受け止め方を変えるために。~その2~

さて、自問を始めると、じゃあ、他の考え方はないかな、という視点で、周りを見渡し始めることになる。

すると、これがなかなか面白いのだけれど、いろいろなことがメッセージとして、自分の心に響くようになるのだ。

それは、実は自分に「別の方向性を受け止める準備」ができたから起こるのだろうと、

私には思えているのだけれど。

ふと立ち読みした本、誰かの言葉、それこそテレビドラマのセリフなどでも、

新しい視点のヒントが自分の胸に届き、ハッと気づかされるのだ。

この件に関して、受け止め方、という観点で1つ、脱線話をしておこう。

世に広まっているさまざまな宗教や、教え……たとえばスピリチュアルや自己啓発は、

たいていの場合「自分がなるほど、あり得るかも、と受け止められる」からこそ役立つものになる。

そういう怪しいものは科学的でないから信じない! と、かたくなにおっしゃる方もいるけれど、

それは「受け止め方」という話からすれば、ある意味、「こわいから」信じられないかもしれないのだ。

科学で証明されていることも、日々、進歩していく。

つまり、科学的に今、正しいと自分が信じていることは、将来は「間違っているかもしれない」のだ。

ニュートン派の人たちがアインシュタインの「時間と空間が一定でない」説を

受け容れられなかったのもその一例。

一見、根拠があるように見えて、実は事実としては間違っているかもしれない、

しかも誰かが「そうだ」と言ったことを、一応、証明はできたから、と、信じている……。

その点では、実証主義の人たちも、神秘主義の人たちも、「形としては」同じなのだ。

これは「見方を変えれば」というたとえ話であり、決して実証主義の方を批判しているわけではないので

その点はご了承いただきたい。

つまりは何を信じるか、自分の支えにするか、ということなのだ。

話を少しだけ元に戻すけれど、自分の受け止め方を変えるうえで、何かが自分の心に響いたのであれば、

それが科学的な内容であろうが宗教的な教えであろうが、実は何でもいいのだ、と、私には思える。

一点だけ、「誰かの言うことは全部正しい!」という視点だけが、

「自分以外の他者(神様も含め)に、自分の問題をなんとかしてもらえる」

という依存につながってしまうことだけ、注意すれば。

すべてが正しい神様のような人が、自分の教えを広めたがったり、お金を欲しがったりするのはなぜか、

という点では、単純に、素直に疑問を感じていてほしいと願う。

考え方が役立つのはいい話だけれど、盲信と依存は、新たな問題を抱えることになる。

「どうしてうまく教えを広められないのかしら?」と、自分を責める材料を増やしてしまったり、

信じない他人を責めたり、物理的にお金が足りなくなったり……ね。

ダライ・ラマ氏もマザー・テレサも、自分が悩みをもつ「ただの人間」であることを、ちゃんと認めている。

ブッダの教えでも、初期仏教で伝わる教典では「ブッダという神」はいない、とはっきり言っている。

ただ、「自分が悟りを開いた人になる」ための話を延々と説いているだけである。

さて。

そのように、自分の心に響く別の考え方、捉え方……というのは、それがどんなものであっても、

自分が「少し楽になる」ものなら、ものすごく大雑把な言い方をすれば、だけど、何でもかまわないのだ。

それはこれまで以上に自分を戒め、ギチギチの「ルール的な考え方」に縛り、苦しめるものではないはず。

「なるほど、そう捉えて、そう考えてもいいのか」と思えて楽になれるのであれば、まずはOKなのである。

細かいことを言えば、上に書いた話のような危険が潜んでいる可能性もあるが、まあ、今は、

自分の問題点を見つめ、変える、という話であるから、それについての詳細は省く。

あなたの考えは、別に一生、「固定」でなくていいのだ。

これまで「正しい」と思っていたやり方が、今や、自分にとってかなり苦しいものなのであれば、

また、良い、正しい、と一見、思えている価値観であっても、縛られ、もはやつらいのであれば、

「昔は役に立ったかもしれないけれど、今はどうだろう」と見直してみる価値はあるのだ。

……ここまでの話は、一部の方を除き(^^;)、まあ、さほど抵抗がなく、受け止めてもらえるかと思う。

つづきは、また明日に。

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