カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

ただそれを眺める

うまくいかない自分を否定する。

そして次に、否定してしまう自分をさらに嫌ったりする。

これは、延々と繰り返されるループになりうることを、

気づいているはずだとは思う。

ネガティブな気分になったときに

もう、どうしてよ! ポジティブに考えたいのに!

と怒ってみたり

なぜ私っていつも、こんな感情ばっかり……(・_・、)

と落ち込み続けても。

そうすることでポジティブにはなれないし

(泣いてスッキリできる程度ならいいけれど)

逆にネガティブ気分を増長させるだけになる。

過去の記事で何度か書いているが、

ネガティブ感情自体は

「のちのち、良いほうにも使えること」だから

決して、ワルモノ一辺倒の、悪の存在ではないのだ。

あなたが、そう捉えてそう使ってしまうから

『悪の権化』みたいなものになるだけで。

普通に考えても、落ち込んでいるときは

一気に気分を好転させるのは難しいし、

落ち込むことに意識を集中させやすい、鬱の

『脳みそ誤作動中』の方は、なおさら

「落ち込みやすい思考回路」に、もう、もともと、

なってしまっていることを、もっと冷静に、認めてほしい。

それ自体は、いいも悪いもないのだ。

ただ、ネガティブなことを考え続けるのは「疲れる」よね。

疲れるから、やめる。

それが正解でも不正解でもない。そんな判断すら、やめる。

ああ、また悪い方向にばかり考える自分が現れてきたな……。

でも、これ、ぐるぐるするだけだから

今はやめよう……。脳みそも身体も、気持ちも、

わざわざ自分で疲れさせることないや。

そういう、「距離を置く」練習をしてほしいのだ。

鬱の脳みその方はとくに。

冷静に考えても、今すぐには解決しないし

今すぐには自分が魔法のように変わらない。

そんな方法や手段があったら、世の中の人全員が

とっくに、ポジティブ思考で成功できている!

誰もそんなもの、持ってないのだ。

感情に波があるのは当たり前だし

身体の疲れ具合によっては気分が落ち込みやすくなるし

上司に怒られた日は落ち込んだり気分が悪くなるし

寒ければ体温も下がってそれだけで暗くなることもある。

そのことに善悪の判断をつけても、本当に、意味がないのである。

そういう自分がいても「いい」と思えること。

それもまた、普通のことなんだと思えること。

落ち込まない人間なんて、いないんだということ。

自分が冷静でいられるようなら、ただその感情を眺めてみてもいいのだ。

どんなきっかけで自分がそう捉え始めるようになったか、へ、

記憶が結びつくこともあり、落ち着いているときであれば、

そこからさらにひらめいて、

自分をゆるめられるヒントが見つかることだってある。

「ああ、これだったかあ……」って。

だから自分にその感情が湧くこと自体は

「今はアリ、と許可」する練習も必要なのだ。

とくに鬱の脳みその人は、この許可を練習したほうがよいと思える。

明るいときも暗いときも、

あなたは別に「ダメ」な人ではない。

遠くから見つめ「いつも、常に、ありのままの、

そのままの自分でいていい」と知る練習が、

これまで少なかっただけである。

怖いのは、ポジティブ思考にしたいがあまりに

自己否定を別形態に発展させていくこと。

具体的にはたとえば、

自分を悲劇の主人公扱いして

「カワイソウ、カワイソウ(>_<)」って思い続けることもそれに当たる。

自分にとっての「不幸な状況」が続いたとき、

「あなたには、この気持ちなんかわからない!」と

だんだん何度も叫んでしまう(思うようになる)状況が、それだったりする。

(親しい人に思わず言い放つことはあっても、

それを何度も何度も、いろいろな人に対して思い続けたり

叫びを繰り返したりすることは、まあ、普通はそんなに起こらない)。

これに陥ると、他者から、あらゆる点でなぐさめてもらいたくなったり

ほめてほしくなったり、理解してほしいと強要することになったりして、

たいてい、そこで人間関係がうまくいかなくなる。

何より「カワイソウ」の裏には必ず、

「立ち直れない自分」「ダメな自分」「何かの点で劣っている自分」を

固定設定せざるを得ない(それが前提でないと「カワイソウ」の世界は成立しない)。

すると調子のいいときだけ自分を「エライぞ♪」とか「頑張ってるよ!」と

ほめてあげられたとしても、もともと否定が必要であるがゆえに

常に自分をおとしめる視点へ立ち戻ることになり、

「自己否定の自分イジメ」から抜け出せなくなる無限ループにはまる。

これは本当に、ずっと苦しいだろうと思う。

欧米では犯罪にまで発展したというのも、なんとなくうなずける。

そうではなく、気持ちを切り替えらえるようなこと。

暖かい部屋に入ってほかほかのスープを飲んで

ああ、温かいなあ、って感じて、自分をほっこりさせるだけでも

そのネガティブ思考はまずいったん、中断できるよね。

そういう単純なことでいいのだ。

そういう「切り替える優しさ」、自分へつらく当たらず、

他者への罵倒も長引かせず、

ただ「今の瞬間から、自分に優しくする方法」のほうを、

もっともっと、練習してもらえたら、と思う。

寒い今の時期は、温かい温度のものを使えて

なおさら効果的なので、いろいろ試してほしい。

物理的に身体をゆるめられれば、心もゆるめられるのだ。

「憎む、恨む」という気持ちを自分のためにどう使うか ~後編~

そして、後悔、についても同じです。

あとから『悔やむ』。

事態は起こったあとですから、改善できることもあれば、

改善できないこともある。

でも、悔やむ、という感情、その行為は、

「次はやらないよう、気をつけて練習し、また、ほかのものへ活かす」

ことへつなげられます。

これもまた、ひとつの究極な例を申し上げてみましょうか。

私は、仕事仲間であり、仕事上では「先輩」にも当たる人の心の苦しみを、

放置しました。

お世話になった仲間が、鬱という病で苦しんでいること自体は知りつつ、

しかも自分だって同時期に、同じような理由から鬱になって、

その人の心情はある意味、私が一番深く身近に感じられ、

一番よく、その苦しみに関わっていけることができたのに、

私は自分が立ち直ることに必死で、相手の苦しさに触れませんでした。

自分のことを何とかしなくちゃ。それを言い訳にして。

たまに仕事でお会いすることはあったので、「どうですか? だいじょうぶですか?」と

ランチなどで時間をとって尋ね、少しずつでも話し合うことはもちろん可能だったし、

また、最近、疲れておられるのかも、ということは気づいていたのに。

再入院したことさえ気づけないくらい、見ないようにしていました。

そして、その人は自死を選択されました。

仕事の面でたくさんお世話になり、学ばせていただけたのに、

私はご恩返しするどころか、その方が大変なときに、自分のことにかまけました。

もう二度と、お会いすることはかないません。

私は、もう二度と、何もできません。

初めてお墓に伺ったときは、泣いてお詫びを述べること以外、できませんでした。

この「その方に対しては何もできない」という気持ち自体は、

ある意味、後悔のまま、止まっているのだと思います。

そして、その方の死があったことにより、

私は逆に「死ねない」立場に変わりました。

そうして、今、生かされています。

自分が再び、ご飯を食べ、眠れ、感動その他を味わい、

日々、ありがたさを感じて生かされている今の状態には、

その方の「死」が、きっかけのひとつとして、存在しています。

だから私は、「ひどい後悔」をやめました。残ってはいるけれど、

それを今後は「反省」とすることに決めました。

それがあった、起こったことにより、ですが。

なぜかはわからないけれど、私は「死を選択できない」方向へ導かれ、

結果として生かされた。そう自分で、捉えることができるようになった。

そしてその後、生かされて「今ある」ことの恩返しをしたいと願うようになり、

現在、このブログがあります。

……取り返しのつかないもの、も、どこかで、

何かの方向へは、変えられるのだと、

今の私には、感じられています。

もし、相手を(あるいは後悔で自分を)恨む、憎む、という感情自体が、

自分を苦しめているのであれば。

「ゆるす」云々の前にまず、自分がラクになるためにどうするか、を

意識してみるのは、果たして絶対、ダメなこと、でしょうか?

ただ素直に、自分がその苦しい気持ちを手放すための工夫を、

してみてもいいのではないでしょうか?

それをせず、相手を(自分を)恨み続け、

相手に、何かに「勝たなければ」いけない、

そのために苦しみ抜かなくてはいけないのは、なぜでしょうか?

罰、でしょうか?

その罰とは、他の誰かのため、でしょうか?

その「他の誰か」は、本当に、本当にその方法だけを、

あなたにそれのみをすることを、この先もずっと、願っているでしょうか?

その方法であってもよいけれど、もしかして

その方法でなくても、本当は、よいのではないでしょうか?

難しいことは、承知しています。

私もまだ、先ほどお伝えしたように「後悔」という部分は、

完全には手放せていません。

手放さずに、自分を変える「基本の指針」にしているのかもしれません。

あれがあったからこそ、自分で何かを変えていくのだ、という、

自分に対する注意点のようなもの。

そこの部分でいつか、私ももっと、こだわりが抜けたとき、

本当はさらに、ラクに、幸せになれるのかもしれませんが、

今は、それがあることを、自分にゆるしています。

そして、そうした想いがあることを、今はまだ

自分で「ありがたさ」を感じるきっかけとしても、使っています。

……長くなってしまいましたが、何か、ヒントになれば幸いです。

もし、変えたいのであれば。

幸せになっていきたい、と思えるならば。

いろいろ求めて、探して、見つけた視点を使ってみてください。

最後に、心屋センセのブログと、武田さんのブログを、

感謝の意も込め、リンク張っておきます。

・心屋仁之助さん
 『心が風になる』

・武田双雲さん(「よりよく生きる知恵」「悩み相談」のテーマ記事は、
 とくに良いです!)
 『書の力』

「憎む、恨む」という気持ちを自分のためにどう使うか ~前編~

今日の話は……まだ、受け止められない方もいらっしゃるかもしれません。

そんな予感もしつつ、書いてみたいと思います。

まず、少し本題から離れるけれど、「幸せ」を得るためのアプローチについて。

私が『アメーバなう』でよくつぶやかせてもらっている、

カウンセラーの心屋仁之介さんと、書道家の武田双雲さんの話から、

始めさせていただきます。

ちなみに私、どちらの方にもお会いしたことはないですし、

学びの会やら講演会にも、とくに参加したことはないです。すみません(^_^;)

というのも、この方々については私、

このブログを始められるようになってから知ることができたわけでして、

私は、お二人がおっしゃってくださっていることを、ありがたいことに

鬱以降、すでに他の方々や本などからたくさん受け取れていたからです。

なので今のところは、自分がさらにラクになるための気づきとして、

ブログを拝読させていただいている次第です。

さて。

このお二人は、「幸せになる方法」について、よく書かれています。

心屋センセは、『black』と自らミドルネームを

つけていらっしゃるだけのことはあって、率直で、ときに厳しいです。

「別に嫌われてもいいから届けたい」という強い愛の形。

双雲さんのほうは「Happyになるための視点変換の工夫」を、

素直に何度も語りかけられる柔らかい思いはからい、親愛、というふうに感じます。

どちらのアプローチも、ステキだな、と思えます。

私自身は「評価を気にする成功Love型」ゆえに(笑)、心屋センセのような強い手法は

たぶんこの先も、使えませんがσ(^◇^;)

で、どちらの方も、「自分で変える」ということを、力説されています。

そのためのポイントやヒントを、大量発信されている。

そしてとにかく先にまず、やってみなさい、と。

この際に、とくに引っかかりを感じられるのが、

「誰かを恨んでいる、憎んでいる」人のようです。

誰か、というのが、「他者」であることもあれば「自分自身」のこともあります。

もしかしてネガティブのなかでもとくに、キツイ、黒い、重い感情かもしれません。

なぜなら、ゆるしたくない、からです。

どう考えても、何度考えても、「ゆるせない」。

その相手を、あるいは自分を。

そこにあるのは、たとえばものすごい「悔しさ」なのかもしれません。

あるいはどうしようもない「後悔」。

で、私はあえて、「それを自分のために、視点変換して上手に使いませんか?」と

今回、言ってみます(過去にも何度か言っていますが、今回はとくにはっきり)。

「自分を自分で幸せにする」ための、大きなヒントが、そのなかに隠れているからです。

そして「この先、一生、幸せになってはいけない人」は、いない、からです。

相手の幸せ……云々のことではないです。

そこではなく、素直に『自分自身の幸せ』の話です。

先ほど、私は、「ゆるせない」と書きました。

あと「悔しさ」「後悔」も。

これ、実はある意味で、受け身型の感情表現です。受動的。

なので表現上は、こう言い換えられます。

「ゆるせない」

→「ゆるすということを、自分が選択していない」

「悔しさ」

→「後悔に『怒り』を加えた形。その形で、自分が感情を抱え続ける、と
 自分で決めている」

「ものすごい後悔」

→「ひたすら悔やむ、という形のまま、自分のなかにとどめることを、
 自分が許可している」

……あら、結構、厳しい表現になったかも?(^_^;)

要は、本当は、「どうしようもない」もの、受け身的、不可避なものではない、

と言いたいわけです。一時的にはそう感じられても、絶対的にそうではない。

その感情は、あなたの内側にあるものなので、

本当は、あなたが、変えられます。

というか、たとえ周囲から気づきはもらえるとしても、

自分のなかの感情、受け止め方を変えるのは、あなたにしかできません。

だから、それならば、いいほうへ使ってみませんか、と。

ゆるすことは、負けではありません。

そして相手のことを思いやるから、「ゆるす」のではなく。

もちろん将来、そうなれたら、もっと自分が解放されて、ラクに、幸せになれますが、

今は、その一つ前の段階として

「相手のこと(あるいは自分のこと)をそんなふうに捉えていたら、

自分自身が苦しいだけ。

この先もずっと、自分にとっては苦しみが続くだけで、何の益もない。

だからこれからの自分のために、そう捉えること自体を、もうやめる、と“決める”」

はい、「○○のせい、云々」という思い“そのもの”を、

「もう考えない」ようにしていく、のです。

もちろん、すぐにスルッとできるわけではないでしょう。練習は必要。

でも決して、「ずっとこれからも、絶対できない」わけではないのです。

その究極の例のひとつが、光市母子殺人事件の、本村洋さんだろうと。

愛する家族を無慈悲に殺され、押し入れに放り込まれ……。

極刑を求める、としながらも、人が人を「殺して良い」という「判断」を

人間という存在はしていいのだろうか、というところまで悩み、考えられ。

Wikiペディアにはとくに書かれていないのですが、苦しまれた様子は

『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮文庫/¥578)

というノンフィクションなどを読めば、ご本人の心情の経緯として綴られています。

これは究極すぎる、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、

これであってさえ、なお、これからは「幸せを求める」ことを選ぶ、

そちらへ切り替えることはできるのだ、と。

ゆるす云々、というのではなく、もう、そこから自分が離れ、

これから先の自分の幸せ、『次を見つめることにする』という選択です。

そのほうが、よいこと、だから。自分にとって。

そうすることできっと、自分への自信も、いつか新たに生まれるのかも、と。

~後編へつづく~