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幸せ

本日知った、言葉。

とある、とてつもないご自身の困難を乗り越えてこられた方の言葉だ。

それが誰であるか、という説明は後回しにする。

ただ、とてもとても大変な思いをされ、それでも自分の気持ちに嘘をつけず、貫こうとされた方だ。

その言葉。

自分で自分が幸せだと思っている限り、

誰もその人を不幸にすることができない

これは本当のことだと思える。

自分が自分を大切にできれば、自分をゆるし、自分らしく生きていいことを認められれば、

その人は、幸せでいられると思う。

そしてその幸せ、自分への信頼は、自分のなかで保たれるようになる。

逆を言えば。

自分で自分が不幸せだと思っている限り

誰もその人を幸せにすることができない

のかもしれない。

誰かにすがって、その人が幸せにしてくれても、今度はその人を失うことが恐れになる。

人が幸せに生きていく、ということは、

自分が自分であっていいということを、

誰からでなく、自分が認められる、ということなのかもしれない。

鬱で自分を追い詰めてしまう症状が出る、それを放置し続ければ、真逆をいくことになるのだろう。

そしてまた、悲劇の主人公として自分を認識し続ける限り、その病も治らない。

「なぜ」自分が自分をそうとらえるのか、「どうすれば」その思いグセをやめていけるのか。

それを、周囲の助けも借りながら探り、変えていくしか、ないのだと思える。

だって、自分で自分を不幸にする必要なんて、まったくどこにもないのだから。

「本人」がその気になれば、たいていの困難は、乗り越えられるのかもしれない。

「本人」が自分の考え方や過去からのやり方に固執せず、偏らず、あらゆる可能性を試すのであれば。

どんなに自分が不幸だと思えても、「ではどうすれば幸せになるのか」を検討することは可能なのだ。

どうすれば「少しでも」幸せになれるのか、を考えることは、あなたにもできるのだ。

あなたがそれを、自分にゆるせば。

そのためにまず「私は必ず○○なのだ」「私は決して○○できない」という気持ち。

その気持ちが「あなたの思い込み」であることを、認識しなければいけない。

確かに今、周囲の状況がひどいのかもしれない。

まさに怒濤の動きの中の、その渦中にあるのかもしれない。

でも、その周囲の状況は、一生、収まることはないのだろうか?

ひどい怒濤の渦中から、少しでも抜け出すことはできないのか?

「抜け出すのに必要なこと」のなかに、自分の捉え方を見つめてみる、ということは

含まれていないだろうか?

この病が、意志を奪う症状を持つことを知っていながら、こんな話をするなんて

どうかしている、と思われるかもしれない。

でも少なくとも、病になった原因の考え方を探り、自分の思いグセを治していく過程の中で、

気づけるはずなのだ。

自分の幸せは、少なくともある程度まで、自分で決められる、ということは。

今の時点では、病というものがあるため、確かに全部、そう思えることはないかもしれないけれど。

それでも、自分で、変えていける、ということに、少しずつ気づいてほしい。

あなたが、自分自身を、幸せにしていい。

そのゆるしを、どんな人であれ、自分に出していいことを、知ってほしいと思う。

上の言葉を話してくれたのは、日本で初めて、性転換手術を受け戸籍を女性から男性に書き換えて、

現在は性同一性障害の講演を全国で行っている方。

ジェンダーという壁を、日本で初めて乗り越えた、虎井まさ衛さんである。

そして、この言葉を虎井さんが語った、と教えてくれたのは、

自分にできることで他の人が楽になり、幸せになることをサポートしたいと願ってくれている、

私の大切な、ステキな友人である。

http://ameblo.jp/dryas/entry-11085225751.html

受け止め方を変えるために。~その3~

これまでの話をまとめながら、進めよう。まずは、自分の脳の状態がまともじゃないことを「認める」こと。

病気のときに、どんなに無理してやろうとしてもうまくいかないのは「当たり前」なのだ。

あなたの「考え方」云々以前に、脳みそが狂っているのだ。それはあなたの心がけ次第で

即刻、改善できるものではない。脳の狂いを直していくための時間も、そのための「留保」も、

自分が自分をそこまで追い詰めたのだと「認めること」も、すべて必要なのだ。

あなたは、自分で自分を苦しめている。

自分で「認めない」ことで、自分の苦しみを深めている……。

人なんだから、ミスすることも、悩むことも、あって当たり前なのだ。

まったく問題のない完璧な環境、完璧なやり方、完璧に立派にできる人間など、いない。

いないのだ、本当に。何かがあってもそれを「問題にしない」程度へ持っていくだけなのだ。

あなたが自分を卑下するあまり、周囲を「勝手に」持ち上げているのだということ。

うらやんでいるのだということ。

みな、それぞれに悩みがあり、困ったことや心配事もあり、

それでも「なんとか」やっている。これは「バランス」の問題なのであり、

あなただけが劣っていてあなただけ、いろいろ問題が起こって、

あなただけがうまくいかないわけではないのだ。

ある程度流すこと、先送りすること、もう気にしない、と決めること。

これはいい加減、ではない。そうしたことは、決して「手抜き」なのではなく

「いい状態、よい加減を探っている」最中であること、しかも人によってやり方は違う、ということ。

そう、ある意味それは、甘えではないのだ。

また、あなたが「体調(脳)まで狂っているときに休む」ことを、「役立たず」と思う必要もない。

休もうよ、脳がおかしくなってるんだから、普通に。自分の病気を認めて、自分を休ませようよ。

あなたの病気は、「うまくいかないこと」をあまりにすべて自分の責任にしてしまって

ずっと、自分を責め続けたからだ。仕事しかり、人間関係しかり。

他人からひどい目に遭わされたこともあるだろう。親子などの力関係があった場合は、

うまく対応できない場合だって、当然あっただろう。

それでひどく傷つけられたこともあるだろう。失恋したり、ふられたこともあっただろう。

でも、だからずっと一生、他人のせいにして、それを恨み続けたら、

もっと、どうしようもなくなる。だって相手のことは、自分でコントロールできないのだから。

社会のなかでは、いろいろな問題が起こりうる。

それは誰にだって起こる可能性のあることであり、あなただけが何か悪いことをして

あなただけが間違っていたわけではない。同様に、人をいじめ抜く人にも、

そうしてしまうだけの重い問題はたぶん、あるのだが、そこまであなたが何とかする必要はない。

あなたは、あなた自身を大切にしてあげることを「再び」思い出せばいいのだ。

今まではうまくいかなかったことでも、これから、うまくいくように練習すればいい。

あきらめる必要があるのは「昔に戻る」ことくらいだ。過去には戻れない。

あるいは、過去に戻る必要もない。あなたには、その代わりに未来がある。

たとえば、過去のいやな記憶を「捨てる」のが難しければ「それを生かす」方向はないだろうか。

ひどい目にあったのであれば、それによってあなたが「学んだ」ことを、今後は

あなた自身がどう生かしていけばいいかを、考えてみる価値はあるだろう。

あまりにひどいものは、そのサイクルを自分が断ち切る。

痛みを知ったのなら、痛みを他者への理解に生かす。

思い出しただけで吐き気がするようなことなら、もう、思い出さなくていいのだ。

どうしたら、思い出さなくてすむのかを知っていこう。PTSDなどの治療や研究も知ってみよう。

そうやって、自分で少しずつ、ゆっくりと、やってみればいい。

誰かに傷つけられたことも、自分を認められなかったことも、

すべて、これからの「糧」に、変えていけるのだ。

ただ、あなたが、そうしようと決めれば。

何か無理をして、無理しなくちゃいけないことが起こって、ひどいことが起こって、

痛んだからこそ、病気になった。

病気になったから、うまく動けなくなった。

それゆえ、そのことで今度はまた、自分を責めるようになった。

そんな傷ついた自分を、これ以上自分で責めて、痛めつけて、あなたにはどんないいことがあるのだ?

あなたの未来はこの先、自分を自分で痛めつけるために存在するのだろうか?

違う。あなたの未来は、あなたが楽しく、幸せになるために、使っていいのだ。

あなたが、誰から言われるのでもなく、あなたが、そうしよう、と決めればいいのだ。

まずはあきらめず、その心の病を治そう。

鬱になっている自分をまず認め、病の悪化にしかつながらない、自分を責め続ける行為をやめよう。

落ち着いてきたら今度は、そもそも落ち込む原因になった出来事から

「何が自分を追い込んだのか」を知ろう。

あのとき物事をどう受け止めたから、自分を苦しめたのだ、ということを知り、

なぜ自分はそんなふうに受け止めてしまうのか、

ほかの考え方はないのか、

それを、自分に許すにはどうしていけばいいのか、を知っていこう。

ひとつずつそうやって、自分を苦しめるものから、自分を解放していって「いい」のだ。

それは、甘えでも間違いでも、なんでもない。

それが「よい加減」を知る、ということだ。

無理せず、無茶せず、バランスよく生きる、ということにつながっていくのだ。

自分の弱さを知るからこそ、自分がそんなふうにしっかりと立ち、強くなれるのだということを、

どうか一人でも多くの人が、実感できますように。

そのための時間は、あなたのために、あなたが必要なだけ、かけていいのだから。

心からそう願う。

受け止め方を変えるために。~その2~

さて、自問を始めると、じゃあ、他の考え方はないかな、という視点で、周りを見渡し始めることになる。

すると、これがなかなか面白いのだけれど、いろいろなことがメッセージとして、自分の心に響くようになるのだ。

それは、実は自分に「別の方向性を受け止める準備」ができたから起こるのだろうと、

私には思えているのだけれど。

ふと立ち読みした本、誰かの言葉、それこそテレビドラマのセリフなどでも、

新しい視点のヒントが自分の胸に届き、ハッと気づかされるのだ。

この件に関して、受け止め方、という観点で1つ、脱線話をしておこう。

世に広まっているさまざまな宗教や、教え……たとえばスピリチュアルや自己啓発は、

たいていの場合「自分がなるほど、あり得るかも、と受け止められる」からこそ役立つものになる。

そういう怪しいものは科学的でないから信じない! と、かたくなにおっしゃる方もいるけれど、

それは「受け止め方」という話からすれば、ある意味、「こわいから」信じられないかもしれないのだ。

科学で証明されていることも、日々、進歩していく。

つまり、科学的に今、正しいと自分が信じていることは、将来は「間違っているかもしれない」のだ。

ニュートン派の人たちがアインシュタインの「時間と空間が一定でない」説を

受け容れられなかったのもその一例。

一見、根拠があるように見えて、実は事実としては間違っているかもしれない、

しかも誰かが「そうだ」と言ったことを、一応、証明はできたから、と、信じている……。

その点では、実証主義の人たちも、神秘主義の人たちも、「形としては」同じなのだ。

これは「見方を変えれば」というたとえ話であり、決して実証主義の方を批判しているわけではないので

その点はご了承いただきたい。

つまりは何を信じるか、自分の支えにするか、ということなのだ。

話を少しだけ元に戻すけれど、自分の受け止め方を変えるうえで、何かが自分の心に響いたのであれば、

それが科学的な内容であろうが宗教的な教えであろうが、実は何でもいいのだ、と、私には思える。

一点だけ、「誰かの言うことは全部正しい!」という視点だけが、

「自分以外の他者(神様も含め)に、自分の問題をなんとかしてもらえる」

という依存につながってしまうことだけ、注意すれば。

すべてが正しい神様のような人が、自分の教えを広めたがったり、お金を欲しがったりするのはなぜか、

という点では、単純に、素直に疑問を感じていてほしいと願う。

考え方が役立つのはいい話だけれど、盲信と依存は、新たな問題を抱えることになる。

「どうしてうまく教えを広められないのかしら?」と、自分を責める材料を増やしてしまったり、

信じない他人を責めたり、物理的にお金が足りなくなったり……ね。

ダライ・ラマ氏もマザー・テレサも、自分が悩みをもつ「ただの人間」であることを、ちゃんと認めている。

ブッダの教えでも、初期仏教で伝わる教典では「ブッダという神」はいない、とはっきり言っている。

ただ、「自分が悟りを開いた人になる」ための話を延々と説いているだけである。

さて。

そのように、自分の心に響く別の考え方、捉え方……というのは、それがどんなものであっても、

自分が「少し楽になる」ものなら、ものすごく大雑把な言い方をすれば、だけど、何でもかまわないのだ。

それはこれまで以上に自分を戒め、ギチギチの「ルール的な考え方」に縛り、苦しめるものではないはず。

「なるほど、そう捉えて、そう考えてもいいのか」と思えて楽になれるのであれば、まずはOKなのである。

細かいことを言えば、上に書いた話のような危険が潜んでいる可能性もあるが、まあ、今は、

自分の問題点を見つめ、変える、という話であるから、それについての詳細は省く。

あなたの考えは、別に一生、「固定」でなくていいのだ。

これまで「正しい」と思っていたやり方が、今や、自分にとってかなり苦しいものなのであれば、

また、良い、正しい、と一見、思えている価値観であっても、縛られ、もはやつらいのであれば、

「昔は役に立ったかもしれないけれど、今はどうだろう」と見直してみる価値はあるのだ。

……ここまでの話は、一部の方を除き(^^;)、まあ、さほど抵抗がなく、受け止めてもらえるかと思う。

つづきは、また明日に。