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ぐるぐる、してるなら

今さらのように、心屋さんの『「めんどくさい女」から卒業する方法』

古本屋さんで買って(ごめんなさい……)読む。

最初のほうでいきなり、私が夏に受けたセッションの「無限&地獄ループ」の話

近いことが書かれていて、しかも心屋さんもそのループ状態を

矢印を使い、説明されていて、ああ、この方も本当に

ぐるぐるされてたんだな……と思えた。

共感と同時に、思いつくイメージが地獄で共通していたことに、少し笑えた。

 

これ、まだ全部を読んだわけではないけれど、別に女性に限った本ではなく、

自信がなくて、とか、「このテのパターンの問題が起こると

なんかうまくいかなくて、どうしたらいいかわからないのよね」という感じで、

何らかの状況に煮詰まり、それを繰り返したりもする人向けなんだろうと思える。

もちろん、鬱の人も含め……。

 

で、この本におけるヒントは「自分を客観視できるか」ということに

たぶん、集約されるのだろうけれど、

それを「責任」と強く捉え、今はまだそれを引き受けたくないわ、と思える人は、

この本を読んだら「何を言ってるんだよ」怒ったり、

「そんなことできるわけがない」と投げやりになったり、

「でも自分は……」とあきらめたりするのじゃないだろうか。

男女に関わらず、そう感じてしまい、読めない人もいるんじゃないかな。

 

要するに、自分の「あり方」を自分で決める、そういうのが怖いとか、

考え方としてキライ、あるいはわからない、と単純に捉えているのだと思う。

 

でも本当は、別に怖くはないことなのだ。

確かに最初は「勇気」のような感覚、もしかしたら人によっては

そういうことに近いような「切り替えのためのキッカケ」を、

自分で、自分のために作ろうとする努力は要るだろう。

努力というか、割り切りというか、開き直りというか……そういう感じのもの。

 

それをしたくない、見たくないから、自分の代わりに他人を支えてみようとしたり、

自分ではなく他者のほうを変えてみようとしたりすることにも、

つながるのかもしれない。

 

自分のあり方を変える代わりに、他人を何らかの形で意識し、

そっちのほうで何かを変えようとし、色々な理由にもして、生きていく。

それが正反対の方向に向けば「他人の拒否」にもなる。

要は、近づくか離れるか、とにかく他者との関係性のなかで、

おもに自分を何とかするほうへ注目するやり方。

本当は、自分に近づくことが望ましいのに、

そこは見たくないから……または、

まだ自分で、そこを見られないから。

 

でも、あくまで他者は、気づきのヒントやキッカケになるだけで、

自分のことをどう捉えるかは、自分で決められるし、決めていかないと実際、ツライ。

本来、その部分は、他者を通じてどうこうしようとか、できるものではないから……。

 

しかも、いったん、自分を見つめる目を切り替え始めてみたらわかるけれど、

その感覚をつかめば、切り替えていくほうが、

どんどん自分で自分をラクにしていけるし、

気づくたびに笑えるし、楽しめるし、明るくなれる。

 

その視点から逃げたままでいることが、

決して「悪い」わけでもないけれど(別にそんなこと、

気づくことなく生きていく人は世の中にたくさんいる気がする)、

ただ、人間関係では自分対他人、自分対自分、の面で、

疲れたり苦労することがどうしても増えるんだろうな、と。

 

で、その「苦しさ」というのは、まさに気づきのヒントであって、

自分でラクにもできるんだよー、ということを、

カウンセラーの方たちは、仕事として、行っているんだろうと思える。

 

せっかく今、ヒントを見つけるチャンスが訪れているのだから、

それを使わないのは正直、もったいないような気がする。

どんなにダメな自分でも、自分のことを「変に曲解することなく」

認められるというのは、とても気持ちいいことなのだから。

 

いじけたり、すねたり、自己嫌悪に陥ったりする一方で、

同時に意固地でもある、他者とのよい関係性に執着もする。

そんな苦しみ方……自分でわざわざ、人や社会や自分自身に

求めながら背を向けるようなことは、

まったく必要ないんですよ、という話なのだ。

だって本当にそうだから。

お気楽で泰平、のほほん、ウフフな面を持てるようになれれば、それでいいから。

 

表面的にそうなるのでなく、また、それを演じるのでもなく、

いい加減なダメ人間になるのでもなく、

本質的に、そういう部分を持つ人間で「あっていい」という話。

 

泰平な部分は、平穏や穏和、につながるし、それはいざ問題が起きたときに

必ず自分自身の冷静さにもつながる。

静かに、ぶれないで、ラクにいられる。

それってものすごく強い人のように、他人から見たら、思えるよね?

でも本人は「自分の弱さを知ってて、ゆるしてるだけ」なのよ。

それ以外のコツって、とくにいらないかも、とさえ思える。

 

今、世界的に有名な、そういうお方……と言えば、

私がまっ先に思い浮かべるのはダライ・ラマ猊下(げいか)で、

まあ、マザー・テレサもそうだけれど、

宗教家の方達は、まさに心の修業を自分に課すことになっていくから、

自然に、そうした姿勢が「目立つ」ことになるのだと思う。

 

でも、そこまで達観しなくても、自分をラクにする範囲で、いいのだとも思える。

それらはすべて、自分の弱さを認める、その責任を「あくまでゆるく、力まずに」

「良し悪しの判断でないところ」で受け入れる、引き受けることなんだろう、と。

 

これ、わかり始めるまでは、たとえば、

いい加減な人とか、理想でない自分になる、などとしか思えなくて、

そんなふうになりたくない、ダメになりたくない、という拒否感も

強いと思うけれど……。それがもうそもそも、実は違うのだ。

 

今すでに、自分のことをダメだと捉えているのだから、

それをそのまま、うまく「使う」ほうが、本当はラクなんだよー、という話。

 

抽象論ではあるけれど、実際の練習は「力んで意識し、

努力しまくる」ようなことでない。

ドキドキすることは最初に多少、あってもね。

本当に全然違う。ベクトル、向いてる方向が違うのだ、それ。

二次元レベルで右か左か、前か後ろか、みたいなことでなく、

もっと違うところ……斜め上くらいから、離れて自分のことを見つめるような感覚。

 

ぐるぐるしている人はある意味、視点が二次元になっているのだと思ってほしいし、

できるようになったタイミングで「立体化」してほしい……自分自身のために。

そうすればまさに、自分を自分で太陽のように照らし、

静かに穏やかに、優しく柔らかく光り輝かせることが、できるようになるのだから。

そのユルさ、ラクさ加減って、練習すればするほど、心地よく感じていけるよ。

 

2014_10_09

 

まずは、他者に対してであれ、自分に対してであれ、

こうならなければいけないはずなのに、なぜうまくいかない? 

またはやってくれないの? とかいう、その思い込み自体を

自分で丁寧に見つめてみることから、始めてもらえたらと思う。

 

だってそうに決まってるじゃない! という、その「そうに……」の内容を、

あなたはいつ、なぜ「そう決めた」のだろう? というところから。

世間の常識とか、他者の目や評価などが大前提になって

ただ「決めつけ」てはいないかな? 本当にそういうこと、やってないかな?

それが苦しいのは、自分の感覚には合っていないからじゃない?

では、その「自分の感覚」って、どんなものだろう?

 

……そんなふうに、捉え直して、見つめてみてほしい。

誰かの本や言葉が、あなたにとってよいキッカケになることを祈ります。

 

 

「なぜ私『ばっかり』」のときには

なぜ、私ばっかり……という言葉が、浮かぶのであれば。

 

そのとき、まず考えてみてもいいのは

なぜ 「私がそう受け止めることを選んでいるのか」

なぜ「私がそこにいることを選んでいるのか」

じゃないかな、と思う。

相手の、誰かの、何かのせい、という視点だけでなく。

 

「ばっかり」という言葉を使う段階で、

他者と比較しているし

自分が被害者「のみ」の感覚になっているかも。

なので少し、視点を変えてみてもいいように思える。

 

では……。

逆に、「加害」的なことは、一切していない?

自分の受け止め方が、ある一方向のみに、すでに偏っていない?

その状況、つまりそこにいることを、選択したのはいつ、どんな理由から?

 

上記3つをじっくり考慮しても(紙に書いてみることをオススメする)、

まだ「相手(誰か、何か)が悪い」なら(もちろんそういうことだってありえる)

じゃあ次にどうしたら、その状況、その場所から離れられるか、を考えられる?

 

離れたらどうなるか、そのメリット、デメリット。

「怖い」気持ちも含めての、自分の、今、その状況にいる「選択理由」。

 

その「怖い」は克服できるか。

「今はいったん、仕方ない」とデメリットよりメリットのほうをとるのか。

 

そもそも、相手がそうやってきた理由、あるいは状況がそうなった理由は、

「自分のせい」じゃなければ、ほかにどんなことが考えられるか。

相手の問題を、自分が代わりに解決しようとしていないか。

 

相手を変えたい、または比較して、不満を言い続ける時間があるなら、

その間にやれることも、いっぱいあると思える。

相手を変えるなら、自分もまた「変わる」覚悟が必要なときだってある。

 

私は何も変えたくないけど、

あなたは変わってもらわないと。

 

もし万が一、これをお互いに押し付け合いするのであれば、

相手もあなたも「同じレベル」、

この表現使ってごめんね、もしかしたら「同じ穴のムジナ」かもしれない。

誰か、が対象であるのなら、

なぜ、そんなふうに「相手と同じ土俵」で戦う必要があるのだろう……?

 

そうしたこと自体を、まず、悔しいと感じてもらえれば……と、願う。

あなたは、あなた自身についての『気づき』のきっかけにも、

きっとそれを、使えるはずだから。

気持ちを変える前にまず何より、気持ちを落ち着かせることのほうが

大事な時期だって、あるからね。

 

どうか、いつか新たな「別の視点から」の一歩を、踏み出せていけますように……。

 

2014_09_28

Photo by Photy’s Free Photo

 

認めて欲しいんだよ、っていう気持ちは……

いろいろな形で、現れるのだな、と思う。

自己憐憫(れんびん)、他者への過剰関与、支配、

自己攻撃、他者攻撃、慰めの訴求、憂さ晴らし、恨み返し、……etc.

表面的に「私は あなたより 優れている」とか

「私は 他人より不幸だ」という思いが

「心のなかに現れる」ことがある、それはまあ、

人間関係のうえで、ときに起こりうることだと思う。

ただ、それを「実際に示し、他者に証明していこうとする段階」にまで至ると、

それは、他人との比較でしか自分を認められないんだ、

自分のことを本当は自分で嫌っているんだ、ってことを、

実は周囲に行動で表明していることになる。

競技などのある条件は除くとして、それ以外で

他者との比較というその感情を、具体的に表そうとするとき、

弱さ(不幸)を示そうが、強さ(能力)を示そうが、

それは「自分を認めていない」ことを態度に出しているという

同じ根っこへとつながっていくのだ。

そして、そこを何も解決しないままで放置し続けるのは、本当に苦しい。

なぜなら誰も、あなたの「代わり」に、

まるであなた自身であるかのように、

あなたを認めてあげることはできないから。

他者は、あなたに、真摯な思いから「素晴らしい」とは伝えられる。

本当に共感したうえで「たいへんなんですね」という言葉も使うことができる。

でも、誰かがあなた自身の代わりになろうとすれば、

それは「依存」にしかつながらない。

そして「依存」は、するほうも、されるほうもやがて苦しくなり、

結局いずれ、関係性が破綻するか、何かが壊れてしまう。

本人が気づかなくても、体調に現れたり、ね。

前にも書いたことがあるが、依存が起こっている関係において、

「常に私のことを認めろ」と言われ続け、それに従ってきた人の耳が、

数十年後、いきなり難聴になっていってしまった事例を、

私は2度、目の当たりにしたことがある。

どちらもまず、その強要する相手が「並んで歩くときにいる側」の

耳から難聴が始まり、いったんその症状が現れ始めたら

あっという間に加速して、やがて反対側の耳にも、影響が出始めた。

で、お二人ともそれぞれ医師から「ストレス」と診断され、

また、見事にお二人とも、強要し続けてきた相手側から

「私のせいだって医者が言うけど、なんだそれ?

そんなヘンな診断下すなんて」などと言われていた。

お二人ともそのとき、うつむいて黙っておられた。

こんな事例を2回も見たくなかったけれどね……。

たまたま、プライベートと仕事上の関係で2人、知ってしまい、

ああ、身体で拒否を始めてしまったんだな……と、思えた。

そんなふうにね、何か、ずれていってしまうのだ。

そして、自分の子どもに対しての場合は、

「頼る形」、「あるいは支配する形」のどちらであっても、

その関係を最初に「強要する」のは、

大人の側からになることが多いだろうと思える……。

そうしたことを知った私は、

だからこそもう、依存につながるかもしれない

「かわいそうごっこ」には応じられない。

たとえそれが身内であっても「できない」のだ。

求められたとしても、相手の代わりになって認めてあげられない。

相手との関係性がどんなに深くても、それゆえに

真摯にお詫びすることはあっても、

できない、と、はっきり伝えるだろう。

もし、それを自分が示していることに気づいたら、

そのときどうか、他者を「鏡」に使ってほしい。

なぜ自分がそれをそんなふうに示したいと感じるのか、

そのとき他者に、何を求めているのか、その「根っこ」をみる勇気を

いつか持ってほしいと、心から願う。

他者への「表明」は結局、自分をさらに深く傷つけることになる。

そして自分を自分で認められないという思いは、

これまででいちばん苦しいことだったと、

とてつもなく強いおびえにつながる苦しみであったと、

今の私には、思えているから。

他者や立場など外付けの条件による「納得」ではなく

「内側から起こる」思い、

誰もが内側で、すでに持っている

「自分はどんなときも、自分をそのまま、何の理由もなく認めていいのだ」

という思いに、いつか、気づかれますように……。