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思うようにならないもどかしさ

思うようにいかない、すすまない、できないという気持ち。

焦りと、自分へのイラ立ちと、がっかり感と、周囲への八つ当たり的な非難。

そういう気持ちが表れたところで、鬱のときには実際、すぐには動けない。

すぐには、切り替えることもできない。

よけいにイライラする。

他の人がそうなっているところを、遠くから見たら「ま、でも仕方ないよ」って

冷静に思えたりもするのに、自分自身だと、どうしてそう見られないのだろうか。

不思議だよね、本当に。

治らない、と思っているから?

いつ治るかわからなくて不安だから?

そんな自分は自分じゃないから、やっぱりどこかでゆるせない?

少なくとも私の場合は、なんだか、そういうものが入り混じっていたような気がする。

でも、考えてみたら、今まで自分の身体を自分が支配していたかのような感覚があって、

その感覚って、本当に正しかったのかな、と思う。

私がこの身体を持っているのは私の意志じゃない。

前にも書いたけれど、自分がどうしてこの「身体」になったのかは、子どものころから不思議だった。

周囲の人と違うこの身体の中(?)に入っている自分って、何だろうか、と。

そして、身体や心が「言うことを聞かない」ようになって初めて、そうか、身体も心も

自分で全部コントロールできるわけじゃないんだ、風邪などの病原菌がいなくても……と、

やっと、離れたところから自分を見直すような、これまでとは別の感覚になっていけた。

正直、コントロールできないことを自覚し、自分を少し離れて見続けるようになっていくには、時間がかかると思う。

身体や心は全部がが自分のものではない、いや、それも自分の一部ではあるけれど、

決して自分の勝手ですべてを思うがままに支配しきれるものではない、ということ。

無理をさせれば壊れるんだ、という感じで、少し、いたわることを「日常化」させていくこと。

仲間のような存在として、一緒にやっていくんだ、というふうに見つめなおすこと。

たとえば私の低血圧もいまだに治らないし、それ以外の症状も出ないので、相変わらず原因は不明のままだが、

この症状は、私にとってはそういう離れた視点、

まるで「仲間」のようなものである、という感覚を育てるのには役立った。

ヘンな言い方かもしれないが、今の私には、そういうふうに思えている。

もどかしさや悔しさやつらさから離れていくために、何か、自分なりのそういった視点を持ってもらえたら、

もしかして、少しずつでも楽になっていけるのでは、と思う。

格好をつけたがるあきらめの悪い自分

今日は自戒と反省をこめて書くことになると思う。

自分が、どうして鬱になったのかを考えたとき、

結局、私は「社会的にいい顔をしたかったんだな」と思った。

学校で例えるなら「何でもできる優等生」、

あるいは「頑張って努力してスポーツで伸びていく子ども」。

すごいね、って言われることとか、頑張ってるね、って言われることとか、

そんなこと、そんなふうにできるの! って言われることが気持ちよかった。

それを周囲から言ってもらいたいがために、頑張った。

幸せに、楽しく生きていくために、お金があったほうがよくて、

そのために仕事をしているはずなのに、

いつのまにか「完成品のレベルを上げること」だけに執着して、

そこに行き着くまでは、どんな無茶でも無理でも、自分に強いた。

いい格好、したかったの。

社会に対して。会社に対して。上司や後輩やクライアントに対して。

そうやって認めてもらうことが「心地いい」と思ってた。

また、それが仕事のレベルを上げるってことだ、とも思ってた。

そりゃあ、人より倍、働くよ。

そんな働き方したら、会社では重宝されるよ。当たり前だ。滅私奉公だもの。

自分のペースなんて省みずに、ただ、格好つけたくて、やってたんだんもの、ひたすら。

しかもそれを1回やったら、次はまたレベルを上げていく。

これができたんだから、次は別の工夫をしなくちゃ、って、決めつける。

もう、できるようになったことは「当たり前」と見なして。

そう、ある意味「人間」じゃなくて、ほめてもらいたい「機械」。

生き方が、そんな感じ。

ビジネスの世界で成功して大物といわれている人たちは、もちろん、困難に立ち向かってきた。

でも、その困難をどこか、楽しんでた。

それは、言い方を変えれば「楽しめる範囲の苦労」を選んでいる、ってことだ。

楽しめる範囲で、ペースで、向かっていく。

延々、自分が疲労困憊してグッタリするほど、自分が自分じゃなくなるほどの(という言い方は

大げさに聞こえるかもしれないけれど、仕事そのものが人生になるとそれに近い)働き方、ではない。

人生の中に「仕事」という要素があって、それはそれで楽しむ。

他にも、愛や友情や家族や趣味などがあって、それと同じように楽しむ。

仕事を、他と同じような感覚で楽しめるからこそ、長く続けられるし、アイデアも湧くし、成功し続けていけるのだ。

その日の仕事が終わり、翌朝も「さあ、やるぞ!」ってモチベーションを上げられるのは、楽しいからだ。

私のように、結果的に表面的な「社会の顔」をよく見せたい、なんてやり方をすると、無理が来る。

だって、それは見栄だもの。高級な服や車と同じ。単なるステータスだ。

この「格好をつけたがる自分」は、なかなか、捨て去ることができなかった。

仕事を頼まれたら、やっぱり限りなくきちんとやりたくなって、まあ、それが一瞬だけならいいんだけど、

また「自分」のことを脇に置いてしまってた。楽しい、と思える範囲を越えたやり方をして。

仕事に復帰したとき、無理したら壊れる、と、どこかでわかっていながら、やってしまった。

面倒な仕事を、過去の経験と立場上から少しだけ回されたら、ガッと張り切って。

もちろん、ポンコツ車はあっという間にエンスト。

そのあとは、ただボー然としてた。

「ああ、無理、アクセル踏めないんだ、私」って、やっと、やっと、そこで気づいて。

「格好つける」「社会にいい顔して満足する」ことを、自分であきらめられなかったがゆえに、

さらに長期の再休職、である。おバカだね~。

仕事は、仕事。そこにいる自分は、自分の一部分でしかない。

私は、そこだけで幸せになる必要もないし、実は、なれるわけでもない。

友人との語らいや好きなものに囲まれる幸せや、そういったもの全部が、私にとって大事なのだ。

仕事の達成感なんて、自分にとっての幸せの一面でしかなかったのに、気づけなかった。

仕事に対し全力投球する、でもあくまで、楽しんでやれる範囲で全力投球する。

そういう自分にとってのバランスが、つかめなかったのだ。

さすがに今は、仕事の面での幸せは、それこそ「一部分」でいいのだ、と思えている。

自然を感じたり、友達と語り合ったり、おいしいものを食べたり、音楽や本や映画を楽しんだり、心地よく寝たり。

そういう部分も楽しみ、仕事も、楽しめる範囲にとどめる。それ以上の「苦しみ」を与えない。

どうせ放っておいても、きっと頑張りたくなるのだ、私は。

昔から、課題が来ると、ワクワクする性分なのだ。

じゃあ、そのワクワクを「身も心もグッタリ」にまで発展させない範囲で、持続させよう。

最初から最後まで、自分が楽しめるやり方、ペースを見つけていこう。

最初から最後まで、楽しめる自分になりたい。

今は素直にそう思えているし、社会的地位云々、格好つけ云々は、もういいんだ、と本気で思えている。

ここにくるまで、えらく長い時間がかかったなあ、と思うけど、

つまりはそれだけ、私が不器用ってことなんだよね……。

そこに意味はある

今日は抽象的な書き方になると思いますが、お許しください。

今、自分の身のうえを通り過ぎている経験。

どうしてこんな目に、と思える経験。

死をもってでも、変えたい、この状況をなんとかしたい、と思える経験。

そこに、意味は、必ずあります。

病などで寝たきりの方が、周囲に、生きる努力と誇りと素晴らしさを、伝えることができるように。

まさに天使のように、命のことを、教えてくれるように。

あなたが自分で「考え」て、意図的に周囲の人へ、何か意味を「与える」のではなく、

周囲は、自分で何かを感じ、受けとめていきます。

だからといって、周囲の人のために、今、あなたが苦しんでいるわけでもありません。

あなたは、未来のあなた自身のために、今、そこを通過中なのです。

そんなつらい道をわざわざたどる必要はなかった、と、思う場合だってあるでしょう。

でも、そこで見た景色は、あなたに影響を与えます。

たとえば心を痛めた人は、この先、確かに、人の心の痛みに、敏感になれるのです。

人の心は、もろさを含んでいます。

同時に、そのもろさを越えて、何かをつかんでいく強さも、含んでいます。

どの道をたどるかは、別に、どの道だっていいのです。

学びのない道は、たぶん、ないのだと思えます。

周囲の人が幸福で、何も問題がなさそうに思えても、

それは問題の部分を、その人が「隠している」からかもしれません。

1人の人間の心の奥で感じられることはさまざまにあって、

他人が、すべてを推し量れるものではないのです。

であれば、どうやって正確な比較など、できるでしょう?

あなたと他の人の幸・不幸を、正しく比べることは、可能でしょうか?

どんなにあなたが史上最大の不幸に見舞われていたとしても、

世界中で、今、まさにこのタイミングで、もっと悲惨な目に遭っている人がいるかもしれません。

不幸自慢をしてもキリがない、というのは、そういうことなのだと思います。

ひとつだけ言えることは、どんな経験であっても、糧には、できうるということ。

最終的に「学んだ……」と思えるまでには、時間がかかったとしても、

あらゆる経験は、あなたという人間にとっての、糧にはなりうるのです。

どうやって糧にしていくのか、どうやってそれを越えていくのかも、人それぞれです。

誰かのやり方が自分にピッタリ当てはまる、というケースは、そうそうないでしょう。

だからこそ、人と人は、影響し合っているのだと。

誰かの経験を見て、知って、そこから勝手に、自分に役立つものを、拾っていけるのだと。

そういう関係の形に、なっているのだと、思えます。

自分にひどい仕打ちをする相手がいたら、その人を恨むかもしれません。

でもその相手は、実は、自分で自分にムチを打っています。

本人が気づかなくても、残念ながら、そうなっていくのです。

その傷は、いつかどこかで、現れていくでしょう。

人間関係で、あるいは、社会的な立場で、あるいは、金銭的な問題で。

何か、問題が起こっていきます。そのままでは、いられません。

同様に。

あなたもまた、決してこの先、今のままではないのです。

何かを見て、何かを知り、何かをつかんでいきます。勝手に、そうなっていきます。

幸せな人が次に不幸になるとか、そういう話をしているのではなく、

少なくとも幸せに「慣れる」段階で、別の変化が現れていくようになっている。

表面上、何も変わらないままであれば、きっと「退屈」という形の変化が、現れていきます。

日々、変わっていくこと。

仏教の教えとして心得るまでもなく、それは事実です。

であれば、求めていきましょう。

方法は遠回りになるかもしれないけれど、人によって学び方も違うけれど、

そこに意味は必ずあるのだから、その意味を、求めていきましょう。

あなたに、それを「糧」にできる力があるからこそ、

あなたはそれを経験しているのだと、私には本気でそう思えます。

自分で自分を、気持ちのうえでの病にしてしまうくらいの力がすでに、備わっているのだから。

ほんの少しずつであっても、求めていく、という気持ちがあれば、

人は、あらゆるつらさを越えていけるのだと。

そういう存在であるのだと、今の私には、思えます。