カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

正しいとか 間違ってるとか

いいとか 悪いとか

正しいとか 間違ってるとか

これはダメとか これはゆるされるとか

それっていったい 誰が決めてるんだろう

社会のなかで 生きていくうえで 単純に やってはいけない と思うのは

自分の都合だけで 他人を犠牲にすること

人の命を 自分だけの都合で奪ったり

自分がうまくいかないから 人を傷つけたり

言うことを聞かないから 暴力をふるったり

それは確かに よくないし 悪いし 考え方が 根本から間違ってる

でもたとえば 人としてこうあるべき! というその価値観は

どこまで「正しい」のだろう? どこまで「絶対」なのだろう?

もしかして あなたが 親や兄弟・姉妹や 友達に感化され「そうじゃないといけない」と

思い込んできただけ ってことはないだろうか?

少なくとも 赤ちゃんのときには そんなルールを知っているはずがない

どこかであなたが 「こうあるべき」と “決めた” はずなのだ

あなたが 「正しい」と思っていること あなたが 「こうあるべき」と思っていることが

本当に正しいか 本当にそうあるべきなのか

それを なぜ 疑わないのだ? なぜ そう「信じ切って」 自分を戒め続けなくてはいけないのだ?

鬱という病において できなくなっている自分を認められないのも

それが大きく 関わってはいないだろうか?

少なくとも今 その枠は いらないのではないだろうか

少なくとも今 その枠は 何よりもあなた自身を 苦しめてはいないだろうか?

世の中において 「正しい」ことは ひとつじゃないのかもしれない

でも少なくとも 病気の人が 自分を穏やかに ゆるやかに保ち それ以外のことに目をつぶるのは

今 自分に無理をさせないことは 果たして 「正しくない」ことなのか?

病のなかにあって いろいろなことができない自分を 責めない方向へ 変わっていく

それは 果たして 「正しくない」ことなのだろうか……?

あなたは いったい何を根拠に 自分をいじめ続け 追い詰め続けているのだろう

どうして 「自分が」ダメだと決めつけていることを 気づけないのだろう

どうして 自分に 優しくしては いけないのだろう?

あなたは ふつうに ただ存在してて それでじゅうぶん いいんだよ?

何ができなくても いつも常に そのときの あなたのままで いていいんだよ?

その病で苦しんでいるのは  何よりも自分自身なのに いったい 何を 「しなくてはいけない」の……?

あなたが否定する限り

鬱という病になった人は、たいてい、自分を責め、否定を繰り返す。

そうなってしまった自分を弱いと思い、情けないと思い、キライと思い、この苦しい状況がイヤだと思い、

それなのに何もできない、ダメな人間だと思う。

どうしてそんなグルグルした思考に陥るのか。

だって、そういう「病気」だからである。

あなたは、自分の頭でなんとか考えて、この状況をどうにかしなくちゃ、と思う。

でも、この病気は、脳の思考回路が「否定」にしか向かわない。

悪いほうへ、悪いほうへ考えていく「道順」しかたどれない。

だから、普通なら自分で思いつける解決策を、脳が上手く働かないために、

なかなか思いつけないし、ひらめくことも、できない。

反省しようが、後悔しようが、全部、結果としては「自分を責める」、

あるいは「周囲の人や状況を責める」ところにしか、

行き着かないのである。そういう「症状」が出る、病気なのだ。

なのにあなたは、イヤな気分がつづくから、頭で一生懸命、考える。

脱するためにはどうにかしなくちゃ、と思い込んで、考える。

そして、どんどん、悪い方向の思考を増やす。

あれがいけなかった、これもいけなかった、アイツが悪い、あのときにああしなかったらよかった、

あんなことさえ起こらなかったら、あのときなぜ、どうして私は……。

だからね、悪いことばっかり考えたくなる病気なんだよ、本当に。

そんなグルグルした思考を続ける限り、あなたは、よくならない。

咳をしているときに、自分でさらに身体を冷やし、空気を乾燥させ、どんどん、咳をひどくしているのだ。

そうやったら、咳は止まるのか? いや、今度は発熱して、頭も痛くなって、鼻水も止まらなくなる。

なのにあなたは、悪いことを考え続けるのをやめない。どうしてなのだろう?

そこから、抜け出したいからだ。

そして、そんな自分を、キライだと思い、否定し続けるからだ。

咳を否定して止まるのであれば、否定すればいい。

咳を我慢して止まるのであれば、我慢すればいい。

または、さらに新たに身体を冷やし、空気を乾燥させ続ければいい。

それで本当に、あなたの場合、止められるのであれば、ね。

そんなことで咳が止まるはずがないとわかっていて、どうしてやるのか。

弱い自分なんて、認められないからだ。

どうして、病のときに弱かったら、いけないのだろう。

がんばって、無理して、弱って、病になって。

そうして、病人が、弱かったら、なぜ、許せないのだろう。

いいじゃない、病人のときくらい、弱くたって。

弱い自分でも、大切な自分じゃない。

今までの大切な自分は「何かが立派にこなせるから」大切だったの?

「ちゃんとできてる自分」だから、自慢げに、自分のことが大好きだったの?

そんな条件付きで、自分を見てたの?

100点取れるなら、いい子。言うことを聞いてがんばれる子は、いい子。風邪を引かない子は、いい子。

5点しか取れない子は、要らない。言うこと聞かない子なんて、キライ。風邪引くような弱い子はダメ。

そんな「○○できる」ことが条件で、自分を好きとかキライとか、判断してたの?

これ、もし親が、自分の子どもに言い続けてたら、ひどいよね?

条件付きでしか、あなたを愛さない、って言ってるんだよ?

今、あなたは、そんな仕打ちを、自分にずっと、繰り返しているのだ。

それで、そんな仕打ちを続けて、自分が立ち直れるだろうか?

違うよ。

弱った自分を、可哀想に、つらかったね、なんか理由があったんだよね、

病気なんだもんね、今はゆっくり寝て、体力を養おうね、食べたいもの、ある?

そんなふうに「いたわって」あげない限り、この病は、治らないんだよ。

脳が正常な状態に近づいていけば、「そうなった理由」や

「次から気をつけるためのポイント」なども考えられるようになる。

でも、マイナス方向にしか頭が働かないときは、どんなに自分を責めたって、

どんなに自分を追い詰め、叱咤激励したって、どうにもならないのだ。

だって、頭の回路が否定形になって、心も身体も重くなる病気なんだもの。

あなたが否定を続ける限り、あなたは、その病から脱することが相当、困難になる。

なかなか治らない風邪を、ずっとずっと引き続ける。さらに、ときには悪化させる。

本当に治したいのなら、今、自分が病であることを認めようよ。

今、自分が弱っていることを、ゆるそう。

病のときは、そんな自分であっても、いいのだ。

できないのはあなたの「意志がダメ」なのではなく、「病気」のせいだと、わかろう。

そんな自分を、ちゃんと病人のように、親切に扱って、心地よく過ごせるように気を配り、

しっかり眠れるよう、対策をとろう。血行をよくして、足元を温めて、睡眠薬だって、上手に使えばいい。

ご飯も、身体や脳の働きをよくするために、できるだけバランスよく、少しずつでも食べていこう。

本当に、自分がそこから抜け出したいのなら、自分を否定するのではなく、弱さを許し、いたわる。

どんなに遠回りに思えたって、自分に甘いように思えたって、そこから始めるしか、ないんだよ。

そこから始めれば、あなたは、弱い自分がいてもだいじょうぶになる。

それはつまり、あなたが、結果的には強くなるってこと。

その病にかかりにくくなる自分へ、変えてもいけるのだ。

そう、弱い自分を守り、いたわるようにすれば、きっと必ず、抜け出せる。

だから、もう、これ以上の否定は、自分イジメは、やめよう。やめていこう。

あなたという人は世界にたった1人しかいない、大切な大切な存在なのだから。

悲しいね

人は もしかして 自分を消す努力をする権利だけは あるのかもと 思うことがある

たとえば 知人ときちんと完全に縁を切り 山のなかで 誰にも関わらず

何十年も一人だけで生きて 自然とのみ関わって 一体化していれば

社会から離れ そういうくらしをしていれば そこで自然に 朽ちることを選択できるのかも と

でも 普通は そこまでの隠遁生活の努力は しない

必ず 誰かと関わりあって 生きていることになる

そうであれば 自分の味方が一人でもいるのであれば

自分だけが 苦しみから 逃れたいがゆえに

自死によって 味方をである人を 一生傷つけることが OKであると 思わない

あなたは 何の権利があって そんなふうにできるのだ?

本当は 自分が一番 自分をいじめ続けているのだということに 気づいているのに

その状況を 変えたいと 自分が叫んでいることに 気づいているのに

別の見方をすれば

自分が逃げたいから 人を 一生消えない苦しみに 追い込んでも構わないというのは

あまりにも 自分だけが かわいくて

あまりにも 自分だけしか 大切にできない

そういう ひどくわがままな 子どもでしかない

その思いが 病ゆえの あやまちであることでさえ

もはや見つめたくないと いうことなのだから

それくらい 苦しい思いを 今 あなたがしているのなら

どうして 自分の死によって 今のあなたの 同じ苦しみを

よりによって 大切な人に与えることが いいと思えるのか

あなたは本当に 大切な人を 今の自分の苦しみと同じ所へ追い込みたいのだろうか

自分が「そう信じ込む」ことによってでも なんとか 今の状況を変えたいのだということを

その 自分の叫びを どうして 無視するのだろうか

あなたは そんなにも 苦しんでいるのに

あなたは そんなにも 自分を変えていきたいと 感じているのに

どうして 自分のその声を 勝手に「自己否定」に変え 周囲を傷つけながら

すべて なかったことにするのだろう

人は どうして 病である自分を 認められないのだろう

どうして そういう自分を いつくしむことができないのだろう

小さい小さい 傷ついた自分を救えるのは 本当は自分自身なのに

少なくとも 病と向き合うことで そのドン詰まりの状況から 自分で 自分を変えていけるのに

それすらしたくなくて 周囲を巻き込み 傷つけても 自分だけが大事というのは

いったい 何を 守ろうとしているのだろう

そう あなたはいったい 何のプライドを 守りたいのだ?

傷ついた自分を 認めたくないというのは どんな幻想を 持っているのだ?

人より 自分より 大事な幻想って いったい何なのだ?

最後の最後で そんなものに こだわらなくてはいけないなんて 悲しいね

あなたの周りには あなたを 好きでいてくれる人がいるのに それすら わざわざ

見捨て 同じところへ落とし込んで傷つけるなんて そこまで幻想のほうが大事だなんて

命は 無限の可能性を もともと あなたに 与えてくれているのに

そこから変わって 新しい素晴らしさも いつかまた感じていけるのに

生まれてこのかた あなたは ずっと不幸でいた 不幸にさせられていたわけでもないのに

あなたが 自分が病であることを認め

その病を徐々に治し 新しくなろうと思うだけで

世界は今日から 変え始めていけるのに

最後の最後に 病の重さすら認めたくなくて 自分しか見たくなくて

大切な人のあなたへの優しささえ 思いやれない

最後の最後なのに それは本当に 悲しいことだね