであった。

 

そうしたら!!!

さらに、あなたのそうした妄想(笑)を打ち砕けるような、

ステキな記事が、昨日の夜(私が読んだのは今朝)と今日、

2本、現れましたとさ。

 

ああ、だから「寝かせておくか……」だったのだ。

こういうよい『例示』を待て、ということだったのねー。ありがたや。

 

なので、上記の、ごめんね、キッツイ内容を踏まえたうえで。

自分がそもそも、見栄を張りすぎているから、今、うまくいかないどころか

状況がおかしくなってしまっている可能性があることを踏まえたうえで、

この素晴らしい例を、読んでください。短縮リンク張ります。

あなたがふだん、見下しがちな人が

別のものの見方をしている場合もある、あなたの想像を越える範囲で。

そういう人、実はちゃんと、周囲にいてくれるかもしれないし

(この人の場合はたまたまそれが、ダンナさんというパターン)。

◎カエル姉さん
『ダンナに心屋塾の素晴らしさを語るばずがの巻②』 
http://ow.ly/RDbtr

(いるやば=そこにいるだけでもうヤバイくらい、すばらしい存在)

 

そういうものに一切、気づけないどころか、

受け取れないとか、それは望んだ形のものじゃないとか、

自分で勝手に決めつけて、わがまま言ってるだけかもしれないよ。

◎心屋仁之助さん
『★全力で受け取り拒否しておいてお金を稼ぎたい、は、ないわ( ゚Д゚)』
http://ow.ly/RDbZ8

 

善意は受け取ろうよ、ちゃんと、ありがたく。

気持ちの部分だけ受け取って、不必要な部分は受け取らない、でもいいんだし。

確かに「相手の思い込みを満足させるもの」と、

本当の意味での「あなたへの思いやり」は、

もちろん区別していいけれど、

差し伸べられた手を「自分が勝手に解釈して、勝手に選り好み」

しているかもしれないよ。

だから今、抱えているその基準、見直してみたほうがいいかもよ。

 

今日の記事は、刺さる人と、意味不明に感じる人に

分かれそうな気がしていますが、それでいいと思えるので、このままで。

 

必要な人のところへ、必要な言葉が、届きますように。

写真とその他リンクもナシにして、本日は終わらせてみます。

 

追伸:日曜日から、自分だけが得したくて

他人のメルアド集めたいとか商材を売りたいとか

アフィリエイトなのにやたら見に来いとか(押してもらえなくても、

閲覧数ですでに自己満狙い……? 本物の自信があるなら、

外部ランキング登録で毎日、順位でも示せばいいのに……よくわからん)

ブログ読みに来いって言い張る人に対しては、

訪れてくださった瞬間、

自動的にあなたの姿をご自分で直視していただける全身鏡を、

イメージセットしましたのでよろしくねん☆(前記事参照)

自分の今の黒さと自身の姿、見つめてみてくださいませヽ(^o^)丿♪

そんなやり方、ホントにもうやめていいよー。

あなたにそれ、合ってないと思えるよー。

 

 

自己イメージと、周囲に醸し出すものと。

自己イメージって、なんとなくあるよね。

それ、実はときに、諸刃の剣でさ。

 
『こういうふうにするのが私らしい』、

と強く思い込み過ぎると、

今度はそのイメージに自分が振り回されることになる。

 
たとえば、

「自分の意見はちゃんとはっきり言わなくちゃ、私らしくないのよ!」

と決めつけたら、次からは

何につけてもはっきり言わなくちゃ『いけない』

というルールを、自分に強いることになる。

 
で、はっきり言わなくちゃいけないわけではないときにでも

いきなり主張を展開し始めて、KYになったりする

(はい、過去の私も、そういう傾向、あったと思うよ)。

 
親切にしなくては、優しくしなくては、というのも同じ。

自己イメージを決めつけて、ルール化しちゃうと、

今度はルール違反を自分が犯したときに、

そのことによって、変なモヤモヤを抱えることになる。

 
で、これ、『こんなふうに見られたい』という理想の自己イメージも同じく、でね。

本当は、自分の「気持ち」がそぐわないのに

無理して「こうならなきゃ!」と決めてやると、

周囲には、却って変な方向に受け止められたりする。

 
そもそも、そんな自己イメージを持つのって、

『そうじゃない』自分を嫌っているからなのよね。

 
意見ははっきりいわなくてはいけないのに、言えなかった。

自分勝手なことしてしまった。

等々、嫌っているの。

 
だったらね。もし。

 
そ こ が 

そ も そ も

ズ レ て る の よ

 
と、耳元でささやかれたら、

どんな気持ちになる?

 
自分の「マイナス」の自己イメージも、

自分が思い描く「プラス」の理想像も、

そのイメージの内容でなくて

「自分の○○なところが嫌」と思ってしまう、その『気持ち自体』が、

あなたにとっての「ズレ」を生み出す原因、

あなたの苦しみの元だったとしたら?

 
わかるかな。

ならば根本的に、ほかの「何か」を変えていかなくちゃ、とは思えない?

 
私の、このタイトルのブログを読もうとしてくれている人は、

自分のことを全部嫌っているか、

「自分のこの部分が嫌い」と思っているか、

あるいは人間関係で、なぜかいつも、人とケンカしちゃう、

ズレが生じる……って問題を、抱えていると思うのね。

 
過去の私がそういう人だったし、今もまだまだ、私自身が練習中だから、

表現の方向性の違いはあっても、

自己批判好き、

他者批判しちゃう、

自分のここが嫌い!

というふうな部分を持たれている……、

その点で似た人は、結構、私が引き寄せるだろうと思えている。

相手に言うか言わないかは別としてね。

 
で、変える練習を始めた私が今、強く実感していることは、

自分に『新しいことを詰め込む』だけでなくて

『否定している部分を消していく』作業もしなくては、

『新しい部分』が染み込んでこない、実際には……ってことなの。

 
鬱がいちばんキツかったときなんて、

自己批判99.9%で、『自死できない自分』さえ罵倒してたからね、私。

 
も、ね、そこから、違ってた。

あ、これは、間違いという意味でね、ズレていた。

 
自己批判すれば向上する、というのは、

あくまでも『自分を信じている』ことがしっかりベースにあって、

その上で『まだまだ』とか、『もうちょっとこういう方向へ』と願うときに

有効なやり方なの。

自己信頼なしの自己批判

は、ただの自分イジメでした。

今だから私も言える。ちっとも効果ないよ、それ。

 
そして、土台の自己信頼なしで自己批判をする人に共通のイメージ。

これはどうやら、2つのパターンに分かれるように思えるのだけど、

ひたすら「キツイ」「怖い」「言い過ぎ」さらには「よく怒る人」もいるかな、

そういう「厳しさを、当たり前のように平然と、他者へ押し付ける」

というパターンか、逆に

「言えない」「気弱」「小心者」

と、自分でも思うし、他者からもそう思われるパターン。

 
だいたい、どちらかに偏る傾向にあるように思う。

そして両者に共通しているのが「頑固者」じゃないかな、と。

 
ま、頑固者なのは「こうでないといけないのに!」って決めつけているわけだから、

そりゃ当然、そうなる訳で。

 
ようするに、柔軟性がないの。

それの、弱いか強いかバージョン。

 
柔軟性っていうのは『~であるべき』からは、生まれない。

他者の別の考えに基づく声も、

ちゃんといったん、先に受け止められて、

そのあとで、自分にとってそれは「心地よいかどうか」を選び、

選んでからも、自分が選んだ方向を他者や相手には押し付けない。

何を選ぶかは、相手の自由であることを認めると同時に、

だからこそ、自分が選ぶ方向もまた、

自由であっていい、と思えること、じゃないかな。

 
少なくとも、柔軟性って、そういうものを含んでいると、今の私は捉えている。

そしてそういうのって、練習できるのよ。

自分がそうしようと、決めればね。

 
そのために必要不可欠なのが『自己信頼』なの。

だから自己批判ばかりしている人は、そこをまず、本気でやめないと、

いつまでたっても『考えの偏った頑固者』の雰囲気を、

周囲に醸し出すことになると思うよ。

 
まあね、こういう書き方すると、またね、憤慨する「怒り好き」さんが

きっといらっしゃることだろうけれど(^^;)、

別に、苦しいままでいいなら、それもご本人の選択なので、どうぞご自由に。

 
今の自分。嫌いな自分。

あるいは、ものすごく嫌いな部分、許せないところを持っている自分。

そこからは、本当に抜け出せるよ。

それは自分で、できることだよ。

 
そのために、他者との関係云々、以前に、

なぜここまで、私は私のことを批判してるんだろう、

ってところから、先に手をつけてみてね。

 
そのほうが結局、物事が、うまくいくようになるよ。

そのほうが、柔らかい自分になって、その柔らかさを醸し出せるようにもなるよ。

どうか、どうか、あきらめないでね。

 

2015_08_13
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だって○○だもの!

昨日書いた、前側の思考。

具体的にどんなものを指すかというと、

それは○○すべきでしょ!

それは○○であるのが当たり前でしょう!

○○に決まってるじゃない!

○○じゃないと、○○しないと、いけないのに!

という類の、

あなたの『もろもろの思い込み』のことである。

 
たとえばこれは、よく言われる例ね。

人を殴ったらいけない!

人を罵倒してはいけない!

そう思い込むあまりに、

しょっちゅう子どもに怒鳴って体罰を食らわせていたら、

親が目の前で見本を見せているのだから、子どもは混乱するだけ。

 
私は過去に、お姉さんの例も何度か挙げてきたけれど、

彼女は、認められたいあまりに暴走することがあり、

まわりにフォローさせたり、

まわりをイライラさせたりもする。

 
えーと、うん、それ、もしうまくいってると思えるなら、

ただの自己満足で、なんか視野狭すぎて、

却って迷惑なんですけど、という事態が起こるのだ。

 
さらにね、嫌いな存在である私に対しては、

関わりをできるだけ減らそうと思うあまりの、指示不足や、朝令暮改までやる。

それを指摘してもお姉さんは一切、謝らず、

前のは忘れてください、こうしてください。

などを平然と言い放つので、ほらほら、

2年目社員の男の子がびっくりしてこちらを見つめてるよー、

なんてことも起こって。

仕方ないからその男の子に、

大丈夫よー、こっちの処理の話だから、と、後から私がフォローすることになる(笑)

 
こういうのって、もうね、

あ、そう、わかった。次からそうするね、と流すだけだよ。

いちいち受け止めたくもない、面倒くさいから。

相手と私が「違う」だけだから。

 
じゃあ次からそうするね、という確認を取っておいて、

彼女がまた違うことを言ったら、

前に言ったことと違う、と気づいてもらえばいいし、

それを何度かやれば、元々は認めて欲しい子だから、

自分で慎重にやるしかなくなると思う。

……と、そんなふうに、周囲が冷たくならざるを得なくなっていくの。

 
ねえ。前側の努力だけしてる、その気持ち。

思い込みが強いと、その部分で、人に指示したくならない?

相手側の非の部分を示して、指導したくならない?

何かの、批判の言葉を相手に伝えたくならない?

あるいは、そうじゃないのに!!

と、ブツブツ独り言で文句を言いたくならないかな。

 
そういうのって、ときにさ、

100%、自分が正しいと思っている、

あるいは本当はそこまで強く信じてないのに、

常識的にこうであるべきだから、という大義名分を持ち出す、

心の奥では自分だってやりたくないのに、

無理してガマンして立派にやっているから、やらない人に腹が立つ……。

そんな状況に陥っている可能性もあってさ。

 
まあ、相手に正面切っての文句でも、それができないゆえの陰口でも、

持論を吐いて人を批判非難罵倒&指導したいタイプの人は、

この手のこと、たいてい、何を言っても「ケッ」って、なられるけどね。

『あなたが間違っているの!』って部分を、崩されないことも多いだろう。

 
ならばあなたが気持ち悪いから間違い?(^^;)あなたが法律?

「それは素晴らしい!」って言って欲しい?

って言いたくなるけれど、

そんな言葉は、残念ながら届かないのだ。

 
あと、これもまた、この前にも書いたけれど、

間違いだ! という種類のことを思い込んでいるなら、

あなたも同じく、それ、間違いだったりするかもよ?

そもそも相手と自分の「違い」を許さないのって、なんか「間違って」ない?

 
そういう言い方されたら、どう答えるかな。

やっぱり、

だって! ○○は○○○○だから、

○○○○○○するべきなんだもの!! って主張する?

 
はい。

つまりそういうのが、前側の思考です。

そこで終わらせてるよね、何かといろいろ。

 
そこだけでとどまって、そこで問題を解消するためにグチャグチャやるから、

かのお姉さんのように、

出来る人と見られたいあまりにトンチンカンな迷惑を他者にかける、

つまり結局、出来る人になれないまま、みたいな、ズレが起こることになるのよ。

 
何かを言われたときに脊髄反射みたいに、自分の中で、

だって○○じゃない! ○○なんだもの!

という気持ちが湧いてくるときには、

いつだって、このことに注意してみるといいよ。

 
あなたのその『だって』は、実はそれこそ、自分を苦しめる、

自分が望む方向と逆の結果を生み出す、

あなたにとっての

『諸悪の根源』

かもしれないからさ。

 
どうかいったん、そこでちょっとでいいから、立ち止まってみて。

そして「なぜこの『だって』を、私はこんなにも信じているのだろう?」

って、そっちのほうの答え、奥のほうの答えも、

どうか自分で勇気を出して、探してみてね。

 

2015_08_10

Photo by Josch13
Pixabay