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打ち解けられない。その2~必要でないときの話

昨日の追伸を書いたあと、続きではなく、

別の角度でも話したくなっていたので、今日はそちらを書いてみる。

 

私は、まあ、女子に分類されるわけなので(笑)

(ってジェンダー的な悩みは別に持ってないよ、女性のわりにはオッサン脳なだけ)、

中学くらいまではグループ、というものに属していた。

 

小6のときに、仲がよい、と自分では思っていたはずの2人から、

いきなり嫌味を言われて絶交され(もちろんその原因は私にもあった。

だが今から考えたら、相手の言い分を全部、鵜呑みにする必要までは

なかったのかも、という感じ。なのでここでは嫌味、と表現してみるよ)。

それゆえ中1のときは、ドキドキ、ビクビクしながら

友達と接していた感覚がある。

 

ところが中2で奇跡的に、クラス全員が話せる、

各自が柔らかく、全体でも仲良しでいられる、という環境になり、

そのおかげでビクビクが吹っ飛んだ。

 

で、その頃から、私は優等生方面の、明るい口達者女と

化していった(笑)から(このときすでに、そういえば

頑張りモードに突入してたな……)、だんだん、

嫌味や陰口等も怖がらなくなっていけた。

言いたいことあるならちゃんと言えば?

とハッキリ相手に言える人になっていって(わー!)。

 

中3のときにはもうね、生意気、とか他人に言ってイジメちゃうタイプの

女の子ちゃんたちも、私と私の周りには、

手が出せず不満タラタラだったらしいよ。

これは卒業してから知った話で、かなり友達と笑えた。

そうか、怖がられ、悔しがられてたのかー、

って、なんじゃそりゃ、と(^0^;)

 

で、高校はなぜか、お勉強できまくりの公立、

友達は基本、超個性派集団で「つるむ? はあ?(*゜д゜*)」って感じだったので、

違うクラスに仲良しが1人いるくらい、あとは当たり障りない程度。

 

こうしてすっかり、なじむ人とはなじむ、なじまない人とは無理に接しない、が

出来上がっていった私だったから(大学は高校の延長ね)、

友人の女子高時代の愛憎話を聞くのが、そりゃもう、新鮮だったわさ。

 

そんなモードで社会人になっていったがゆえに。

興味のある会話、と、興味のない会話、もだんだんハッキリしていって、

興味のない話をする集団の場合、それがとくに会社での関係だと

そこにあまり加わらないという選択を、普通にするようになった。

 

これは、私以外にもそう感じていた同期の友人が複数いて、

いろいろ語り合ったことがあるくらい、

その会社自体が、もともとかなり女子高ノリを持っていたわけだ。

 

当時、私の友人が例に出した話をすると、

彼女は最初、支社に配属された人で、

支社には、おっとりした人がたくさんいたそうだ。

 

で、ランチタイムに、社内で複数の同期でご飯を食べるとき、

「私、昨日、卵焼きが上手に焼けてー♪」

という方向の会話が延々続くのよ、と。

その彼女もオッサン脳方面だったから(笑)、

何を話せばいいか、だんだんわからなくなったそうだ。

 

「悪いとか、そういうのではないのだけれど、

へぇー、そうなんだ、という以外の感想を、

どうやって述べればいいか、わからなかった」らしい。

これ、私もそういう傾向があるので、よくわかる話だった。

とっとと本部にもぐり込んでおいて良かったと思った。

 

が、しかし、本部には本部なりに、やはり問題があった。

女子高ノリが『恐い』方面、女子高の部活の先輩モードとして現れる。

つまりパワハラセクハラ(しかも逆セクハラもアリ)、そしてお局様いっぱい。

私も2年めにして、2つ上の先輩2人に

「生意気」というレッテルを貼られたものの……。

 

いや、あの、本気でね、わからなかったわけですよ、

なんで職場で、女子高ノリの『服従』とおべんちゃらを、求められるのかが。

だってここ、会社だよね?(°°;)

 

ってことで、私、先輩の嫌味もネチネチも意地悪も

ほぼ「はあ」「はい」「そうですか」的にスルー。

そのうち、たまたま私、目立つ役員にも気に入られちゃったりしたもんだから、

お局様のお2人、余計に『ムキー ッ!!-_-# 』

だったらしい(これも、あとから聞いた話)。

 

その結果、1年経たないうちに、

1人は私に対し、上司の目の前で自爆。

私はポカーンとしておしまい、な出来事だったが……。彼女は別の部署へ異動した。

もう1人はそれがきっかけで、私をターゲットにするのをやめたが、

出向先の子会社で、全く同じような女王様になろうとして。

たまたまその子会社は全然、別の世界からやってきた集団だったから、

全員からスルーされて、居づらくなって会社やめるの巻……。

これまた、自業自得というか、天網恢恢粗にして……な出来事であった。

 

長々と、自分のことを話してみたのは、

つまりね、無理して合わせる、という発想、私にはないのですよ。

差し障りない程度に、面白い会話にはちょいと加わるとか、

そういう気遣いは一応、少しするけれど。

 

だいたい編集なんて、自分で仕事を仕切るようになったら

ランチタイムさえ時間がバラバラだったから、

その世界に長くいたおかげで、普通の会社にたまたま行っても、

独りランチとか平気でやってる。

ご飯食べてきまーす、で、おしまい。

 

仲良しの友人の家族の話であればね、

状況も知ってるから興味が湧くけれど、

ある程度気を遣ったほうがいい間柄で表面的な会話に加わるくらいなら、

ブログや本を読んでいたほうが、よっぽど気楽だし、自分の時間が充実するもの。

 

ゆえに私は、社交的であるのに独立系、という謎のポジションを、

多分、占めていたりすることと思われる(笑)

なんかね、わざわざ言われて「へえ」と思ったのだけれど、

コミュニケーション力は、私、高いらしいのよ。

でもさ、そりゃそうなのよ、それが鍛えられなければ

編集なんて辛くて、長くはやっていられない(^0^;)

初対面で取材しまくるのだから、

狙った話を相手から引き出せなければ仕事にならないのさ。

 

でもそれと、自分がどこまで人に合わせるかは、

本当は別物なんだよな、と思う。

 

私はいい意味で、自分の感じることを大切にしたいし、

だからといって、何かトラブルがあったときにプンプン怒って、

関係のない周囲にまで不機嫌をまき散らすようなことは、

お局様たちとの経験で『馬鹿らしい』と思える感覚も養えた。

あれは本当に、ステキな反面教師だったわー。

 

だからね、少々、変人だと、もしかして思われていたとしても(笑)、

今の私にはまったくと言い切れるほど、問題ないのです……。

 

自分の捉え方、という話題が、普通に出てこない人に対して、

それを懇々と説くのも怪しすぎるし(笑)、

仏教的な観点から見てこういうのもあるらしいよー、とか、

そんなこと、会社で話せるかっ!(笑)

 

なのでたまに、そういう友達とLINEで会話したり、

会えるときは短い時間でも会って話せれば、ある意味、十分なのです。

 

もし、今日はどっぷり、その世界にいたい! と思える日があれば、

私が自分で選べばいい。

そういう場所に行って、深い話を聞いて、人ってスゴいなー! と思ったり、

本を買いに行って、読んで楽しめばいい。

そもそも私、活字中毒だしね(笑)

 

ということで。

別に自分が打ち解けないでいいと思える場面のときは、

まったくもって! 無理しなくてもいいのではないか、というのが私なりの持論。

自分に合う話題が繰り広げられている場所へ、

自分から出かけていこうよ。

そうしたら、聞いてるだけでも、楽しめる。

「自分が話したい、深い話」をできる相手が見つかれば、

自然に変わっていけると思うよ。

 

現に私は、パニック障害の友人が、それを

徐々に克服していきつつある姿を、間近で見させてもらえている。

 

私との共通点がたくさんあると思える人で、

私よりもっと深いポテンシャルも備えていると感じるから、

その人が、その人なりのペースで練習しているのを、心から応援できる。

 

そういう関係しか、私はもう選ばないし、

それはすごく恵まれたありがたい話だと思える。

自分の足で探しに行って、自分で決めて、相手にドギバクで自己開示して。

その結果としての今、老若男女、

立場や境遇がまったく違う人とも同じテーマで話せたりするのは、

すごくありがたいわけです。

 

もちろん、途中で離れる関係になる人もいるよ。

でもその人はその人なりに、自分の課題と向きあっていて、

たまたま私とは、違いが大きいと思えるだけ。

単純に、残念、という思い、それで終了だもの。

あなたなりにやっていってみてね、しばらくはさよならだね、

またご縁があれば話そうね、くらいかな。

 

たぶん、こういうのも、

自分の選択に自分で責任を持つということなんだろうと。

そしてまた、自分を大切に扱うということなんだろうと、

今の私には、思えているよ。

 

昔の私なら、視野が限られていたから、

専業主婦の仲良しさんに出会える日がくるなんてことは、想像できなかった。

 

そういう自分の縛りがあって、鬱にもなったけど(^^;)、

そのあとに、縛りをゆるめるために出会った世界が本当に心置きなくて、

今はとても、よかったと思える次第。

 

求めようよ。さらば与えられん、なのだよ、本当に。

いつからだって、あなたは、求めていいんだよ。

 

緊張するのも、怖いのも、別に持ったままでいいのに。

それを否定しているだけだと、そもそも、動けなくなる。

嫌われたくないとおびえるのも、人としてはある意味、当然の話で、

それを持っていても、持っているからこそ、うまくいく面はたくさんある。

 

そういうことを実際に何も経験しないで、自分に文句ばかり言っていても、

そこから延々、動けないだけだよ。

そのほうがいいのなら、止めないけれど……。

 

悪いことなんだと捉えすぎている、その今の視野を、

ゆるめて広げてみるのは、なぜいけないのだろう?

 

そのためにも、自分を苦しめている人は、

自分自身を、今の視野だけで見て、その方向だけから『見捨て続けず』に、

違う見方で掘って掘って掘って掘りまくるとか、

広げて広げて広げまくるくらいに捉える練習をして、

とにかく、自分がゆるんでいける方向を模索してほしい……と、

個人的には願っている。

なぜそう捉えすぎるのか、を、自分のために、知っていってあげてほしいと。

 

きっとあなたのポテンシャルも、今、苦しんでいるからこそ、

昔よりとても高くなっていける機会になると、思えるから。

 

どうか、今のあなたの視野だけにとどまって、

その場所だけで、あきらめないでね。

 

2015_03_20

Photo by ゆんフリー素材写真集

 

追伸:「打ち解けられない」を例にしてみるね

そういう検索結果があったので、

ふと追伸を、続けて書いてみたくなりました……。

 

なぜ、打ち解け『られない』と、

不可能な形式(『~られない』『~できない』)の言葉を、

自分の内側で使い、そう捉えているか、見てみようか。

 

可能、不可能、の表現を、外してみるよ。

打ち解ける。

それは、誰かと心置きなく話すこと、だよね。

そして、困ったことを相手に相談したり、

自分自身に起こったことついて、気軽に話すこと、などが

「打ち解ける」には含まれるよね。

というか、それが結構、メインだよね。

 

自分自身のことを、

あなたが『気軽に話さない』理由は、何でしょうか。

何が『怖い』のでしょう。

 

笑われること?

馬鹿にされること?

誤解されること?

見下げられること?

あきれられること?

 

もし、そうなら。

それはいつ、起こった経験でしょうか。

 

あなたはそのとき、上手に言い返せなかった。

それは、まだ自分が小さかったから。

まだ知らないことが、あったから。

そういう事情ゆえかも、しれないよ。

 

今のあなたは、全く何も言い返せないほど、

言葉を思いつけない人、かな?

会話で緊張して、たとえば、何をしようと思ってるかな。

極端な言い方になるけど、

頭、常に真っ白なのは、格好いいことを言い返さねば、とか、

緊張なんてしてはいけないのに!

と、強く、どこかで思い込んでいたりしない?

自分がどう思われるかのほうを、演じようと「だけ」、していない?

素直に言葉を伝えたら、何がいけないのかな?

たどたどしくても、素直に言葉を発する人のことを、

ダメ人間だと、果たしてあなたは感じるかな。

 

イヤな経験をした。

ではそのとき以来、

まったく誰にも会わず、

まったく何も読まず、知らず、

成長も経験も完全に止めて、

山の中に籠もってきたかな?

 

しかも今、目の前にいる人、周りにいる人は、

過去の状態とまったく同じで、本当に同一人物で、

その人もまた、時間が止まったまま、成長してないかな?

 

同じじゃない。決して、決して、同じじゃないのよ。

あなたが、あなた自身が、同じ、と捉えるの。

 

それは、つらかったから。痛い経験だったから。苦しかったから。

まず、それを恥じずに、認めてあげようよ。

それは、仕方なかったの、いろいろな事情から、ね。

そこで自分を責め続けているの、あなた自身が。

 

でも、どうか気づいてほしい。

まったく同じ経験をすることは、本当の意味では、できない。

同じとき、同じ空間、同じ年齢、同じ思考のタイミングで、

他者と向き合うことは、もう二度と、決して、できない。

 

同じじゃないことを、

同じだ、と捉えて、

また起こったら怖い、と捉えて、

おびえて、そこで自分を止めているのは、

あなた自身なのよ。

 

ならば。

たとえば、まったく違う環境へ、思い切って出かけてごらん。

カウンセリングでも、いいから。

 

世の中には、違う人もいることを、しかもたくさんいることを、

『自分自身に味わわせてあげる』経験、

いっぱい積んであげても、いいんだよ。

いつからでも、それを始めて、いいんだよ。

 

そんなこととはまったく関係がない、

あなたの本来の「良さ」は、

あなた自身にこそ、見つけてもらうことを、

今か今かと、待ってくれてるんだよ。

 

どうか、自分から、違う経験を選んでいってね。

自分のために、選んであげてね。

 

打ち解けられない、のでなくて、

過去の記憶をずっと使い続けて、

あなたが『自分のことを話す』という経験を、

自分に対して「封じて」きたんだよ。

 

本当は、その経験をしたいからこそ!

『~られない』という表現に、なるんだよ。

 

求めているのであれば。

あなたに、その経験をさせてあげられるのは、

あなた自身だけだよ。

あなたがそういうふうに、自分を大切にしてあげていい、

それを自身に、ゆるすだけ、だよ。

 

どうか、過去の記憶を、使い続けていく選択、以外のことを、

自分に、ゆるしてあげてね。

 

あなたがいつか、許可を出せて、

あなたが少しずつでも楽になれますように。

 

他者と自分は違っていて、違っているからこそ、

いろいろ学びあえる。

だからこそ、うれしい! のですよ。

自分のクローン人間しか、世の中にいなかったら……つらいよね(^0^;)

 

違っていて、本当に、いいの。

それは決して「悪いこと」ではないよ。

でも、自分にとって都合のいい「違っている人」だけが世の中にいてほしい、

と願うのも、視野が『違う方向への決めつけ』になるよね。

いらない人は、生きていてはいけないかな……?

そうではなくて、どうしても打ち解けたくない、と感じる相手なら、

接することを、自分からやめていくことを、

自分が自分のために、選択してあげていいよね。

 

いつか、そうした別の選択肢を、あなたが使っていけますように。

 

2015_03_19_2

Photo by Greyerbaby
ID:201405240800
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

なぜうまく……? の捉え方を変えてみる

今日は、ここ数日で私が読んで、自分内でつながったブログのリンクも

ご紹介しながら、書いてみます。

自分が記事を書き始めたら、ときどきこうして、

似たテーマで違う切り口の話が、どかどか見つかるときがあるのよね……。

ありがたい限りです。

 

さて、まず……。

なぜ私はうまくいかないのか。

この視点の内側で、ずっとぐるぐるされている方への、質問です。

 

今、あなたは、何を、うまくいってない、と捉えているでしょうか。

それ以外のことも、すべて、文句なしに不幸のどん底で、

心も身体も人間関係も仕事も勉強もお金も

家族も身の回りの環境も立場も

住環境も食環境も服装も持ちものも

ありとあらゆることが、まったく、うまくいっていないでしょうか。

 

本当の本当に、不幸のどん底中のどん底、

「どんどん底」と言えるくらいの状態であるなら、

ブログを読めることはないと思えるので、

まあ、そこまでどんどん底ではないはずかな、と、私には思える次第。

 

でもあなたは、ひとつの不幸を見つめる。

他のものは、大したことのない、当たり前の存在として扱い、

ありがたさも感じることなく享受して、そのまま、放置している……かもしれない。

 

その当たり前が当たり前じゃないことは、痛いほど痛感したのにね、

たった4年ほど前に。

でも、今や、当たり前。

 

ま、そんな道徳的説教をかましたくて書いてるわけではなくて、

そういう例も挙げられるくらい、普通に享受しているものはあるはず。

 

今のあなたの、その『不幸』。

問題を、その形、あなたの『不幸』として

捉えているのは、自分自身が選択したことであるということは、

もう、少しは、理解してるよね。

 

あえて厳しい例を挙げてみると、

たとえば身近な人が亡くなっても、自分を見失うほど苦しまないで、

解放された、と正直、感じる方もいるだろう。

十分に学んでこの世での修行を終えたので、彼岸に旅立たれた、と、

悲しみを感じながらも、静かに見送る方もだって、きっといるだろう。

 

そう。

あなたがそれを、意識的に、自分にとっての

「不幸・苦しみ」

という形で、あえて捉えている面は、確かに少しは、あるのだと思える。

 

もちろん生、の範囲でも、いろいろ例は挙げられる。

人と違っていてはいけない『はずなのに』とか。

しかも、そうやって違っている場合、

いつも「自分がおかしい」のだと捉える人もいる。

 

比べる際、常に自分を下に置く……。

自分で自分を『その位置に置く習慣』をつけているにもかかわらず、

さらに『そう、私はこんなふうに劣っている』のだ、とだけ、

いつも捉え続けて苦しんだり。

 

自分を一段下、さらに下、にいつも置くのは、謙遜のときも、ま、あるけどね、

謙虚、じゃないのかも。

ここでわざと、極端に言葉で表すなら、

あなたのそれは、謙虚じゃなくて、怯えや、逃げや、卑屈感、かも。

 

こう書くと、また

ああ、だから私はダメなんだ、って、さらに

自分を見下げる人もいるかな?

ちゃんとわかったうえでなら、

別に逃げても、おびえてても、いいのに。

それが当然のときも、いっぱいあるのに。

本当にそういうのこそが、習慣的な、苦しい思考パターン……ですよ?

 

たとえばすべて、自分がダメな理由、証拠として、使っていく。

自分を苦しめるほうへ、自分で、追い込んでいく。

 

だって、やめられないんだもの、という方へ。

では、それをやめたら、実際、何が起こり始めますか?

新しく自分の中に起こっていくだろう何か。

そっちを心配して、おびえていませんか?

井の中の蛙になってしまうもの、とか、どうせうまくいかないのに、とか。

 

うまくいかないときの備えとして、

自分に対して通用しそうな言い訳をくっつけて。

試していないなら、まだ、未来は決まっていないのですよ?

 

清水の舞台から飛び降りろ、バンジージャンプしろ、という話ではなく。

ただ、自分が、なぜそう捉えて、おびえの中にとどまることを

自分で、自分のために「選択している」のかを、いつか、知ってほしい。

 

なぜうまくいかないのか、ではなく。

なぜうまくいかない、と、

つい、いつも、

自分自身が「捉えている」のか。

これ、決して決して! 責めてるわけじゃないよ。

苦しい形で捉える「クセ」が出来上がっているだけで、

そのクセ、は、自分自身で外していけるのよ。

やってみたことのない視点だと、

意味がすぐにはわからない人もいるだろうけれど。

 

うまくいかない点だけをいろいろ、見つめている、

うまくいくはずがないと、自分で思っている、

うまくいけたらいいけど、そんなの、どうすればいいか、わからないし。

そこでとどまり続ける理由は、何?

 

たとえば、ね。

なんとか苦労してでも「得たいもの、得るつもりのもの」を見つめるのでなく、

いつの間にか『苦労するという行為』そのものを、

目的にしているから、だったりしないかな。

苦労しているときだけ、自分を、認めてあげられるから……。

 

そんなワナのような回路に陥っているとすれば、

苦労して得ても「なんか違う……」になったり、

「思ったより大したことなかった」「大きくは、変わらない」

になりやすいかも。

 

こんなふうに、視点を変えてみると、見え方が変わる、

それを一番端的に体験するために、と、あるブロガーさんが、

「テーブルの上にもし、立ってみたら、知らない景色、見えるよね、実際に!

今まで、見たことない位置、高さだよね、実際に!

同じもの見てるのに、見え方が違う!

そういうふうに、心のなかでも見方を切り替えていいんだよ!」

って、感じで、視点の変え方について、ブログに書いたのですよ。

テーブルの上に立つメソッド

君はヒーロー

 

そうしたら、それを実践されたらしい方が

「何も変わらない」と質問されてきたので、

それについても、このブロガーさんは、お返事を書かれた。

『変わり者の夢』

 

伝わるかな。この、本当にテーブルに立った方、変わる魔法を求めておられるよね。

その経験で自分が何を「きっかけとして」使っていくか、

そこ「からの、次」を「自分でやっていくため」の、たとえ話なのに。

魔法じゃない! 変わらない! と、嘆いてしまう。

せっかく実際にやってるのに、その経験を生かして、

次に実際に、自分の視点を変えてみる練習までは、しない。

もったいないよね……(つд`)

 

ということで、さらにあと2つほど、ブログをリンクしておきます。

皆さん、それぞれ、見つめるものの切り替え方の話。

どなたかの「表現」が、それぞれ必要な方に、届きますように。

病気であることと「幸せ」との関係

◆ウソの上塗り。ウソの上塗り。ウソの上塗り。隠しているから しんどい だけ。

 

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