カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

そして 自分を抱きしめる

悲しいときに

苦しいときに

これまで経てきた自分の道を

責めるのではなく

叱るのではなく

抱きしめるのは なぜ いけないのだろう

間違いを犯したから?

正しくないから?

弱かったから?

怖がっていたから?

それは 非難に値すると

誰が 決めたのだろう

苦しむくらい

痛いくらい

涙が出るくらい

あるいは泣けないくらい

あなたは 必死だったじゃない?

何もしてない? できてない?

怖くて 動けなかったんだよ

そうやって なんとか

自分を守り 自分を支えてきたんじゃない?

そのこと自体が 間違いだとも?

それはどんな 間違いなの?

正しいって何がだろう

他の人がすごいって何をだろう

何を基準に

何と比較しているのだろう

その基準すら もう

わからなくなってはいない?

自己卑下の嵐の中

あなたはいったい 本当は

何を 責めているのだろう

観念的な 抽象的な

他人と自分? 社会と自分?

その比較に 意味はあるの?

間違ってきたとしても いいんだよ

うまくいかなったとしても

練習なんだよ

あなたを除くすべての人は

間違ったりしないとでも?

ほとんど正しいとでも?

正しさ なんてものがあったとして

その正しさという基準は

とてもあいまいで

とても危ういものでしかないのに

時代が変われば基準も変わる

環境が変わればまた変わる

そんな流動的なものなのに

あなたは 架空の固定観念をつくり

その中にある 理想の偶像に

自分はなれないと決めつける

自分をただ 卑下の位置に

縛りつけているだけなのに

ねえ

どんなに失敗してもいいのよ?

どんなに悩んでも

その学び方をしている道は

決して間違いではないし

正しくない なんて類のものでもない

ただの 学びの ひとつの道に 過ぎないのだ

学びの道なんて 千差万別だし

その学びから あなたは必ず

何かを得ているから

優しさだったり 思いやりだったり

思慮深さだったり 共感力だったり

必ず 必ず

何かを感じとっているのよ?

だから今は 気づけなくても

自分を そんなにまで

否定しなくていいんだよ

痛いときこそ

苦しいときこそ

あなたが 頑張ってきたということだ

あなたが 何かをつかもうと

挑戦してみた証なのだ

だからこそ そんなに 痛いんだよ

ねえ だからもう

そこまで自分を責めなくて大丈夫だよ

それより先に 真っ先に

今の自分を

耐えてきたね 辛かったね

よく頑張ってきたね

答えの見えない中で

右往左往しながら 

なんとかやってきたんだよね って

心の中で 抱きしめてあげてほしいんだ

小さな子どもを いたわるように

小さな生きものに 優しく触れてみるように

自分自身で 自分を 抱きしめていいんだよ

本当は今 それが一番先で

一番大切で

一番 今のあなたに

必要なことだから さ

理想形への固執

これならうまくいく?

そんな絶対安心、納得万全なやり方は、ない。

自分でやっても行き詰まったり、

人との関係なら、当然、

相手の意思も関わってくる。

うまくいかないってことは

完璧な実現を目指し過ぎてない?

いろんな場面における

自分との関係も

他者との関係も

少しずつ、重ねていくもので

そりゃあ、恋愛なら最初に

一目惚れでワーッと

ノボセたりすることはあり得ても

そのうち落ち着いてきたら

相手のこと、冷静にみるよね。

あらゆるものごとに対して、

ゆっくり、軌道修正しながら、

ちょっとずつ、探る、近づく。

それでいいし、そのほうが楽だよ。

なんでいきなり上手にできないからって

ダメとか、あきらめちゃうの?

そこに「どうせ」っていう否定が

もともと、隠れてるのかな?

あらゆることは練習なのに

ろくにしないうちに

できないって悩むのは

もったいないよね……。

頭の中だけで最初から

納得できる結果や手段、

美しい関係づくりなんて、

望んだ通りの結果なんて、

そんな簡単に、生み出せるようなことではなくて

どうしても理想に近づけたいなら、

お互いに、あるいは自分自身に対しても

少しずつ、折り合いをつけていくことが

大切なんだと、思えるんだけど。

それは手抜きでもなんでもない。

途中であきらめて

適当なところで手を打つって話でもない。

思った通りにものごとが進まないと

全部、自分か他人のせいで、ダメなことっていう判断?

予想や予測とは違う流れを

なぜ変化として、楽しめないのだろう?

理想の形以外、

自分に対しても

他人に対しても

受け入れたくない、のだとすれば

それはやっぱりただの、

自分の考えの押し付けでしかないよね……。

それを逆に相手からされて、

無理やり飲み込むのも不自然だし苦しい。

お互いさま、なのだ、ある意味。

だから折り合い、って話。

うまくいかないことだらけにするより

これはどういうことだろう? って

新しく感じることを探ってみるほうが

ラクだし、幸せだと思えるんだよな……。

失敗も、トラブルも、

思った以外のこと、だけど

挽回していくための

変わっていくための

きっかけ、にすればよくて。

ダメ、ダメだった、イヤ、無理、

という負の否定感情だけに

とらわれ続ける必要は

まったくないのだと思える。

とらわれてしまうのはなぜか?

鬱の人なら、すでにその段階で

脳みその回路が暗い方向へ偏って、

思考の通路が狂ってるから

それをまず、元に戻すための

自分に対する休息が必要。

鬱、ではなかったとしても

怖がってるわりには完璧主義、なら。

それは裏を返せば

理想形に固執しすぎ、なのかもしれない。

過去の自分の反省を踏まえて

できればもう少し柔らかくなろうと

大らかになろうとしている私が、

最近感じる、とりとめのない話。

手放すことについての一考

悩み、苦しみ続け、

どうしたらいいかを他者に尋ねながらも

結局、相手から聞いたやり方

「どうしたら、の、

その具体的な実行方法」を

行えないことがある。

できない理由をあらかじめ並べてみたり

ひたすら、わからない、無理、と拒否したり。

頭で先に、答えを作っちゃってるんだけどね、それ。

やってみてから受け取るのが、

心の変化、受け止め方の変化なのに、

先に頭だけで考えて、無駄とか無理とか、を

これまでの思考パターンに当てはめて

結論づけてしまっている。

変化そのものを、拒否しているのだ。

こうした事例に、過去、

いくつか出会う機会があって、

私は何度か、自分やものごとに対する

受け止め方を、まず変えるんだよ、

やってみて初めてわかる、自分の気持ちがあるよ、と、

そんな感じの表現で話しているけれど……。

たまたま、そのことについて語られているブログに

数日のうちに続けて出会えたので

今回は、それをご紹介したい。

違う言い方なら、また、受け入れられる人も

いるかもしれないから。

●書道家 武田双雲さんのブログ

「今=不満 未来=不安 からの脱却。」

http://ameblo.jp/souun/entry-11462412083.html

●心理カウンセラー 心屋仁之助さんのブログ

「どうすればいいのでしょう」

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11461160868.html

手放すことを選択するとき、途中の過程では、

自分を丸ごと変えるくらいの覚悟を持つことも

必要とされるかもしれない。

少なくとも、ネガティブな思考パターンをやめるには

暗さは全部、手放すくらいの勇気は、必要だと思う。

もういい、本当にやめよう、これ、と思うくらいに。

先日、“こころ医者”なだいなだ さん の著書で

読んだ文章もステキだった。

 患者さんは、自分の病気しか
 考えられない状態から、
 自分の病気は、人生の上で
 どういう意味を持つのかを
 考えられる状態に達します。
 こうなると、病気を否定せず、
 経験として肯定的に
 受け止めることができるのです。

出典『こころ医者講座』p10 なだいなだ著 ちくま文庫
 

この「病気」という部分は、

自分の悩み・苦しみ、

自分の過去、

あるいは自分そのもの、とも

言い換えることができる。

別に、病気に限った話ではない。

手放すことを「実際にやり始めてから」気づいていくもの、

の話なのだ。

そのために、まずはやってみる、その

覚悟、勇気が、最初は必要とされるだろう。

たとえば、

話を受け止めてもらえる人に

今までの自分を整理させてもらう、

恥じるのではなく、勇気をもって

自分のネガティブさを打ち明けることも、

手放すための手段の強力なひとつになりえる。

いずれにしても、最終的に、どうすればいいのか、

どう受け止めていけばいいのか、

その答えはもうすでに、あなたの中に

必ず備わっているから、間違いなく。

備わっていたことに気づく「きっかけ」を

自分から望んで、受け取らせてもらうだけの話なのだ。

……やってみて、ください。そうすればわかるから。

心から願う。