カテゴリー別アーカイブ: 苦しみ

やるべきことと、やれることと。

鬱になった人は、自分が「もうできない」「元に戻れない」ことを思い、

それだけですごく、暗い気持ちになると思う。

自分に対しても、誰かとの関係でも。

たとえば誰か相手がいた場合、まったく元通りになれるかどうかは、

「あなたひとりでは決められないこと」なので、それについての“絶対”はない。

ただ、あなた自身が「元通り」になっていく……という言い方だと、実は語弊があるのだが、

少なくとも、今の状態より復活して、あなたの思う「普通の日常生活」を

取り戻していくことは可能である。

それは、あなた自身が変えていける範囲であれば、可能なのである。

新しい感覚の「普通の日常」を手に入れる、と言ったほうが、わかりやすいだろうか。

病気になる前の状態を望む人も多いそうだが(私も確かに、最初はそうだった)、

それでは「繰り返し」になるだけである。また、どこかで何かが無理になっていって、

あなたは自分を痛めつけてしまう。

その、「痛めつけてしまう」習慣は、もう外さなくてはいけないのだ。

そしてそういう習慣こそ、あなたがまさに鬱になってしまうほど、

何らかの「こだわり」「関心が」が大きかった部分なので、外していくのが苦しい。

「苦しいに違いない」「できない」「それだけはイヤ」と、感じる人もいると思う。

たぶん、あなたの生き方や価値観にも、関わっているはずだから。

でも大丈夫。人は、苦しまずに変われるのだ。

目の前の仕事や勉強、人間関係など、「やらなくてはならない」と思っていることを、

前のようにサクサクとこなすことは、確かに難しいだろう。

足を複雑骨折した人は、元通りに歩けるようになるまでに時間もかかるし、練習もしなければならない。

新しい神経回路をつくり、それによって動かす練習が必要な人もいるだろう。

そう、何もかも、元通りでなくていいのだ。すぐにガツガツ、サクサク、でなくてもいいのだ。

普通に暮らしていたって、人は変化していく。のんびり暮らしている人でも、

毎日が完全に、完璧に繰り返しになれば、それこそつまらないだろう。

会社と自宅の往復……という生活であっても、仕事の内容は変化していくし(完了→次、というふうにね)、

周囲の人も、環境も変わっていく。

マシーンのように単調ではないからこそ「人生」なのだ。

あなたが「やるべき」ことはたぶん、目の前の仕事や人間関係、ではない。

そんなものは、心が痛んでいる今「できる範囲でこなす」だけでいい。実際、それしかできない。

本当に「やるべきこと」は、痛んだ自分を回復させること。

「回復」という形で、新しい「これで良し」と思えるやり方を見つけることのほうが、もっともっと大切だ。

ものごとや人間関係を、楽しく受けとめられること。あなたが、そう感じられるようになること。

「もう一度、人生の小学校、1年生に入学しました」くらいの気持ちで、前のやり方にこだわらずに、探すこと。

やるべきは、それだけなのだ。

小学校1年生が、6年生の問題を解くのは難しい。

でも、絶対に解けないわけではない。

遅々として進まない状態に、苛立つこともあるだろう。

目の前の問題が、高校入試レベルくらい、難しく感じることもあるだろう。

でも、できるのだ。それは本当に、できるのだ。

あなたが自分を、あきらめさえしなければ。

自分を見捨てさえしなければ、新しい解き方を見つけて、進んでいける。

世界の人口は約69億人、だそうである。

つまり69億通りの環境があり、生き方、やり方、進み方が、今、現実にある。

1回や2回、10回、あなたが「間違えた」と思ったところで、69億通りもの例があるのだから、心配しなくていい。

少しずつでもやれることを、学んでいけばいいのだ。

本から、映像から、人の言葉から、そう、少しずつ。

あなたは、やれることをやればいいし、

自分をもっといたわって、大切にしていけばいいのだ、これからは。

これまでの自分もがんばってきた。

でも、もっと明るい方向へ、楽しくてラクなやり方で、生きてみようよ、これからは。

そうやって生きて、いいのだから。

なぜうまくいかないのか、と思う人へ

死の選択肢が目の前にある人も、そこから少し離れることができた人も、

さらにもっと離れてはいるけれど鬱の人も、病にまでは至っていない抑鬱状態の人も、

ほぼ全員、タイトルのような気持ちに陥ることがあると思う。

普通に生活していたって、すぐには方針や方法が見つからず、しばらく静観なんてことがある。

それなのに鬱傾向にある人は、程度の差こそあれ、そうした状態をほぼすべて「マイナス材料」として使ってしまう。

これは、とてもやっかいだ。

自分が病気だ(あるいは落ち込んでいる)と頭では理解しつつも、

もう「そんな状態」でいること自体がつらく感じて、イヤになってしまう。

どうしてこんな。

何がいけなかったんだ。

どうして自分だけが。

いったいどうしたらいいんだ。

こんな私には、もう何もできない。

生きてて何の意味があるのだ。

そんな思いだけがグルグルするのである。

そうしたことを感じているのはあなただけではない。

慰めるつもりで言うのではなく、本当にたくさんの人がそれを感じている。

でも、あなたは自分だけが特別弱い、悪い、ダメなんだと思ったりして、

自分を責め続け、どうすることもできない、と思っている。

そして今はただ、そこから、その状況から逃げ出したいのである。

あなただけが、苦しいのではない。

人はそれぞれ、つらさや重さを多かれ少なかれ、背負っている。

だからといってあなたのつらさが軽くなるわけではないが、あなた“だけ”が情けないわけではない。

じゃあ、どうしてこんなに苦しいのか。どうして抜け出せないのか。どうしてそう思ってしまうのか。

私が今、感じていることだけれど、それはあなたにとって「あなた自身が特別」な存在だからだ。

あなたは、本当は幸せになりたい。

大切だと思える人と心から交流して、温かさや喜びをたくさん感じ、

自分の能力を発揮して人の役に立ち、

その見返りとして、物質的にも楽しめる生活を送りたい。

それは普通に誰もが思っていることだし、見返りのほうをより強く求める人もいれば

心が通い合うことを一番大切に感じる人もいるだろう。

なのに、それを実現していくのは自分自身であるとわかっているのに、思い通りに動けない。

あるいは、事態が上手く進まない、妨害される、等で、思った通りにならないのだ。

誰しも「自分自身が幸せになりたい」からこそ、なれなくて苦しんでいるのだ。

それは「欲」でもないし「自分勝手」でもない。

「自分だけが幸せになれればいい」と思う人は、心の通い合いという面での幸せを得られないだろう。

そんなのはいらない、と思う人も、中にはいるかもしれないが、

本当はどこかで、そうできる人を「いいな」と思っている自分も存在しているはずなのだ。

そして、自分にとって自分は特別な存在であること、それは「当たり前」なのである。

これまで、他者によって虐げられてきたと感じる人や、自分で自分をないがしろにしてきたと後悔する人など、

鬱になった理由はそれぞれだろうが、自分はとても、特別な、大切な存在であることは変わらない。

うまくいかなくなった原因は、いろいろあるだろう。

なかなか快方に向かわない理由も、いろいろあるだろう。

でも、自分にとって自分が大切であることを、“表面的ではない形”で当たり前だと感じられれば、

別に、そんな不器用な自分であっても、たまたまそうなっただけであり、それはそれで、もういいのだ。

そういうやり方で、幸せになっていく道を探したってこと。そのこと自体は別に、構わないのだ。

これからも苦難の道を選ぶ必要はない。

これまでつらかったのだから、もっと楽しく探していって構わない。

その方法論は、人によってさまざまだろう。また、今すぐサッと、見つかるわけでもないかもしれない

(そんなに簡単に解決できるなら、そこまで暗くはなっていないだろうしね)。

でも、自分にとって、自分は特別。すごく大切な存在。

そのことさえ覚えておけば、徐々にでも、自分につらく当たる気持ちを「やめよう」と切り替えられるし、

ちょっとだけ自分に優しくなったり、自分を喜ばせることをやってみようかな、と思えたり、

「馬鹿だったなあ」って、自分をいたわってあげることも、少しずつ、できるようになると思う。

だって本当はあなたにとって特別な人なんだもの。大切にしてあげたいよね、やっぱり。

そうやって、小さなことでちょっとずつでも、自分が大切な存在であることを、自分に認めてあげていいのだ。

客観的に考えても、あなたという人がこの世にあなた1人しかいないことも事実だし、

そう考えれば本当にあなたは「特別な、大切な存在」なのである。

もしなにか、失敗した出来事があったとしても、だ。

「反省」はしてもいいけど「後悔」はもういらない。過去には戻れないから。

あなたにとっての「上手くいかないやり方」をひとつ、見つけただけ。それをたまたま

ひとつ、覚えただけだ。

うまくいくやり方だって、きっと見つかる。あきらめないでいい。

何より暗い気持ちの今は、頭だって身体だって上手く働かない。だからこそ、焦らなくてもいいのだ。

特別な人を、本当は、心の奥では、困らせたくないよね?

それでいいのだ。

そんなふうにこれから先、少しずつでも構わないから、まずは「自分が特別な存在である」ことを

あなたがもっと感じていけますように……。

心から祈ります。

変わることを怖れない

自分が生か死の出口しかない、真っ暗なトンネルにいたときのことを思い出してみると、

「何もできなくなったこと」に対するショックが一番、大きかったように思う。

もちろんそれは、鬱という病のなせる「思い込み」だったが、とにかく頭も働かず、

身体も動かせない(動かしづらい)状態だったので、「もう二度と働けない」と思っていた。

それまでの働き方は、あきらかに「自己犠牲」だった。「仕方ない」をすべての言い訳にして、相当、無茶していた。

胃は除菌が必要なほどピロリ菌が増えて、ずっと胃潰瘍続きだったし、微熱も出してたし、寝不足だった。

そう、今から考えてみれば、そんな働き方なんて、二度としなくて正解なのだ。

自分をそこまで痛めつけ、犠牲にしてまでやらなくちゃいけない仕事なんて、そもそも間違っている。

ほんの半年とか、そういう「期限」があるのなら、まだ修行だと言えなくもないが、

2年間も延々続いて、その翌年も同じような働き方が待っていた、という現状自体、まともではなかった。

そうやって、あとから冷静に考えてみたら、「それでよかったのだ」と思えることは、

きっとそれぞれの人にあるのだと思う。

人との関係、仕事との関係、自分自身の思い込み、etc.

種類は違うけど、何らかの、そういった「強制終了」が必要なものがあったからこそ、鬱にもなったのだと。

であれば、「あの日には、もう二度と戻れない」ことに、こだわる必要はないのだ。

あなたの身体が、あなたの心が、あなたを守りたくて、ストップをかけてくれたのだから。

今は無理でも、いつかそう思える日が来ると思う。

だから、これからの自分が変わっていくことを(変わっていってしまう、と思えるだろうが)、

どうか怖れないでほしい。

その変化は、徐々に、でも確実に、あなたを別の道へ導いてくれるものだ。

元に戻れないことを悲しむより、この先、変わることを怖れるより、

自分をより大きく、優しく成長させるためのきっかけにしていってほしい……と、心から願う。

あなたの身体と心は本当に、そんなにまで変化して、あなたを守ろうとしてくれているのだから。

たとえマイナス方向に変化していても、それはまさに病気ゆえの影響だろうし、

身体がもう、なんとか「変わろうとしている」証拠ではあるのだ。

今日は短めだけれど、思い出がよみがえってきたので……こんな感じで。

つらいけど、どうか、乗り切ってください。

自分の弱さを「絶対」「一生」と決めつける必要は、まったくないのだから。