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毛糸玉のほぐし方~その1 話すこと~

否定を繰り返すことをやめるために、現状を認識すること。

そのために自分の思考パターンを、見つめ直すこと。

先日からのブログのつづきのような話になっているが、そのガチガチにかたまった今のマイナスの気持ちを、

「見つめる」という作業について、具体的に話していこうと思う。

そのひとつめは、誰かに、自分の過去と、そのときの気持ちを話すこと。

これ、鬱の人には、とても「怖い」話だ。

だって、自分で自分を否定していて、そのために「死」さえ考えていることだってあるのに、

その「ひどい自分」を、打ち明けなくちゃいけないからだ。

「私はこんなにひどい人間です」と、宣言するに等しい。

でもね、本当に、今の現状を(あなただけが悪いわけじゃないよ、今の状態だよ)変えていこうと思うのなら、

あなたの「受け止め方」を変えなくちゃいけない。

そうでないと、いつまでたっても、あなたは自分を責め続け、いつまでたっても苦しいままだ。

薬は、変えていくときに少し気を楽にしてくれる「サポート」はしてくれるけれど、

あなたの考え方そのものまでは変えてくれない。

そんな、マインドコントロールできるような薬があったら、大変だ。

あなたが

自分で

自分を変えていこうと

決心しない限り

その本当の奥底にある「苦しみの原因」からは

抜け出せない

ということなのだ。

そして、奥底の原因は、思考パターンが固まっている今、自力で見つけ出すことはかなり困難なのだ。

鬱が回復してきて、自分自身が「柔軟に」ものごとを受け止められるようになっていたら、

そのときに読んだ本などで、気づけることもあるかもしれないけれど。

そこに至るまで、耐えること自体がつらいと思う。

信頼できる人、たとえばあなたのことを本当に心配してくれる友人がいれば、

その人に、「聞き役」を頼もう。それ以外の人については、あとで述べる。

基本的に「信頼できる人」というのが前提で、しかも「他の人が話を聞く心配のない場所」、

自分の部屋、広い公園のベンチ、など。自分がリラックスできる場所で、話そう。

たぶん、泣くからさ。

聞き役の人には、あらかじめ、お願いしておいてほしい。

「そうなんだ」「うん、うん」「なるほど」という相づち、

「あなたはそのときに○○だと思ったんだね」「○○と受け止めたんだね」という確認・気持ちの要約、

主には、この2つだけで、聞いてほしいと。

もし話が煮詰まって、進まなくなったときには、こう問いかけてもらう。「なぜ、そう思ったの?」

さらに話が煮詰まって、あなたが話せなくなったときにやっと、聞き手が感じた「違和感」、つまり感想をほんの少し。

説得はなし。非難も批判も一切なし。

どんなに「それは違う」と聞き手が感じても、今日は、聞き手側の意見説明はなし。

それを守りながら、聞いてほしいとお願いしよう。上記のことを紙に書いて渡すのも、いいかもしれない。

あとは、感じた違和感を、ときどきメモしておいてもらうとか。

あくまで、あなたが、あなた自身の力で、「思考をほぐしていく」ための、練習なのだ。

これらは「傾聴」、さらには「アクティブリスニング」、と言われる手法に当たる。

本当は、人に話をする場合、この先……もある。たとえば、だけれど、

見つけた奥のほうの気持ちに対して、あなたが、あなた自身に深い問いかけを行ったりする手法が。

でも、それは、心理学的な専門家が同席していないと、実は危険。

あなたが話しながら、つらさのあまりにだんだんヤケになって、あらぬ方向へ話が進んでいき、

自分にひどい言葉を叩きつけたりする、なんて可能性もあるからだ。

なので、まずは信頼できる人にただ、聞いてもらおう。

これだけでも相当に大変なので、そこだけを目指そう。

そこまで恥ずかしい(そう、自分の悪い部分を吐露するのは恥ずかしい)思いをして、やる価値はあるのか。

ある。

話を受け止めてもらう、ということが、どれほど、自分に力をもたらすか。

非難も批判もなく、聞いてもらうことで、自分がどんなふうに解放されていくか。

それは、実感してもらわないと、口ではなかなか説明できない。

できれば本当は、これを、信頼できる専門家に対して、やってほしい。

カウンセリングも引き受けてくれる医師か、プロのカウンセラー。
ただし、こういう過去の自分の汚点をさらけ出すわけだから、

相手の力量はもちろん、雰囲気や言葉遣いなどの相性も、関係してくると思う。

信頼できそうな病院やカウンセラーの探し方は、今なら、インターネットがある。

自分でホームページを開設している医院、カウンセリングルームを探す、

そこに書いてある「文章」の内容と雰囲気から、「時間をちゃんと割いてくれる」かどうかを確認しつつ、

この人なら、話せそうだな、という専門家を、探してみればいいだろう。

誰かのブログに、体験談が載っていたら、それも参考にはなるけれど、あなたの相性と、

その人の相性は別ものだから、体験者の意見も、鵜呑みにはできないと思う。

実力のある専門家の方は、そういうホームページでも、必ずきちんと、思いを語りかけている。

私の経験では、自前で精神科の医院やカウンセリングルームを開いている人のほうが、

そういう「意識」のようなものも、レベルも実際に高かったと思う。

会社が契約していた産業カウンセラーの若いお姉ちゃんが、一番最悪だったな……。

途中、何度か時計を見ながら話を聞かれたり、ちょっとだけ心理学的な話を説明したらおしまいで、

じゃあ次回は……だったり。気持ちがまったく、そこにない。私はあなたの練習台じゃない、と思った。

厳しい言い方だけれどさ。

そんな違和感を感じる相手は、担当を変えてもらうか、通うのをやめたほうがいい。

ただ、本当にプロ意識の高い方、レベルの高いは、原因を見つけ出すのがうまい。

話し手が自分で気づいていけるように、仕向ける技術もある。ちょっと挟む言葉や感想も的確で。

カウンセリングルームを出たあとで、その
実力の差に、驚いたもの。

あんなこと話せちゃった……という感じだった。

このアクティブリスニングと傾聴をしてもらうことで、自分がなぜ、

そんな方向にものごとを考えるようになったか、そのきっかけとなった経験や価値観、

昨日話したような「長所の裏面の短所」に、気づける。

この「気づける」ということが、ものすごく大事なのだ。

そのとき即座に、その思考パターンを止められるとは限らないけれど、

気づけば、少なくとも「ああ、バカだったなあ、自分」と、思えるようになる。

それは、変わっていくための第一歩。

ギリギリと自分を痛め・責めることなく、ほんわり、そう思えたら、

「次からそうならないように気をつける」という練習を、始めることができるのだ。

怖いことは十分、承知しているが、ぜひ、やってみてほしいと思う。

もうね、何より、その「解放感」と言ったら! 本当に、経験してみれば驚くと思う。

外に出たとき、景色までなんだかスッキリしてたもの、私。もちろん、ぐったりもしてたけれどね(笑)

多かれ少なかれ、何らかの「違い」を、頭だけでなく、感じられるのだ。

もうひとつの方法「書く」は、この応用で、自分が自分の聞き役もやる、ということになる。

詳細は、また明日。

「否定の否定」は肯定か

言葉の用法で、二重否定、というものがある。

たとえば「~ではないとはいえない」など。

否定を2回重ねることで、遠回しの肯定(はっきり肯定する使い方もあるけど)を表現するのだ。

「少なくとも、それは“~ではない”とは決まってないよ」くらいの感じ、と言えばわかるだろうか。

否定というのはそんなふうに、いろいろなニュアンスを持っている。

さて。

私たちが自分を変えたいと、思うときに、2つの言葉をよく思い浮かべる。

「このままではよくない」

「こんな自分じゃダメだ」

である。

この2つは、似ているようだが、実はイコールではない。

丁寧に見てみるとわかる。

「このままではよくない」というのは、自分を取り巻く環境を含む。

起こっている出来事……つまり周囲との関係や、誰かの言動によって起こった「状況」を指す。

その現状に自分も関わっているが、あくまでメインは相手や環境を含んだ今の「状況」である。

自分はそこに、巻き込まれているという認識だ。

そう書けばわかるだろう。それに対して「こんな自分じゃダメだ」は、

自分がとった行動・自分の考え方、受け止め方、あるいは感情のみを指す。

周囲がどんな影響を自分に与えているか、は、そこから排除される。

あくまで視点は自分の内側にのみ、向かう。

あなたが「いけない」ことになったのは、あなた一人が何かをしでかし、あなた一人が勝手に判断し、

周囲からは何も影響を受けず、一人芝居のように、そうなっていったのだろうか。

「周囲のせいにしたくない」というのは、確かにステキな心がけだと思う。

卑怯な自分になりたくない、という自負でもあると思えるから。

でも、本当にあなたが「一人で勝手に悪いことを考え、悪いことをしている」のか?

たいていの場合、「悪い出来事」や「悪い環境」が、そこにあったのではないだろうか?

それなのに、あなたは自分「だけ」を否定する。自分「だけ」を悪者と捉え、

自分「だけ」が頑張ればなんとかその状況を打破できる、と思う。

本当に? 本当に100%、すべてそれで解決できる?

あなたは山の中でひとり暮らし? いや、山の中であっても、自然という環境によって

あなたの「できる・できない」は左右されるから、自分以外の環境がない、という状態はそもそも設定できないか。

どうして、「自分はダメだ」が出発点になるのか、そのきっかけは、人によって違うだろうけれど、

たとえば私はそれを「だからがんばらなくちゃ」に発展させ、

さらに「がんばらないと、認めてもらえない」に置き換えていった。

誰に認めてもらえないか? 親に、友達や先生に、社会に、世間にである。

たまたまそれなりに、がんばれていたときはよかったけど、鬱になったら即アウトだ。

自分でよし、と思える言動をとれないんだもの。そりゃあ、全否定になるよね。

自分がダメ、という否定を重ねても、こんなふうに発展して拡大していくだけで、

言葉の用法のように、肯定に結びつくことはまずありえないのだ。

「このままではいけない」のほうが、まだマシ。

自分を含めてはいるが、環境・状況の、何がいけないかを見渡しているから。

自分がいけなかった点と、周囲の「何か」がいけなかった点を、見つけていこうとしているから。

それはある種の「現状認識」につながるのだ。

視点が内側のみに向かうと、現状認識さえできなくなる。

起こる出来事はすべて、自分の考えや気持ちの揺らぎのせい。

周囲の言動や状況は、無視、とまではいかないけれど、とにかく「自分のいけない点」しか見えない。

そのうち、いけない点ばっかりが増えて「やっぱりダメ」「やっぱりダメ」を繰り返していくうちに、

自分が大嫌いになるのだ。もうこうなると、逃げ場がない。

24時間、際限なく、いつでもどこでも自分のなかで自分を痛めつけているわけだから、本当に苦しい。

だから私は、それを感じたくなくて、ひたすらひたすら、寝続けたのだ。睡眠薬の力も借りたりしながら。

その罠にはまっていると気づかない限り、そこから抜け出すことは、相当に難しいだろう。

さて。

また少し話を変えるけれど、イメージトレーニング、ってあるよね。

主に、アスリートの世界などで使われている練習法だけれど。

あの方法には、身体と気持ちの関係、にまつわるヒントが隠されている。

イメージトレーニングをする人は、「うまく対処できている自分」をイメージする。

ただぼんやりと、場面を想像するだけではないのだ。

自分がよくやるミスや欠点は、自分で把握しているから、

それが表に出てしまいそうな場面で、上手にそれを修正できて、

うまくできる自分を想像するのだ。

水泳なら、泳いでいる自分のフォームだけでなく、筋肉の伸び具合、呼吸、身体に感じる水の抵抗の具合、

隣のレーンからの波や息遣いなどまで想像に含める。

相手がいたり、チームプレイの場合は、自分と相手、チーム全体、

さらには相手チームを含めた状況までイメージしたりもするそうだ。

自分がどう動けばいいか。自分がどんな演技をするか。どんなふうに、試合が展開していくか。

実際の試合は、毎日、何十回も開催されるわけではない。

だが、さまざまな場面を想像し、イメージのなかで自分をうまく対処させることによって、

「実際に何十回もクリアしたことを脳に信じ込ませる」ことができるのだ。

このときに一番大切なのが「うまくいっている自分」である。

否定の話は、ここに関係してくる。

うまくいっている自分を何度もイメージし続けることで、実際にうまく動けるようになるのであれば。

うまくいかない自分、うまくいかなかった場面を何度も繰り返しイメージし続けることは、

実際に、失敗を繰り返す自分を作り出しはしないだろうか?

少なくとも、「また失敗したら……」と思った瞬間、人は、怖くなって上手に動けなくなる。緊張もする。

そうすると、失敗する確率も増える。上手にしゃべることができず、相手に伝えられなくなったり、ね。

恥をかきたくない気持ちはわかるけれど、少なくとも「対処できるようになるまでの慣れ」は必要じゃないだろうか?

そして、その「慣れ」のためにイメージトレーニングが利用できるとしたら。

あなたは今、まさに、まったく逆のイメージトレーニングを、毎日、自分に繰り返していることになるのだ。

現状を認めてほしい、今の自分を「そういう状態である」と、“肯定も否定”もせず、ただ、みつめてほしい。

私がいろいろな角度から何度も言ってきたのは、このイメージトレーニングや緊張という話に近い。

少なくとも「否定の繰り返し」をとりあえず、やめてほしいからなのだ。

そう。今は、確かにダメだ。でも、あなたがダメなんじゃない。「今の状態」がダメなのだ。

あなただけが変であなただけが悪くてあなただけのせいで、そうなったのではないのだ。

今のつらい現状を、何より自分が認めたくない。そうやって「自分で自分を否定し続ける」がゆえに、

今の苦しさを長引かせ、さらに自分にとってより深く、つらく、きつくしてしまっているのだとしたら?

もう、それは、そんな「自分の苦しめ方」は、さすがにやめてもいいんじゃないかと思う。

うまく対処できる自分をイメージできる方向へ、「世界」を切り替えていっても、

ゆるされると思うのだけれど、どうだろうか。

切り替えていくための方法については、私の経験した例を話してみたいと思う。たぶん明日……。

願い、という形でのサポート

昨日のブログの中で、あえて書かなかったこと。

私は、だいじょうぶ、と、あなたに何度でも言い続けられる。

でも最終的には、あなたが自分自身で「だいじょうぶ」と思えるようになることを願っている。

そうでないと、本当の効果が現れないことも“知って”いる。

その部分が少し、矛盾しているように感じられた方もいらっしゃるかもしれない。

でも、私の「だいじょうぶ」の言葉は、いつかあなたが「だいじょうぶ」と思えるための、サポート、なのだ。

どんなに、今は信じられなくても。

生きていくうえで波が起こると、いいほうにも作用することがある。

そんなタイミングで、もし、「だいじょうぶ」と思えるようになっていけば。

そこからまた、変わっていけるように、感じているのだ。

少なくとも、自分自身が、そういう感覚を得たことがあるから。

私には、「最終的にあなたを救う」力はないけれど、

そんな教祖様みたいな力は持ち合わせていないけれど、

必要なときに、必要なタイミングで、あなたの心に何かが届くことを祈っている。

だいじょうぶ、という言葉は、そのひとつなのだと、自分では感じている。

願いは、ときに力になる。

無理のない形で、必要なときに、必要な言葉があなたの側にたたずんで、

あなたをサポートすることができることを、私は願う。

そういうつもりで、これからも記事を書いていこうと思っている。

それは私にとって、これまで関わってくれた人への恩返しでもあるのだ。

どうか、あなたのペースでいつか、あなたが幸せになっていけますように。

その気持ちをこめて。

出会って読んでくださったことに、感謝します。

今までもこれからもずっとこの思いは続くけれど、

今日、ここで、このことをお伝えしたく感じて、記しておきます。