今日は、ここ数日で私が読んで、自分内でつながったブログのリンクも
ご紹介しながら、書いてみます。
自分が記事を書き始めたら、ときどきこうして、
似たテーマで違う切り口の話が、どかどか見つかるときがあるのよね……。
ありがたい限りです。
さて、まず……。
なぜ私はうまくいかないのか。
この視点の内側で、ずっとぐるぐるされている方への、質問です。
今、あなたは、何を、うまくいってない、と捉えているでしょうか。
それ以外のことも、すべて、文句なしに不幸のどん底で、
心も身体も人間関係も仕事も勉強もお金も
家族も身の回りの環境も立場も
住環境も食環境も服装も持ちものも
ありとあらゆることが、まったく、うまくいっていないでしょうか。
本当の本当に、不幸のどん底中のどん底、
「どんどん底」と言えるくらいの状態であるなら、
ブログを読めることはないと思えるので、
まあ、そこまでどんどん底ではないはずかな、と、私には思える次第。
でもあなたは、ひとつの不幸を見つめる。
他のものは、大したことのない、当たり前の存在として扱い、
ありがたさも感じることなく享受して、そのまま、放置している……かもしれない。
その当たり前が当たり前じゃないことは、痛いほど痛感したのにね、
たった4年ほど前に。
でも、今や、当たり前。
ま、そんな道徳的説教をかましたくて書いてるわけではなくて、
そういう例も挙げられるくらい、普通に享受しているものはあるはず。
今のあなたの、その『不幸』。
問題を、その形、あなたの『不幸』として
捉えているのは、自分自身が選択したことであるということは、
もう、少しは、理解してるよね。
あえて厳しい例を挙げてみると、
たとえば身近な人が亡くなっても、自分を見失うほど苦しまないで、
解放された、と正直、感じる方もいるだろう。
十分に学んでこの世での修行を終えたので、彼岸に旅立たれた、と、
悲しみを感じながらも、静かに見送る方もだって、きっといるだろう。
そう。
あなたがそれを、意識的に、自分にとっての
「不幸・苦しみ」
という形で、あえて捉えている面は、確かに少しは、あるのだと思える。
もちろん生、の範囲でも、いろいろ例は挙げられる。
人と違っていてはいけない『はずなのに』とか。
しかも、そうやって違っている場合、
いつも「自分がおかしい」のだと捉える人もいる。
比べる際、常に自分を下に置く……。
自分で自分を『その位置に置く習慣』をつけているにもかかわらず、
さらに『そう、私はこんなふうに劣っている』のだ、とだけ、
いつも捉え続けて苦しんだり。
自分を一段下、さらに下、にいつも置くのは、謙遜のときも、ま、あるけどね、
謙虚、じゃないのかも。
ここでわざと、極端に言葉で表すなら、
あなたのそれは、謙虚じゃなくて、怯えや、逃げや、卑屈感、かも。
こう書くと、また
ああ、だから私はダメなんだ、って、さらに
自分を見下げる人もいるかな?
ちゃんとわかったうえでなら、
別に逃げても、おびえてても、いいのに。
それが当然のときも、いっぱいあるのに。
本当にそういうのこそが、習慣的な、苦しい思考パターン……ですよ?
たとえばすべて、自分がダメな理由、証拠として、使っていく。
自分を苦しめるほうへ、自分で、追い込んでいく。
だって、やめられないんだもの、という方へ。
では、それをやめたら、実際、何が起こり始めますか?
新しく自分の中に起こっていくだろう何か。
そっちを心配して、おびえていませんか?
井の中の蛙になってしまうもの、とか、どうせうまくいかないのに、とか。
うまくいかないときの備えとして、
自分に対して通用しそうな言い訳をくっつけて。
試していないなら、まだ、未来は決まっていないのですよ?
清水の舞台から飛び降りろ、バンジージャンプしろ、という話ではなく。
ただ、自分が、なぜそう捉えて、おびえの中にとどまることを
自分で、自分のために「選択している」のかを、いつか、知ってほしい。
なぜうまくいかないのか、ではなく。
なぜうまくいかない、と、
つい、いつも、
自分自身が「捉えている」のか。
これ、決して決して! 責めてるわけじゃないよ。
苦しい形で捉える「クセ」が出来上がっているだけで、
そのクセ、は、自分自身で外していけるのよ。
やってみたことのない視点だと、
意味がすぐにはわからない人もいるだろうけれど。
うまくいかない点だけをいろいろ、見つめている、
うまくいくはずがないと、自分で思っている、
うまくいけたらいいけど、そんなの、どうすればいいか、わからないし。
そこでとどまり続ける理由は、何?
たとえば、ね。
なんとか苦労してでも「得たいもの、得るつもりのもの」を見つめるのでなく、
いつの間にか『苦労するという行為』そのものを、
目的にしているから、だったりしないかな。
苦労しているときだけ、自分を、認めてあげられるから……。
そんなワナのような回路に陥っているとすれば、
苦労して得ても「なんか違う……」になったり、
「思ったより大したことなかった」「大きくは、変わらない」
になりやすいかも。
こんなふうに、視点を変えてみると、見え方が変わる、
それを一番端的に体験するために、と、あるブロガーさんが、
「テーブルの上にもし、立ってみたら、知らない景色、見えるよね、実際に!
今まで、見たことない位置、高さだよね、実際に!
同じもの見てるのに、見え方が違う!
そういうふうに、心のなかでも見方を切り替えていいんだよ!」
って、感じで、視点の変え方について、ブログに書いたのですよ。
そうしたら、それを実践されたらしい方が
「何も変わらない」と質問されてきたので、
それについても、このブロガーさんは、お返事を書かれた。
伝わるかな。この、本当にテーブルに立った方、変わる魔法を求めておられるよね。
その経験で自分が何を「きっかけとして」使っていくか、
そこ「からの、次」を「自分でやっていくため」の、たとえ話なのに。
魔法じゃない! 変わらない! と、嘆いてしまう。
せっかく実際にやってるのに、その経験を生かして、
次に実際に、自分の視点を変えてみる練習までは、しない。
もったいないよね……(つд`)
ということで、さらにあと2つほど、ブログをリンクしておきます。
皆さん、それぞれ、見つめるものの切り替え方の話。
どなたかの「表現」が、それぞれ必要な方に、届きますように。
◎◆ウソの上塗り。ウソの上塗り。ウソの上塗り。隠しているから しんどい だけ。
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