カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

人生の色

自分の人生は、地味で平凡でつまらない、と思う人がいる。

自分は、頑張りが足りなくていつもうまくいかない、

ダメな人間だと思う人がいる。

どちらも、自分の人生を過小評価している。

し過ぎであると言っても過言ではない。

生まれたときの環境に、違いはあるだろう。

単純に金銭的に恵まれている人は、恵まれていない人より幸運なのか。

たとえ金銭が豊かでも、小さな頃、身内からの愛が少なかった人も

なかにはいるかもしれない。

人として、どちらが幸せな子ども時代になるか。

一概には言えないが、単純比較が難しいことは容易にわかると思う。

では親の愛がなく、お金もない人は、最初から不幸な人生と決まっているだろうか。

いや、友情や恋人との愛情は、自分で努力すればつかみ取れる。

金銭的な面も、勉学や勤労に励んだりすることで、変わっていく。

平凡だからいや、という場合、何と比較しているのだろうか。

たとえば芸能人? 華やかな世界には、華やかさを保つ努力と、

そこで生き延びる競争が必要だ。

ある映画やドラマで、主役につける人は常にひとり。

主役に限らない、どんな役でも、常にひとり、の座を巡り

ずっと、必ず競争である。

事務所の力がいくらあっても、本人の努力が続かなければ、

延々と出てくる後輩にやがて座を奪われ、仕事はなくなる。

プライベートで街を歩いても、注目される。売れれば売れるほど。

何にせよ、派手な人は、その分、必ず裏で耐えている。

土を耕し、それを50年続けてきた人も平凡、ではない。

最初に入った会社を定年まで勤めあげた人も、平凡、ではない。

続ける努力、そこで生まれる出来事、感情、公私の歩みは、

誰であっても、誰かに語るべき何かを生み出す。

経験からつかんだものがあるからだ。

そんな経験もない、失敗の連続だ、という人でも、

その失敗は、必ず誰かの共感を呼ぶ芽を、含むのだ。

あなたが今、悩んで、苦しんで、立ち止まっていることでさえ、

きっといつか、誰かの、あるいは自分自身の役に立つことになるだろう。

人の人生で、まったく同じ経験を生きる人はいない。

一人ひとり違う。同じ色はない。

ただ、似た色があり、似た感情がある。

それゆえに、誰かの共感を静かに呼び起こすのだ。

だから。

今、悩んでいる人は、どうかそれを、恥じないでほしいと願う。

誰に話すことがなくても、あなたの人生の軌跡は、

やがて必ず、あなた自身を支えるから。

あなたの苦悩は無駄にならず、糧に変わるから。

もちろん、そのためには、人生の受け止め方、見方を、

変えていく努力はいる。

無いものねだりの自分を、

あるものに感謝できる自分へと。

ないものだけを見つめ、周りを恨み、うらやみ、

後悔し、不満だけで一生を終えるか、

あるものを見つめ、感謝し、そこからまずは始めるか。

その選択は、あなたの自由だ。

できることを、できるところから。できなければ、できるまで待つ。

立ち止まって悩み続ける自分をも、人生でいろんな色を備えるための

ひとつの経験として見つめていけるかどうか。

少しでも幸せに生きていくための視点は、

あなた次第なのである。

できれば幸せに、彩り豊かなことを楽しんで生きてほしい。

少しでも、少しずつでも。

心から、そう願う。

喜と怒と哀と楽と

生きているから 笑えます

死んだら もう笑えません

生きているから 泣けるのです

死んだら 泣いても意味はない

毎日 笑ったり 泣いたり 怒ったり

感動したり 震えたり 愚痴ったり ゆったりしたり

みんな 生きているから 味わえるのです

お金がありすぎて 幸せそうに思える人たちは

この世の快楽をまず お金で味わおうとするそうです

たとえば 酒池肉林

たとえば 世界旅行

でもやがて 気づくそうです

金で買えるものは 飽きると

個人的快楽の享受を 繰り返し続ければ 

最初の喜びは薄れていき

やがては つまらないものへと変化する

ハリウッドの大スターたちが 社会貢献的な運動に参加するのは

人気取りや ステータスとしての責任感だけではなく

そこに喜びを 感じるからだとも言われます

そう 飽きない 喜びを

何かの 誰かの役に立てることは

人にとって とても大切な 喜びの源泉であることが

そんなところからも 見えてきます

ずっと自分が 楽しいだけだと つまらなくなるのです

ずっと幸せな はずなのに つまらなくなるのです

悲しいことがあるから 楽しいことがより輝き

苦しいことがあるから できたときには よりうれしいのです

喜怒哀楽の 怒や哀は 

そんなふうに 喜や楽を 輝かせます

喜と怒と哀と楽は 人生をより輝かせていくために

そんな相互作用で 働いているのです

そう 今 悲しいことや 苦しいことや

つらいことや どうしようもないことは

いずれあなたの 喜びや うれしさや

楽しさや ありがたいという気持ちを 必ずきっと 輝かせてくれます

それらがより 輝くために

今 あなたはきっと しゃがんで苦悩しているのです

だからどうか 苦しい今のまま あきらめてしまわないで

どうか 自分を投げ捨ててしまわないで

あなたの未来には あなただけが感じられる

素晴らしい何かが 待っているから

重たい荷物を 抱えてしまったけど

それゆえなおさら その荷物を何らかの形で下ろしたときには

他の軽い荷物の人は誰も 見ることができない

絶景の高みに 登っているかもしれないから

それは 荷物を運びきった人だけが得られる

特別な大切な ギフトだから

つまりは 意味のない悩みなど ないのです

だからこそ あがいてほしい

苦しみから 立ち直るすべを 見いだしてほしい

道は必ず つながっているから

その哀や怒は やがて必ず 喜や楽につながるから

私たちは この世は そういうふうに できているのだから

自分が嫌い

自分が嫌いだと 思って

それがずっと続いて 当たり前になったら 苦しい

だって24時間 365日 ことあるごとに

自分を卑下し 痛めつけ ギリギリと絞り続けることになるから

他の誰かに痛めつけられたのなら

少なくとも その人の元を離れれば

あるいは顔を見ない時間があれば

その間 痛めつけられることはない

でも 自分で自分を痛めつけるようになると

24時間 自分を監視していることになる

何かがうまくいかないとき

何かを思い出したとき

何かが不安になったとき

とたんに自分を 心の中で卑下し 罵倒し 痛めつけるのだ

また そういう人に限って

自分の長所は「あって当たり前」で

長所であることを認められず

場合によっては それすらも卑下の対象にする

こんなの当然で

何の意味も 価値もなくて

女らしい長所じゃないから

男らしい長所じゃないから

希望する自分じゃないから

そう言って 拒否してしまう

こうして ダメなところしかない人間の 一丁上がりである

ダメなところしか 見ない

そうなんだと 決めつける

できないんだと 確定させる

そう思い込む

それらを自分で自分に決定してしまったら

自分の内側で 固めてしまったら

いったい誰が あなたを助けられるだろうか?

そんなことないよ と 四六時中言い続け

あなたを褒め称え 可愛がり続け

あなたが何をやっても許し 愛し

あなたがその言葉を信じて自信を取り戻すまで

情の深い恋人のごとく 親のごとく 臣下のごとく 寄り添えば

あなたは 自分の卑下をやめられるのかな

その相手が 何年それを続けてくれたら

あなたは自分に自信を持てるのかな

いつかその相手の言葉を心から信じられ 自分への疑いを晴らし

嫌悪感をなくし 幸せになれるかな

その人を失うことを 極端に恐れるようになったりしないかな

なぜ そうやって自分を嫌うようになったか

なぜ自分を卑下するのか

自分が欠点だと思い込んだことは

自分が当たり前だと決めつけたことは

いつから どんなきっかけで 始まったのか

それを振り返らず 自分の気持ちを変えることなく

誰かの愛や友情にすがり続けていけば

あなたは それで満足だろうか

幸せな人に なれるだろうか

たとえば鬱とは ものごとを悪い方向にとらえる脳ミソになる病気

だからあなたの「自分が嫌い」という思いを

なんの根拠もなく 深くする

だからまず その病そのものを軽くし

軽くなり始めてから 自分が自分を嫌いになった理由を

その原因となる考え方 受け止め方を

冷静に 見つめ直してもいいんじゃないかな

自分を 客観的に 捉えてみて

どんなことから 自分を嫌いになったのか

その価値観 その思考 出来事 感じたこと

それらを 見つけていってみるのは ダメかな

責めるためではない

ゆるすために 見つけるのだ

見つけたら そのときにわかるよ

自分がどれほど 自分をイジメてきたかを

苦しい価値観に縛られ 自分を追い詰めていたかを

ねえ 先に書いたように

臣下のような相手が現れてくれるまで

あなたは自分を ずっと痛めつけ続けていくの?

あなたが あなたの内側で

自分をギリギリ 傷つけて絞っているのに

自分が決めて そうしているのに

この先も ずっと 続けていくのかな

病なら 治していくことにまず 意識を高め

受け止め方や考え方なら

ほかにもよいものがあることを

認めることは できないのかな

ほかの受け止め方や考え方をしていいんだということは

絶対に絶対に 一生 認められないのかな

そんなにも 自分を絞り続けていかなくちゃいけないほど

人間としてゆるせないほどの罪を

あなたは本当に 行ってしまったのかな?

意図的に 自分の快楽のためだけに

人の命や人生を奪う

そんな人は 逆に 他人から問答無用で痛め続けられることのつらさを

味わったほうがいいかもしれないとは思う(残酷な考えだろうけど)

それと同じことを あなたは自分で自分に科している

それは なぜ?

人はそこまで 自分を痛めつけなくて いいんだよ?

甘えの戒め?

それにしては罰が重すぎる

もし 他人にそれをやり続けたとしたら……

そんな想像も してみてほしいと願う

それを選んでやっているのは自分だと気づいてほしいと

心から 願う