カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

やって後悔するか、やらずに後悔するか

○○できてる人がうらやましい。

この言葉を聞くたび、私は

ああ、もったいない

と、かなりの確率で思う。

なぜなら、その人は、そうなる芽をすでに持っているから。

その芽を内包しているからこそ、

その人は、それをうらやましい、と感じるのだ。

例えば、人気スターになるなんて夢であっても、

実現している人はいる。

そのために長い手足と美しい顔立ちと

八頭身の身体を持ってなくてもいいのだ。

それがあれば、単に道がわかりやすいというだけ。

例に出してしまって申し訳ないけれど、

たとえば樹木希林さんや和田アキ子さんは、

芸能界的な分かりやすい要素がなくても、

十分、その道の実力派として認められている。

昨日から、やるかやらないか、という話を

私が書いているのは、私もまた、やってみなくてはわからない、

という局面に立っているからだが、

私は、やらないで後悔するより、

やって後悔するほうを選ぶようにしている。

やったことは、自分の責任だとはっきり自分でわかるから、

あきらめ、や、割り切り、もつけやすいのだ。

そして、やってみること自体は、

未知の能力への挑戦でもあるから、

ドキドキはするけれど、必ずどこかに、

ワクワクする要素も含んでいる。

自分がやってみよう、と思える範囲のことは、

自分にとって、気になるものであることは間違いないからだ。

つまり、やる過程をも、楽しめることになる。

まあ、あくまで、そういう目線を忘れなければ、の話だが。

同様に、自分が嫌いだ、と思える人の考え方や行動は、

自分もまた、それを抱えている可能性が高いし、

この人のこういうところがステキだと思える部分もまた然り。

すべて、自分がその要素を持っているからこそ、

気になるし、引っかかるわけだ。

他人は自分の鏡というけれど、本当にその通りなんだよ。

だから、うらやんでいるだけで、終わらせないでほしいと願う。

あなたは、そうなれる可能性を秘めている。

秘めているからこそ、気になっているのだ。

どうしたらそうなれるか、探ってみよう。

話を聞ける相手なら、尋ねてみる。

あるいは、本を読んでみる。

自分はどうやったら、その人に近づけるのか。

顔を整形するとか、そういう話ではないよ。

きれいにイキイキとしてみえる人は、その人自身が、

自分のやりたいことに挑戦していることが多い。

気持ちの張りが、充実が、表に表れているのだ。

同じように、自分が打ち込んで楽しめるものは何か、

子どものころ好きだった遊びなどにもそのヒントは隠されている。

趣味、でもいいのだ。

ひとつの充実が、次の充実を呼ぶことも多い。

仕事など責任があるものも同じ。

すべて、義務にしないためには、楽しめる要素をまず見つけること。

庭の草むしりだって、そこにどんな草があって、

それはどこから種が飛んできたのか、

どういうふうに成長して、ここまで広がってきたのか。

根を残さないように、とはよく言われるけれど、

そもそもその草は、地中深く入り込むタイプなのか、

浅いところにしっかり根を絡ませて広がるタイプなのか。

私なら、そんなことを考えつつやってみるほうが、楽しめる。

コイツは根が深いタイプだからスコップも使おう、とか、

ここは表面全体を掘り起こしておいてほうがいいな、とか。

意外にも、この草にはこんなかわいい花が咲くのか、

じゃあ抜くのはもう少しあとにしようとか。

そういう、自分が興味を持てるポイントを、探せばいいのだ。

ねえ、うらやんでいるヒマがあるなら、

それをグチャグチャと考えている時間があるなら、

怖がっていないで、まずは始めてみようよ。

そして、その過程をまず、楽しめるように、工夫しようよ。

「すでにそこに到達している」人だって、きっとそれなりに、

そうなるための努力は、してきているはずだしさ。

自分を信じてあげられない人は、成功したって、

ないものだけを見つめて、不安に陥る。

マイケル・ジャクソンだって、その一人だった。

あれは悲劇だと、はっきりわかるよね?

ないものねだりだけで、自分が今、持っているものに

感謝できていなければ、あなたもまた、彼と同じだよ?

あるものを、まず大切にして、

目標に近づく過程そのものから楽しめるものを、

楽しめるやり方を、探してみようよ。

そして、本当に実際、やってみようよ。

あなたは種であり、あなたの中に、芽は必ず、眠っているから……さ。

見たいもの

人は、己の見たいように、ものごとを見る。

そこには、幻も、思い込みも、含まれている。

ひとつ、例を挙げよう。

私は、梅の花を見ると、切なく、同時に優しい気持ちになる。

それは梅の花が、私の14歳のときの記憶に結びついているからだ。

本当に楽しかったクラス、その仲間達と、

クラス替えになる前の春休み、

テーマパークつきの広場に遊びに行ってお別れ会をやった。

全部で20人以上、いたと思う。

そのとき、広場の片隅に梅園があって、

そこでみんなと写真を撮ったりした。

それ以来、私は梅の花を見る度に、

あのときの思い出と、あのときの気持ち、

こんなに楽しい関係をありがとう、でももう、

クラス替えなんだよね、みんな、バラバラになるんだよね、

という、切なさの感情を、思い起こしてきたのだ。

何年も繰り返すうちに、私は梅の香をかぐだけで、

感覚的に甘酸っぱい感じで微笑むようになった。

それは今でも、同じである。

そのような「染みついた感情」を、人はきっと、いくつも抱えている。

私もまた、楽しい思い出ばかりではない。

街中でたまたま、亡くなった知人に似た人を見ればドキッとするし、

ドキッとしたことに、苦笑する。

ああ、抱えているんだなぁ、まだ、と思うのだ。

でも私は、そうした思いを抱えた自分でいることを「良し」としている。

つらかったんだもの、当たり前だ、と。

そういう弱い自分を、悪い意味でなく、愛しいと思える。

あのとき病気になった弱い自分を、バカなかわいいヤツ、と

思えるようになったのだ。

だから誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり、

自分を嫌いだ、といじめ続ける人にも、わかってほしいと思う。

人って、そんなものだよ、たぶん、と。

傍目にはどんなに成功しているように見える人も、

弱さを持ち、悩み、苦しみ、

私が微笑んだり、苦笑したりするように、

思い出は、抱えている。

抱えていることを、いい、とも悪い、とも思わない。

そんなものなのだ、自分は、と、捉えるだけである。

ただ、ありのままに。

そこにそのようにあるもの、として、済ませてしまうのだ。

なぜ、それができるか。

だって、日々、思い出は増えていくから。

それに一々、これはいいこと、これは悪いこと、

これはいけないこと、これは許されること、

なんてレッテルを貼っても、意味がないのだ。

だって、過去のこと、だもの。

殺人を犯した者が、その後、改心したとしても、

犯した罪は消えない。その人が泣こうがわめこうが、

事実は、変わらないのだ。

大切なのは、それを「なかった」ことにもせず、

自分をこじつけ的にかばうこともせず、

自分が何をしたかを、考えるきっかけにしていける可能性がある、ということだ。

以前に書いた、本村さんの気持ちも、そのようなものであったと思う。

もちろん、彼にはもっと複雑な思いがあられるとは思うが、

自分は、経験したことを「そのように捉えると決めたのだ」と、

彼は、言いたかったのだと思う。

憎しみだけでは、つらいから。

彼のように劇的な経験をした人でも、意識的に、そう見る、捉えると決め、

そのように見方、捉え方、考え方を変えることはできるのだ。

ただ、それは、自分自身で、そう決めなければならない。

他の誰も、魔法の杖を振ってはくれないのだ。

妻と子どものために、犯人を恨み続けなくてはならない、という考え方を放棄するとき、

彼はもしかして、後ろめたささえ、感じたかもしれない。

でも、これから先も、自分は生きていく。

だから、そこにとどまっては、いられなかった、と。

とどまっていては、苦しみの日々だけになるからだ。死にたくなるからだ。

わかるだろうか。

もうこの苦しみをやめる、と決められるのは自分だけなのだということを。

そして、やめるためにわざわざ、自分を一番、自己卑下の極地に陥れる、

死、という方法を、とらなくても、いいことを。

あなたは、自分をありのまま、いい面も悪い面も持った、ひとりの弱い、

でもかわいい、かけがえのない人であると、

自分自身で「捉えてあげていい」のである。

それは、皆、同じ。

あなただけが「特別に○○な人間」ではないのだ。

完璧に立派である必要も、まったくない。

そうありたい、と「努力すること」と

そうなれない自分を「責め、痛めつける」ことは、意味がまったく、違う。

それこそがまさに考え違い、である。

過剰なプライドも責任感も

過激な目標も自己卑下も

生きていくうえでは、捨てていい。

そんな自分になろうとすること自体、やめてしまっていいのだ。

それができるのは、他でもない、あなた自身だけ。

あなたが、見たいように見て、捉えて苦しんできたことを、

あなた自身の意識で、ただ、もうやめよう、と思うだけである。

何もないからこそ、今、ここから、始めてみればいい。

努力を。自分のための、自分を楽にするための、

「見方を変える」努力を。

恨みも嫉妬も憎しみも、自分の意見、捉え方、を変えずに

他人のほうを変えようとするところから始まる。

ただ自分のため、その捉え方自体を、やめればいいのだ。

やめていいのだ、単純に。

届く方に、きちんとよいタイミングで、この思いが届きますように。

だからあなたはまず何より、今のあなたでいいんだよ。

祈りをこめて。

いつまで そこに

血を分けた親が 昔からいない人は

親との間で育まれる愛情というものを 知らないかもしれないけれど

そのかわり 肉親という存在から受ける 理不尽な仕打ちの苦しみを 味わわないですむ

他人の間で生きていかなければならない 肩身の狭さを感じても

なぜここで殴られるのか なぜこうして無視されるのか なぜこれが非難されるのか

血のつながった 特別な存在の大人からの 理由のわからない虐待に

それは全部 自分のせいだと 刷り込まれずに生きていけるだろう

いじめる親と いない親 ねえ どちらがひどいかな

どちらのほうがより 淋しくて つらくて 苦しいかな

それを比較して 一生 自分が

親がいないから

親がいるから

こんなに苦しいんだと 思い続けるってことかな

たまたま親がいて その関係が上手くいっている人は

ひどい親がいる人からも 親がいない人からも

うらやましがられて あんたはいいねと 思われ続けなくちゃいけないかな

それだって その人は 何も努力してない 棚ボタ かな

親が ただ ただ ひたすらに すばらしいだけかな

生まれた環境を 恨み続けるのは

お金持ちじゃないからとか 親に学がないからとか

そういうのまで含み始めたら 本当にキリがない

でも そのせいで 自分は 最初からゆがんでいるのかな

そのせいで 絶対に 必ずダメで ゆがんでしまうのかな

本当に そうかな

結局すべては あの親がいるから 親がいないから ダメになるのかな

そこには まったく 自由になるすべは 存在しないかな

こうした気持ちは 親の話に限らないこと

読んでくださっている方には おわかりいただけると思う

ねえ そこに自分は 縛り付けられているんだよね?

ではいったい 誰が そうしているのだろう?

それを 選んでいるのは そう感じることを 選び続けているのは

いったい 誰なんだろう?

もちろん すぐには抜け出せないかもしれない 少しずつ変えていくしかない場合もある

でも あえて今日は ここで私は尋ねる あなたへ もちろん自分に対しても

ねえ 教えて あなたは いつまで そこにいるつもり?