カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

感謝を当たり前にする

うまくいってる部分には

目を背けて

当たり前のように享受して

うまくいってない部分にばっかり

気持ちを集中させて

あれがない

これがない

あれを持てない

これが足りない

常に常に常に 必ず

不安と不満と足りない不幸にだけ

目を向けてくらしていたら

そりゃあ 苦しいよね

生きてること は 苦しいよね

でもね 本当は

生かされてるんだよ

みんな 利己的に

己の利益だけで

動いてるんじゃない

交通ルールひとつとっても

利己的にやってたら

本当は 道も歩けない

そんなの当たり前 じゃないんだよ

あとはたとえば農業だって

畜産だって 会社だって

100% 自分の儲けのためだけで

やってるんじゃないしね

社会に役立ってない仕事なんて

ありえないから

何かと 人が あなたに

すでに協力してくれてきたから

あなたの今 がある

すでに 自分がもってるものに

受け取っているものに

最初に 感謝できないで

もってないものにだけ 集中して

なぜないのだ! と思っても

うん それ たぶん

なかなか手に入れにくいかもね と

思えることは多い

だってこの先

その人に協力したところで

自分の力 自分の手柄に

されるだけで

もっともっと 私の力に

感謝してちょうだい

お礼をちょうだい

見返りをちょうだい

満足させてちょうだい って

吸収ばっかり されそうで

お互いに 心を 喜びを

分かち合えそうにないと感じるから

あらゆることを 人と人は

協力しているのに

暗いことだけを感じる 考える

そして自分や 他人だけを責める

そんな脳の狂いも起こるよ

確かに それが生じてるとき 

悪いほうに ものごとが

見えるけれどさ

あなたを 助けてくれている

あなたに 協力してくれている

目の前の環境 というものには

まず普通に感謝しても 

いいと思えるんだ

目の前のことに 感謝できるなら

この先 何かがあるたびに

感謝できる習慣も つけられる

そうしたら 自分の手柄や実力

それだけじゃないことも

瞬時に理解できるようになって

「その出来事」が起こったこと

そのものに感謝できるようにもなる

そうなったら

吸収一方じゃなくなるから

周りの人も もっと協力してくれて

あなたからは感謝が返ってくるから

さらに近づいてきてくれて

いろいろ うまく回り始めると

そんなふうに思えるんだ

その当たり前は

きっと全然 当たり前じゃないよ

だからまずは眼前にある

一つひとつに 毎日

感謝する練習から

始めてみたらどうかな

しょっちゅうね それをやるの

そうすれば少なくとも

あれが これが って不足や不満を

考える時間も

減らしていけると思えるんだ

どうかな

この辺のことは

書道家の武田双雲さんも

毎日のように 言ってくれてるよ

もっとわかりやすいから

時々 読んでみたりして

習慣にできる練習をまず

やってみたらどうかな……

想像する力

とある方から 生きていく辛さを

どこまで想像しうるか という

ご質問をいただいた

先日 ここでの私の友の一人も

「自分の傷の深さは その人自身にしかわからない」

「その代わり 相手の気持ちをはかることはできる その想像力がある」

と語ってくれていた

今日の1本目の記事とリンクすることでもあり

そうした想像力について

自分を例に挙げ 語ってみたいと思う

私の場合で言えば

頑張らなくてはいけない思い込みに捕らわれ

頑張っていく目標 達成地点も

自分から延々とハードルを上げ続け

身体の不調のサインも無視して 鬱にはまった

このときの気持ちはブログを始めたときにも詳しく書いたけれど

死ぬのが怖いと心の奥底で感じつつ

役立たずは「死ぬしかない」ことは、自分の中で“決定”していて

そこからまったく抜け出せないまま休職期間の期限だけが終わりかけ

何も決められないまま 死の期限は近づいてきているようにも感じて

ただ毎日 おびえていた

その状態のなか 親しい友人が事故で急死した

頭が真っ白になって 通夜の席に駆けつけたら

祭壇に大きい 彼女の笑顔があって

いきなり大切な人が死ぬことのあまりの辛さと悲しさ その現実に

鬱の頭は耐えきれず 翌日 葬儀にも出られなかった

ここでもし 私がすぐ 自ら死んだら

通夜で泣き崩れていた他の友人たちが

私と同じように鬱にさえなるかもしれない

これほどダメな私が さらに周りに そんな迷惑をかける資格はないと感じ

休職明けで復帰するしかなかった

幸い会社は時短を長く認めてくれる体制であったため

まずは半年 様子をみようとしてくれた

でも私は 回復できるとはやはり思えず

細々生きる可能性と 死を両天秤にかけながら 息をひそめていた

その まさに半年後だった

会社の仕事で 皆と深く関わっていた人が

私と同じころ鬱になっていたのだが

そのころに再悪化 今度は入院となってしまい

病院で自死を選ばれた

結果として 仕事を再開していたことも 自死の原因のひとつとなった

その人は たくさんの人と関わっていたため

会社中の人間がパニックに陥ったように大混乱し

仕事は3日くらい皆 ストップしたようになり

上司は対応に追われ 私たちは後輩を慰めることしかできなかった

しかも復帰後 私は その人とたまたまお昼ご飯を食べたことがあり

そのとき「死の選択肢」が間近に現れたことを

お互いの驚きとして話し合ってもいた

そう 私は彼の希死念慮も知りながら

何も手助けできないまま 終わってしまったのだ

その人への 申し訳なさ いたらなさ 罪悪感 悲しみ いなくなった辛さ

さらには社内にいる他の人の悲しみ 死への恐怖心

自死すると こんなことが起こる と

ある意味 目の前で 実例を見せられたようにも感じた

それでまた 自分の死からは いったん遠ざかるしかなかった

死にたい 死ななくちゃいけない 生きているだけで邪魔なのにと 感じる私が

なぜ 次々と こんな経験をするのか

訳がわからず ただこれでもう 1~2年は生きなければいけないのか

どうしよう と 思っていた

そして 1年半後 私はやはり復活し切れず 早めの再休職を取らされていた

そのなか さらに会社の仕事に関わっていた別の人が

先に自死した彼への責任感などから 鬱を患い

それが悪化して 死の連鎖を自ら引き起こされたのだ

このときの会社もまた 大変なこととなり

私はさらに 自死が他者の死も呼ぶ実例を見せられ

とうとう 死ぬこと自体は 心配してくれる人たちのために

完全に 完璧に 選べなくなってしまった

生きるしかなくなったのだ

この3回 約2年ほどの間の 他者の死を

鬱の脳みそで受け止め 感じ それでも自分の死は そのときどきで

ますます許されなくなっていく

その気持ちをわかってほしいとか そういう話ではない

たとえば 脳みそが暗いほうに振り切れて

反転させる以外 許されなかった感じ と

当時の自分が日記に残している

自分に勇気がないだけでなく 止められもして

死ねない自分を 本気で あざ笑っていた時期もある

そう確かに 人の苦しさなんて 他者にはたぶん はかりきれないのだ

どんなに不幸自慢し合ったところで 本当に正確な不幸度なんて

比べることは 誰にもできない

でも その代わりに人は 他者の痛みを知ろうとする想像力がある

これもまた 確かなこと 痛みは分かち合っていけるのだ

実際 私も 3人目の死が訪れたとき

それまで私を支えてくれていた人と

決定的とも言える分かち合いが起こり

結果としては とうとう 死をあきらめる決意ができた とも言える

その人のために今はまず 生きようと思え それをまた お互いに

受け止め合えた 

電流のように短いセリフと 目線合わせだけで

その瞬間 想像力がどちらにも働き合い 

それが通じ合ったことをお互いが 瞬時に理解した

あれは今でも泣きそうになる 鳥肌が立つ 真摯な瞬間だった

もちろん連鎖自死という 異常事態だったからこそ 

そういう体験が起こったことは理解している

だが もはや 生かされている と思ったのだ

ただ それだけだった

今 生きてこれを読まれている方もまた

読むことになったからこそ 何か どこか 生かされているのでは と思える

不幸のほうではなく 生かされ 今なおあることの 不思議さ ありがたさに

目を向け 気づく機会が訪れますことを 心から祈ります

その意味に いつか たどり着きたい

私も まるまるは理解できなくても

そのひとかけら分くらいには たどり着いてみたい

死ねないからこそ 今はそう思えている

感謝 m(_ _)m

経験を他者の前で語るということ

痛い思いを過去にした人は、ときとして

自分を守ろうとするあまりに、

経験から感じるその痛い部分を遮断する。

とくに小さいころ、それを経験すると

自分が痛い、と感じることは、

自分の命が守られなくなることと

直結してしまうことさえある。

親から、あるいは目上の人からの

守護を受けられなくなったり、

友達への信頼を失ったりする、と、

感覚的に判断してしまうのだ。

それゆえ、この痛い思いは

「自分がいけないことをしたから」感じたのであり

そう感じるのは「自分が悪いのだ」と、決める。

それを「悪いことではないよ」と説明してくれる他者が

そのとき、そこにいなかったがゆえに。

痛い思いをしたら、普通に、人は、悲しむ。

この「悲しむ」という行為は、

その後、自分が立ち直っていくうえで

とても重要で必要なことなのだけれど、

先に書いたように、自分が悪いのだと感じた人は、

悲しむことをも、停止してしまう。

ゆえにその思いは軽減されず、癒されず、

それゆえ、心の中にはずっと重たい
ものが残る。

でも、頭の中の理解では、

それは「いけないこと」であるから、

その思い自体を、忘れてしまおうとし、

実際、表面的な記憶からは消えてしまうこともあるのだ。

あまりにも繰り返し、理不尽なことが身のまわりに起こり、

なぜなのかまったくわからず、

途方にくれているなら。

とくに、人間関係で何度も同じように行き詰まるのなら。

この、痛い思いにまで立ち返り、それを改めて、

ちゃんと悲しんであげる必要があることも多いのだ。

カウンセリングというものは、治療する他者がいて、

その他者の前で、自分がこれまで恥だと思ってきたこと、

心の闇だと思ってきたことを、

改めて表面化させ、理解しなおしていく作業である。

もちろん、職業的にそれを行っている人のもとで

表面化させ「なければいけない」わけではなく、

信頼できる友人や恋人との間で、それができることもある。

痛い思いを追体験することは、自分の首を締めるように思えるし、

それを聞いた他者が自分にあきれてしまい、

見捨てられてしまうのではないかという恐怖心をもかきたてる。

それでもなお。

ひどく痛い思いを抱えているのであれば、

あるいは抱えていることは忘れていても

何かおかしい、と感じているのであれば。

改めて掘り起こし、痛かったことを感じ、涙を流すことは、

自分を取り戻すことの役に立つのである。

痛い思いをする前の、感情をきちんと捉え、涙できていた自分を。

何が他者のせいで、何が自分のせいであり、

どうすればうまくそれを捉え、整理し、

乗り越えていくのかを「自分でわかる」ようになる、

その手助けとなる。

答えは、必ず、自分の中にあるから。

本当に深く痛い思いをした場合、身体も、精神も、

自分の心から離れさせてしまうこともあるから、

この作業を行ううえでは、自分がどういう状態であるのか、を

見極めつつ、その機会を作っていくよう、

注意をはらう必要もありうる。

そのことを私は専門にしているわけではないので、

ここでは、他者に打ち明けるということが、

ときに自分を取り戻すことにつながる

重要な行為になりうることを、伝えたい。

話を聞いても、自分を馬鹿にしたりは

しないだろうと感じられる相手に。

あるいは、そのような人が集まり、安全が保証されている場で。

自分が痛く、かつ、恥だと思ってきたことを打ち明け、

涙を流すことは、自分を変えていくであろう力になることを、

ここに記しておきたい。

最後に、ひとつ、残念な話。

そうしたことを職業的に行っている方の中には、

お金儲けや自分の名誉のために、そういう人たちを操作したり、

あるいは自分を癒やすためにさえ利用する人がいる。

話として、聞いたことが何度かある。

とても大変な仕事であるから、それを選択されたことには

敬意をはらいたいけれど、

いつのまにか、操作する側に回られてしまったのであれば、

それを自覚し、いったんその仕事を止め、ご自身の傷を

まず先に癒されますようにと心から願う。

さらなる悲劇を産まないためにも。