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追伸~だいじょうぶ、のその中身

私がいう「だいじょうぶ」は、ガチガチに自分を否定して、

「これじゃダメだ、変わらなくちゃダメだ」と無理を続ける自分を肯定しているのではない。

そんなことしなくても、まずは今の自分の「現状」をゆるしてあげて、だいじょうぶ、だと言っているのだ。

少なくとも、あなたはこの病によって、2つの学びをすでに得ている。

私自身が今、自分に対し捉えていることでもあるけれど。

ひとつめ。

他人からどんなに「だいじょうぶ」だと言われようが、逆に「早くなんとか治せ」と言われようが、

あなたの心に、それは「他人の意見」としてしか、届かないということ。

自分のことを「だいじょうぶ」と最終的に思えるのは、あなた自身しかいない。

身体や心の具合も、治っているかどうかという感覚も、あなたのことはあなたにしかわからないということ。

最終的には自分自身、自分次第なんだな、ということは、痛感していると思う。

ふたつめ。

これまでのあなたの考え方。自分を否定し、なんとかしなくちゃ、と思い、否定形のままで

がんばってがんばってがんばって、やっていく。その方法は、うまくいかないんだとわかったはず。

だって、自分を否定しているのだもの。

その否定をガッチリ、固めて持ってしまっている心のどこに、

幸せになれる「よい自分」「好きな自分」を入れられるのだろうか。

何かを入れるためには、そこに、ゆとりがなくちゃいけない。

あなたは今まで、否定形でパンパンで、そのゆとりのことを、まったく考えてこなかったのだ。

否定形のままでひたすら、「ダメダメ、もっと頑張らなくちゃ」と突っ走ると、自分を最後には壊したくなる。

だって、うまくいかないんだもの、その方法。

自分を変えたいのであれば、何よりまず、現状を「そうである」と認めること。

病にかかった自分が、そこにいるということ。

それでも、生きてきたし、今も生きているのだということ。

食べるもの、寝るところはなんとかなり、自由な時間もある。

人間としての最低の尊厳は少なくとも守られているのだということ。

現状を認識して、そこから原因を分析していかない限り、改善は生まれない。

うまくいっていない、その状況を認めず、試行錯誤だけして改善に成功するなんてことは、

ビジネスの世界でさえ、ありえない話だ。

そして現状を認識するということは、「今、その状態であることを自分に認める」ということだ。

ああ、こういう自分がいるな、仕方ないな、こうなっちゃったんだから、と、ゆるしてあげることである。

弱い弱い、ダメダメな自分を、「ああもう、つらかったねえ」って、抱きしめてよしよししてあげることである。

いつでも、どんなときも、そのままのあなたでいいのだ。

いつでも、「今」という瞬間に、あなたは、ありのままであっていいのである。

それができて初めて、否定でいっぱいの気持ちから、その「否定形」を少しずつ、吐き出すことができる。

否定の気持ちが減れば、今度は、肯定の気持ちも入ってきやすくなる。

とくに鬱になっている間は、物理的な失敗もしやすいだろう。

眠れなかったりもするし、仕事などでもミスもするし、頭も回らなかったりするだろう。

でも、それもすべて、先へ行くための経験である。経験でしかない。過ぎ去っていくものだ。

それを、ゆるすこと。これは今まで、やってこなかった方法だと思う。

いまの現状で、それでもあなたの周りにあるもの。

それがあると、理解できること。それに支えられていると、感じられること。

そういう自分であっても、生きてきたし、生きているということ。

そうした肯定感を新しく、無理なく、徐々に、自分の中に認めていってほしいのだ。

少なくとも、今までのやり方ではうまくいかなかったのだから、方法を変えてみる価値はあるだろう。

自分を甘やかす、のではない。努力したければ(当然したいだろうが)、別にしてもいい。

でも、どんなときにも、どんな状況にも、それが今、現状であることを、ゆるしてあげていいのだ。

ガチガチに無理したり、突っ走ると逆に悪化することも、きっとすでに実感として学んでいるはずだから。

失敗し続ける自分であっても、その都度、今はそれでOK。だいじょうぶ、よしよし、って思っていいのだ。

本当に、今は、それだけでいいのだ。出発できるのは常にそこから、なのだ。

今のあなたが、どんなあなたであっても、だいじょうぶ。

だいじょうぶだと思えるからこそ、現状を認識・把握できるからこそ、

やがて、改善策も生まれていく。

そういうふうに、「だいじょうぶ」を使ってほしいと、心から願う。

たとえどんなにあなたが否定しても

今日はイレギュラー的に朝の更新。書きたくなったので、書きます。

あなたは、自分がダメだという。

何かが起こったからかもしれない。

そんなものはなく、不安に包まれたからかもしれない。

でも、私は何度でも言う。

「あなたは、だいじょうぶですよ」と。

数回言われたくらいじゃ信じられない、と言うなら、100回でも、1000回でも言う。

100万回言われないと信じられない、と言うのであれば、1日100回ずつ、あなたに伝えていくだろう。

毎日それを続けて、ざっと27年半くらいかかると思うけれど、伝える覚悟はある。

なぜそこまで言い切れるか? 私は、意志の力を信じているからだ。

私が鬱の状態から脱していくためにいろいろな本を読み漁っていたとき、ある医師のエピソードがあった。

その医師がいる病院に、毎年、健康診断に来る年配の女性がいた。

彼女は消化器官の調子が悪く、ずっとガンを疑っていた。

検査をしてみても、調子が悪いだけであり、ガンの兆候は見られなかった。

そこで毎年、彼女にガンはみつからないと伝えていたが、彼女はその結果を信じなかった。

15年後。彼女の健診で、初めて、消化器官のガンの疑いが見つかった。

そのときに彼女はこう言ったそうだ。

「ほら、私の言ったとおりだったじゃない!」

さて、この場合。

15年間ずっと疑い続け、自分はガンに違いないと思い続けてきたことは、

彼女の身体に、影響を与えなかっただろうか?

本当に15年間、検査の仕方が悪かったのだろうか?

少なくとも言えるのは、彼女が単に、検査の結果を信じなかったのではない、ということ。

もっと積極的に「自分がガンであること」を、15年、もしくはそれ以上、信じたのだ。

私がこのエピソードを覚えているのは、彼女が長年、そうした“努力"を続けた結果、

ガンが生まれた可能性を否定できない、と思えるからだ。

何か、自分が上手く行動できなかったがために、つらい出来事があなたに起こったとき。

あなたは、自分のことを「ダメ」だと思うだろう。

それは別に、珍しいことではない。他人に責任を転嫁するタイプの人でない限り、誰でも思うことだ。

あなただけが特殊なわけではない。

にも関わらず、あなたはこの先の将来すべてを、否定する。

そこには、何の根拠もない。まだ何も起こっておらず、何も失敗していないのだ。

であれば。

あなたが、自分を否定する、これから先ももう私はダメなんだと思う、その感覚とまったく同じ意味合いで、

私は、あなたに「だいじょうぶ」と言うことができる。言い続けることができる。

あなたが過去の失敗にのみ根拠を置いて、あるいは根拠なく自分を否定できるのであれば、

私は未来の可能性に根拠を置いて、あるいは根拠なく、あなたを肯定できる。

過去は変えられないけれど、未来は変えられるから。

あなたが自分を意味なくダメだと思う状態と

私があなたを意味なくだいじょうぶだという状態に、

どんな違いがあるというの?

自分をそこまでずっと、否定し続けられるだけの「力」が、あなたにはすでにある。

であればまったく同様に、自分をずっと「だいじょうぶ」と思ってあげられるだけの「力」も、

すでにあなたには備わっているということだ。

あなたが、気づいていないだけで。あるいはそれを、見ようとしないだけで。

つまり、たとえどんなにあなたが自分を否定し続けても、

私はあなたが否定すればするほど、確信を持てるようになるのだ。

あなたには、そういう力がすでに備わっていることを。

それを実際にもう、今、発揮しているのだということを、目の前で確認できることになる。

ダメだと信じたからこそ、あなたは弱った。現状もそのように変化した。

であれば、だいじょうぶと信じていけば、変えられるのだ。鬱だけではなく、その現状をも。

だから言う。何があっても、何が起こっても、これから先も、あなたは、だいじょうぶ、なんだよ。

信じられなければ

自分で、自分のことを信じられないときは苦しい。

誰かに、「あなたはだいじょうぶだよ」って代わりに言ってもらいたい。

言ってもらえたら、そうかな、と思えるかもしれないのに。

でも、本当は、誰かの言葉で完全にそう思うことは無理。

自分が信頼できる人から、どんなに真摯に「だいじょうぶ」って言ってもらっても、

心のどこかに、どうしても「本当かな……」という思いが残る。

だって、自分はまだ、自分のことを、信じられていないのだもの。

この苦境の中から、私はきっといつか、抜け出すことができるって、

自分自身が、信じることができずにいるのだ。

周囲に、自分の苦しみをも、わかってほしい。

自分のことを、信じてほしい。

つらいときにそう思うのは当たり前の話で、それはあなたが弱いからではない。

人は誰だって、苦しいときに助けを求める。

そしてそれは、別に間違いでもないのだ。

ただ、どんなに言葉を尽くして、あなたの良さを語ってもらっても、

たとえ「そういうあなたを愛している」とさえ、言ってもらっても。

自分の今の苦しみは、減ることはあっても、消えないのだ。

シンデレラのように「幸せに暮らしましたとさ」とはいかない。

そもそもシンデレラだって、ガラスの靴が自分のものと知れ、

夢心地で城に迎えられた、その後では苦労はしたと思うよ。

教養もマナーも全部、一から学ばなくちゃいけないし、

相手は本物の王子様で、当たり前のようにそういう世界で育ってきた人で。

身分差、どころの話じゃないよね。

愛があれば「それでも幸せ」って思えるけれど、それって決して「夢心地」な生活ではない。

そう、たとえ願いが叶っても、それもまた経験であり、通過点でしかないのだ。

最後には、自分が自分を救う。そのことは、どうか、わかって欲しい。

周囲の助けも、いっぱいいっぱい、借りていいと思う。

優しくしてもらったり、心の解きほぐし方を教えてもらったり、実際に手助けしてもらったり、

いろいろな方法で、煮詰まっている今の状態を変えてもらう助けは、借りていいと思う。

でも、本当の意味で、自分を救うのは、自分自身。

自分で自分を、信じてあげることが、一番、心や身体には効く。

完全に100%信じられるまでには時間がかかるかもしれないけれど、

自分で「だいじょうぶだよ、私。がんばっていこうね」って思えることが、一番いいのだ。

理想の自分でなければ、自分ではない。

何かが欠けている今の自分はダメで、本当はこうあるべき。

そんなふうに自分のことを決めつけて捉えていたら、

いつまで経っても、自分を信じてあげることなんてできないだろう。

親は、子の成長を見守るものだ。

小さな子どもが今、上手にできなかったからといって、

この子は一生、もうダメだ、生きている価値がない、と、決めつけるだろうか?

あなたは、いったん痛んで「ダメになった」と思える自分を、育てていく親でもある。

時間がかかったとしても、自身の、この先の可能性を信じてあげて、温かく見守ってあげるのだ。

そうすることでやっと、これまでの生き方から学びを得て新しく生まれ変わろうとする自分が、

勇気を持って、新たに変わっていく方向へとチャレンジできるのだ。

すぐには上手くいかなかろうが、何だろうが、あなたは、変わりたいはずだ。

こんな自分のままで、一生いたくはないはずだ。

であれば、自分を卑下し続け、否定し続け、ダメだと決めつける今の気持ちのサイクルを、

どこかで止めなくちゃいけない。

今、弱いままの自分が、ここにいる、と。

これからこの、小さな小さな弱い自分が、新しい方向へ育っていこうとしている、と。

そのことを、自分の未来を、可能性を、自分自身が信じられなければ、

他の誰に信じてもらったとしても、あまり意味はない。

信じてくれた相手に向かっていつか、「だって私は」と、自己卑下することになってしまうだろう。

そこから、今の状況から、抜け出したいと思うからこそ。

小さな弱い自分を、「今までも頑張ってきたよね、うん。よし、これからも

一緒にやっていこうね」って、見守ってあげる必要があるのだ。

挫折しようが、失敗しようが、それこそ「いつでも 何度でも」、認めてあげるのだ。

自分が自分を信じてあげること。それは実は、誰にでもできる。

弱い自分が今、いるんだな、って本気で思えれば、その弱い存在を許してあげればいい。

変化の過程で弱くなってしまうことは、十分、あり得る話じゃないか。

どんな自分でも、自分で好きになってあげて、いいんだよ。

その弱い自分を信じてあげることは、本当は、誰にでもできるのだ。