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マイナス思考からの脱却(5)

話は続くよ、まだいろいろと。長のおつきあいに感謝しつつ、進めますm(_ _)m

社会学の部分では、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」で知った山岸俊男先生の本がいくつか。

人は正直であるべき、とか、信頼と安心の違いなどについていろいろな著書を書かれていて、

自分の中にあった「日本人としての価値観」、でもちょっと、なぜそうなってるのかが疑問、という部分を、

解き明かしてもらえた。

もちろんこれも絶対ではなく、そういう解釈のうちのひとつなんだろうけれど、

「おお、そう考えていいのか」、「だからちょっと違和感があったんだ~」という感じで、

私には腑に落ちるような話がたくさんあった。

たとえば。

「昔の日本では家にカギをかけなくても、夜でも比較的安全だったのは、“村社会”があったため。

それぞれがみんなに顔を知られていたし、そこで悪さをしたら村を出ていかねばならず、生きていけなくなった。

だからそこには、実は“信頼関係”があったわけでない。『悪いことをしたら生きていけないから、

悪い人が現れない』という、暗黙の怖れのルールによる『安心感』があっただけ。

信頼と安心は違うのだ。私たちは今後、信頼を構築しなくてはいけない」とか、ね。

(引用元は「信頼の構造」、「安心社会から信頼社会へ」、「日本の安心はなぜ消えたのか」など……)

気になる方は、ほぼ日サイトで「山岸俊男」を検索して、まずは対談などをチェックしてほしい。

そこで紹介されている本を何冊か読んだが、それぞれにヒントがあったと、私には思える。

http://www.1101.com/home.html

生物学、地学、科学の融合については、先日のブログ「生命というもの」でまとめて書いたけれど、

実はあそこで、あえて書かなかったことがある。

分子、原子……と、どんどん細かくして、「素粒子」という今、わかっている最小限のサイズまで

もし、目で見えたとしたら。

その、現段階で最小単位である素粒子は、雲のようにもやもやしていて、

さらに「振動しながら点滅している」のだ。

その状態をなるべく優しい言葉で、正確に言おうとすると

「自転しながらゆらいでいるような感じで、かつ、点滅していると言っても差し支えない状態」

なのだけれど、物理学者さんも、この辺はまだ、上手に説明することができない。

なぜなら、わからないことが多すぎるからだ。

ただ、素粒子そのもの性質はというと、「1ナノ秒、その姿を保てば、安定していると言える」らしい。

1ナノ秒といえば、10-9秒、つまり 0. 000 000 001秒。

……さあ、わからなくなってきたよね(^^;) とにかくそれくらいの感覚で「消えて現れてる」としか

今のところ、言いようがないみたいなのだ。

この辺をどうしても、多少わかりやすい範囲で知りたい方は、大学が共同で展開している

子ども向けの物理学のHP、その名も「カソクキッズ」(でも全然キッズ向けとは思えない。

ちなみにカソクとは、素粒子を調べるための巨大な装置、「加速器」のことね)を読んでみてほしい。

私は文系なので、このサイトの説明でさえもう頭がいっぱいいっぱいになって、はっきりとは理解できない。

http://www.kek.jp/kids/index.html

で、消えたり現れたりしてるのはなんでだ、どういうことなんだ、というところを考えようとすると、

「別の次元にいったん行って(つまり消える)、戻ってくる(また現れる)」という仮説に辿り着くらしく、

それを、重力や時間、何かその辺に関わっていそうなその他もろもろにまで全部、当てはめていくと、

11次元説が出てきちゃうらしいのだ。

はい、だからね、優しい解説本などから文系頭の私が捉えた、「私的な説明」で、ざっくり言うよ。

ものすご~く小さい単位でみてみると、私たちは点滅してブルブル震えながら不安定な状態で存在している。

私たちだけでなく、この世界すべてが、そうである。瞬間瞬間で、現れては消えている。

人が動く様子を撮った連続写真をパラパラマンガふうに見ると、まさに連続して動いているように見える、

それと同じ原理で、そもそも私たちは存在しているのだ。

ただ、私たちの感覚器はそこまでの細かい変化を捉えられない。

たとえば高速で動く車のワイパーが、なんとなく扇のような面に見えてしまうくらい、大雑把なのだ。

細かいものはもう、信号として無視しちゃうんだよね、目とか耳とか、触感とかが。

そこまで高速に処理できるような仕組みは、少なくとも人間には備わっていない。

本当は、レコードが再生する音の幅とCDが再生する音の幅も違うんだけど、同じように聞こえちゃう。

机も、点滅してるはずなのに、固い面のように感じる。

そういうふうに私たちは世界を捉えていて、そういうふうに世界も時間も、見ている、感じているということなのだ。

これを、ディーパック・チョプラ氏という、米国の医師でありながらインド的世界観にもなじんでいる

インド人のスピリチュアリストさんは、こう表現している。

「私たちは毎瞬、死んで、毎瞬、生まれている」と。

肉体的な死を「死」として捉えるのであれば、すでに私たちは、どんどん生まれ変わりながら

存在している、っていう話になるのだ。宗教的にでも哲学的にでもなく、物理学的に!!

……何か、とてつもない世界が、広がってくる感じがしないだろうか。

「生命というもの」でも書いたけれど、私たちは、私たちの感覚器官では捉えられない、でも何か

知らない力によって、存在しているのだ。

こうした研究をしている物理学者は、論文には書けないけれど、神がいてもおかしくない、と感じるらしい。

物質の安定性とか、星の誕生とか、そういったものを調べていけばいくほど、

私たちの世界がこうして今、出来上がっていること自体が、確率的には奇跡らしいから。

ものすごい確率を勝ち抜き続けた結果、地球や生命というものが存在している。

まるでそうなることを「誰かが意図して仕組んだ」としか思えないくらい、みごとな条件が揃って、

私たちは今、ここにこうして存在しているのだ。

そう、物理学的にみて、私たちは「生かされている」と言える。

素粒子の性質を調べる加速器や、ニュートリノを調べるカミオカンデ、「はやぶさ」ががんばって

持ち帰ってくれた、微量の物質から少しは見えて来るであろう、宇宙生誕の謎。

実際、「もし他の次元が存在するとして、素粒子が他の次元に行って戻ってくるのであれば、

こういう実験をしたらこうなるはず」という仮説の上で行われた実験は、成功しちゃっている。

つまり他の次元は「ある」と言えちゃったのだ! もちろん今後、他にも試されていくはずだけど。

これからもどんどん解き明かされていくであろう、そうした事実を、

あなたは「もうちょっと知ってみたいな」と、少しは思ったりしないだろうか?

そして、探してみれば、知ってみれば、いろいろ自分を変えられるものはあるかもしれない、

本でもそうだし、宇宙が、他の次元の何かが、変えてくれるかもしれない、って、

やっぱり思えたりはしないだろうか……?

(この項終わり)

マイナス思考からの脱却(4)

昨日のブログでは、考え方の部分について、長々と説明をした。

なので今日は、私が、何を探ってどう感じていったかを、経験談として綴ろうと思う。

すべての人に当てはまるとは限らないけれど、参考になれば幸いである。

まず、まだ私が死にたかった時期、自死に関する裏掲示板(規制がなく、仲間募集も、非難も援護も

飛び交っていた)をうろついていたとき。

さまざまな会話のなかで1人だけ、やけに穏やかに話しかけている男性がいた。

悩んでいる相談者に話しかける人は何人かいたが、たいていの人は、どこかいびつな発言をしていて、

同じように境をさまよってるような、ちょっと、偏っている感じがあった。

しかしその人だけは少し違っていて、ひたすら受け止め、でも深くまでは踏み込まず、

側にたたずんでいるような状態。静かで、優しくて、不思議な人だな……と思っていた。

その後、自死をやめ、生き方を模索するようになったとき。

死にたかったときに掲示板で少しだけ会話した人が、相談者の雑談用HPも別に開いていらっしゃったので、

久しぶりにそのHPへ行ってみた。

そうしたら、その「穏やかな人」がついに亡くなられたね、という会話が載っていた。

そのときに初めて知ったのだが、なんとその彼は生前、救急救命の仕事をしていて、

その後、ガンにおかされ、闘病しながら、あの話しかけをされていたのだ。

どうやら死の間際まで、それは続いていたらしい。

この事実には、頭を殴られる思いがした。

人はいったい、どこまで優しく、強くなれるのだろう。

使命を持って救命をされていた人が、自身の余命がもういくばくもないとわかってからも、それを続けた。

彼は生きたかったはずだ。彼自身は、死にたくはなかったはずだ。

死にたいとつぶやく人に対して「馬鹿ヤロウ!」と、ののしることもできたはずだ。

なのに一切、それをしなかった。最後まで、優しく寄り添っていた。

どんな状況にあっても、どんな事態が起こっても、人は、自分の生き方を自分で決めて、

それを最後までまっとうすることができる。たとえ、真逆の立場になってでさえも。

しかもそれは彼の場合、徹底的に「人の命を助けること」だった……。

私はそのとき再休職中だったので、「もう、これは少しずつでも、働いていこう。

そんな人の語りかけを、読んでいたのだから。

直接は話さなかったけど、そんな人に支えてもらっていたのだから」と、自然に思えた。

そんな人も、世の中にはいるのだ。私も、「弱い状態」を強さや優しさに変えられるようになっていきたい。

弱いのなら、弱いことそのものを大事にして、活かしていける人になろう、と思えた。

それ以外に私の場合、たくさんたくさん、本を読んだ。

最初は哲学系、次に宗教系、さらには社会学、民俗学、生物、地学、物理学、科学、文学 etc.……。

もう、ジャンルは何だってよかった。絵本も小説もノンフィクションも読んだな、そう言えば。

自分の心にハッとするような感じで言葉が届いて、「そうか、それでいいんだ」とか、

「そう考えればいいんだ!」 と、ひとつでも気づければ、それでOKだった。

まさにドンピシャな気づきもあったし、軽い気づきがたくさん集まって、

だんだん沁みこんでいく感じがする場合もあった。

哲学は、最初はどうあれ、途中から「生きていること」が当然の前提になっていくように思え、

その立場で「人」を探っていく学問なんだと感じられた。

だから今の私にはちょっと違うな、と思って、途中でやめた。

宗教系は、まず最初にその「考え方」を知りたかった。

なんせ「人が生きること、死ぬこと」を専門にしているのだ。それをどう捉え、どう説明しているのか。

さらには「信仰」いう気持ちが、どこから生まれ、なぜそれが組織にもなり得るのだろう、とも思った。

のめり込みたくはなかったから、防衛のためにも、先にそういう情報を探した。

仏教、キリスト教、イスラム教、神道、ヒンズー教、その他アラブやチベット、

ネイティブ・アメリカン、ケルト民族などの土着系の信仰、

それらの成り立ちだけでなく、さらには「宗教」というものの、そもそもの成立の部分まで、本を探して読んだ。

世界に散らばるほとんどの信仰は、最初に「母性系・自然と一体型・その中で生かされている、

人間という一種の“生きもの”が自分たち」というところから始まったらしい。

狩猟・採集のくらしをしていたのだから、自然が「母なる存在」であり、そこから恵みをいただいている、

という思いに至るのも、当然だろうと思う。

それがやがて、「栽培」と「保存」による食料の確保、保存するための住居の定着、

人々が集まることによる、くらしのルールづくり、指導者の登場……となって、

信仰は「人を指導するためのもの」に変わっていく。さらには「人を支配するもの」と結びつき、

その頃になって、キリスト教やイスラム教、仏教などが現れていく……という流れだったらしい。

中沢新一氏の「カイエ・ソバージュ」というシリーズが、この辺をわかりやすく説明してあったのだが、

信仰の対象が「熊から王へ」変わっていった辺りのくだりは、面白かった。

自然を畏れ敬う気持ちが、「王は“熊の力”を得た」と喧伝することによって、

人の権力へと変わっていった……という話。

そうやって信仰が権力と結びついたからこそ、組織化が必要になったし、それはやがて、

隣国との争いに使われていったのだ。

単純な「信仰」としての教えは、別に、どの宗教であっても学べる部分はあって、

ある種の道徳・倫理感を、自発的にもたらしてくれるのに、「こうしないとこうなりますよ」的な

方向付け、というかある種のコントロールが加わってしまったがために、おかしくなってくるのだ。

いや、じゃあ、私は「信仰」レベルでとどめておけばいいじゃない。

そこから自分に響くものだけ、拾っていけば。

そんなふうに思えて、いろいろな教えや、説法のようなものもどんどん読んでいった。

また、そのころからNHKの「心の時間」など
も録画して見始めた。

面白かったのは「たまたま気が向いて録画した」ものに、必ずガツンと響いてくるものがあった、ということ。

私の場合、仏教系のお坊さん、尼さんの話である場合が多かった。

宗教の本や番組は、単なる倫理・道徳だけじゃなく、「人はどこまで自由であっていいか」を教えてくれた。

他人を自分たちと比較して貶めること(聖戦とか、選民意識とか)は、「こういう解釈によってある宗派が、

支配のために、都合よく教えただけなんだな」とか、そういうこともだんだん具体的にわかった。

争い、囲い込みのために信仰があるのではなく、信仰が「宗教組織」のために一部、

本当に上手く利用されてきたのだ。

本来、その教えは「自分たちさえよければ」という意味合いを、やはり含んではいないと思える。

それを信仰することで、自分がその社会で生きやすくなる(人に迷惑をかけないとか人を敬う、などの

気持ちが自然に生まれる)ためのものなのだ。

たとえば、日本で、鈴木秀子さんというシスターが最初に広めてくださった

アラブのスーフィー教の教えなんて、すごく面白い。

彼女は、人間の性格の傾向を大きく9つに分ける「エニアグラム」について本を書かれていて、

私がそれで自分の性格を分析してみると(占いではなく人間学なのだ)、「成功を追い求める者」になった。

解説を読むと、思い当たる節が山ほどある。うわあ、確かにこれが、私の性格で一番大きい要素だ、と思えた。

面白かったのは、「成功を追い求める人」を、長老たちがどう指導するか、の話。

よいところを伸ばし、でもそれが行きすぎないようにもするため、9つそれぞれに修行をさせるらしいのだが、

「成功を追い求める者」の場合は、「引っこ抜き、わざわざ根っこを上にして地面に埋め直した木に、

2年間、毎日水をやる」のだそうだ。

すごいよね。その木は絶対に成長しないし、絶対に何も生み出さない。

ムダなのが明確であることを、2年間、毎日、「それがおまえの仕事」と言われてやり続ける。

成功を追い求めてしまう、つい結果を求めてしまう心の「はやり」を抑えて、

そこから別の何かをつかみとらせるのだ。私なら、どう感じるだろう。

ほかにも例を挙げれば、仏教にも2種類あって、チベット、スリランカ、タイなど

「自分が出家して自分で探求する」ものと、日本のように「他の人・民まで救う」ものがある。

それぞれにたくさん学べるものがあるし、座禅も、その必要性などの理由がわかるとやってみたくなった。

キリスト教の「隣人を愛する」教えも、探っていくとすごく奥が深い。

あと、これは「宗教」ではないけど、日本の八百万(やおよろず)の神や、お地蔵さん・道祖神の存在は

「見守られている」感覚を与えてくれているんだな、とか、

スピリチュアルと呼ばれるものは、いろいろな宗教から「信仰」のよい部分を取り出して、

少し、神さまのような存在や霊的な話や、来世の話を「実在する」と加えた、東洋+西洋なんだな、とか。

そう、スピリチュアルだって人によって説明の仕方はいろいろあるだろうけど、宗教的な側面から

みたら、今の日本人に馴染みやすいのは仏教・神道・インド系の東洋的な教えの要素に

キリスト教的な要素が上手に加わっていて、しかも「信仰」の範囲内にとどまっているからだと思う。

そういう意味では、ヘンな組織的規制がなくて自由度も高く、信仰の内容そのものを自分なりに考える、

自分になじませるきっかけには、なりやすいように思えた。

ま、なかには教祖様的に振る舞って、ウソをついてお金稼ぎしている人もいるらしいけど、

私は幸い、そう感じるものには巡り会ってない、というか、怪しすぎと感じるものは読んでいない。

霊とかエネルギーとかも、見えないけど、存在は100%は否定できない、くらいの感覚である。

日本では、霊的能力の話で言えば昔から「イタコさん」などの存在もあったしね。

絶対! ではなく、軽くなら、神や霊は「あり得るかも」と捉えられる土壌は、あったのだと思う。

長々と宗教の話を続けているけれど、そういう視点で見直してみると、私は学べることは多かった。

説教臭いものは外していいし、信じられない部分は信じなくていいと思う。

でも、そうやって減らしても、自分が少し楽になれるもの、「そうか」と思える考え方は、結構あった。

教祖に従う必要もなければ、組織に属して「会員」(と、わざと言ってみる)を増やす手伝いも

しなくていい。「おばあちゃんの知恵袋」的に、自分がよいと思える部分だけ、見つければいいのだと思う。

この「知恵袋」の内容は、羅列しても長くなるだけなので割愛する。それは私個人の解釈だと思えるし、

そういうふうに捉えていいのか、などと、別の疑問を感じると、せっかくの機会を失ってしまいかねない。

自分も知ってみたいと思う人は、ぜひ、本屋や図書館で、巡り会ってつかんでほしい。

それこそ、学ぶ部分があったときに、偶然とかご縁の不思議さ、ありがたさを感じられるだろうしね。

逆に、「組織」「団体」というものがなんかイメージ的にイヤで、これまでその中身を知らなかったのは、

宗教という分野の弊害だよなあ、とも感じる。せっかくの機会だから少し、触れてもらえたらと思う。

また長くなったので、社会学以降は明日に……。

マイナス思考からの脱却(3)

さて……。

「死」しかない、と思っていた自分が、「生きててもいいのかな」に変わり、

「どうしたらいいのだろう」がわいてきたとき。

ここからが大きな変化のスタートとなる。

それはもう姿や形まで変わる勢いの、変容(メタモルフォーゼ)、生まれ変わり、ともいえるくらいの

変化をしていける、ひとつのチャンスとなりえるのだ。

これまでの人生、これまで苦しんできたこと、これまで楽しんできたこと。

これまで「正しい」と思ってきたこと、「こうあるべき」と思ってきたこと。

もろもろすべてが、変わっていく。

これは正直、怖い人も多いと思う。単純に、「未知のゾーン」に突入していくからだ。

経験したことのない生き方をすれば、これまでの経験則が役に立たないこともあり、

「新たに自分で」感じ、それを考え、思いに変えて、行動していくことになる。

今までの長い道のりで慣れ親しんだ、「自分なりに捉えた成功法則」から離れていくのだ。

とくに、ものすごい成功(と自分で思えるもの)を経験し、そのあとで気持ちが壊れてしまった人は、

そんなことをわざわざする必要があるのか、イヤだ、とさえ、思うかもしれない。

わざわざする甲斐は、ある。

あなたがこれまで知らなかった価値観、知らなかった生き方、知らなかった人間関係、に出会えるから。

しかもそれは、ほとんどの場合「こんなふうにしてもいいのか!」という驚きと、発見の喜びと、

「楽しそうだ」と思えるような感覚つきで、現れてくる。

別に、楽観視しているわけでも、いい加減な慰め話をしているのでもない。

人は「知らなかった他の明るい世界」を垣間見たとき、ワクワクするようにできているからだ。

冒険、探検。生きていくうえで、それを行えるのである。

ただし、そのためには「慣れ親しんだつもり」の価値観や生き方、考え方を手放す作業が伴う。

その部分がやっかいであり、実際、大変だったりするのだ。

でも、考えてみてほしい。

もし、その価値観や生き方、やり方があなたにとてもフィットしていて、自然体で過ごせていたら、

そもそもあなたは、心の暗闇をのぞくことはなかった。

たまたま「周囲の人」や「身体の具合」のせいで、自分の気持ちが暗くなったとしても、

今までの枠のなかで十分、自由に切り替えていけるはずだ。

それができなかった、ということは。

どこかで、あなたが「何か無理をしていた」のである。

合わない「ヨロイ」を身につけていた、という表現なら伝わるだろうか。

そのヨロイは、親など周囲の人から受け継いだものかもしれないし、

自分が生まれて以降、徐々に手に入れて、組み立ててきたものかもしれない。

でも、今はもはや、どこかが「合わない」のだ。

組み立て方を間違っていた場合もあるし、もしかして、総取っ替えする必要があるかもしれない。

一部修理で済むか、ほとんど全部、新品へ交換するか。どれが当てはまるかは、人によって違うだろう。

ただし、次のヨロイは、ものすごく強いものになる。

なぜなら、あなたが「一番弱っている状態で、改めて組み直す」からだ。

最悪の事態の自分で、それでも大丈夫な価値観や考え方を身につけていくのである。

たぶん本当は、それこそが「ゆるがないもの」であり、あなたの「幸せの元」だったのだ。

ヨロイを組み立て治す作業では、痛みを伴うこともある。

なぜ自分が、こうして心の闇をのぞくようになったか、ヨロイのどの部分が合わなかったのか、

改めて見つめ直し、はずす作業が必要だからだ。

合わない部分にも、これまでの積み重ねがあり、思い出があり、

自分が大事にしてきたものが、ある程度詰まっているだろう。

それを「合わなかった」と認めること自体、つらいかもしれない。

でも、これまではそれが必要だったかもしれないけれど、これからはもう、いいのだ。

感謝して、手放していこう。

手放す方法そのものについては、今の私には語る資格がない。

誰かに手助けしてほしいなら、職業的には、医師やカウンセラーなどがあたることになるだろうし、

それ以外にも、もっと心の支えが必要なら、怪しくないと自分で思える宗教方面、

たとえばお寺へ説法を聞きにいったり、座禅してみたり、聖書を読んでみたり。

同じように「弱った」経験を持つ人たちの集まりへ参加する方法もあるかもしれない。

たぶん、そこに至った状況次第で、それぞれに「求める助け」も違うと思う。

そのすべての個別例を、私はここで語ることができないし、すべての人に共通するやり方はたぶん、

ないのだと思う。以前にも書いたが「魔法の杖を振ってくれるおばあさん」はいない、ということだ。

あとは、気になった本を読むことや、信頼できる人と話してみたりすることも、変わるきっかけになる。

とにかく自分を遠くから見直してみて、「交換が必要な部分」を探るつもりで、やってみてほしい。

これまでとはまったく違う本が目にとまったりすると思う。

ただし。自分が「組み立て直し」の最中であることは、十分に意識してほしい。

その部分の、心のヨロイは今はない。だから周囲から攻撃を受けると、これまで以上に弱いかもしれない。

とくに、これまでの価値観では、単純にこなしていけない部分(高給を取ってバリバリに出世する、とかね)で

あなたの「責任」を責める人が身近にいた場合は、それだけで心苦しく感じるだろう。

それは、周囲の人が残酷なのではなく、あなたもまた「相手にそう思わせていた」部分があったゆえ、だ。

悲しいだろうけれど、少なくとも心が弱っている今、それができないことを、誠心誠意、伝えていこう。

たとえば、先の高給取りの例で言えば、「お金」さえ得られればあなたは「責任」を果たしていたのか?

あなたの価値は「お金を稼ぐ」部分しかないのか? あなたとその人の関係は、それだけなのか?

また、さらには家族に対して、社会に対して、と、大きく捉えがちになるだろうが、

本当は、そんな「世間」という、とらえどころのない、訳のわからないものは存在しない。

「世の中」なら、上を見ても下を見ても、どっちでもいいはずだ。

でもきっと、あなたは「下」を見られない。

少なくとも「下」だとこれまで思っていたものには、関心がなかったはずだ。

本当は「下」は「横」かもしれないし、もしかして「上」かもしれない。

あなたがまったく知らなかった部分で、あなたの感覚のはるか上をいく、

大切なもの、強いものが存在するかもしれないのだ。

ただ、今はまだ、そこまで思い至る必要はない。

大切なのは、側にいる一人ひとりとの関係だ。

親、パートナー、子ども、友人、知人、仕事仲間。

その人たちとの関係の中であなたは「家族」を形成し、「社会的に」存在してきたはずだ。

その人たちが、あなたに対してどういう態度をとるか、を先に考えるのではない。

その人たちに対してあなたは、あなた自身が、これまで「どう接してきたのか」。

あなたはどんな考え方で、どんなふうに相手を見つめ、どんな態度で接してきたのか。

そして、たぶんそこから見えてくるであろう、

あなたがどんな考え方で、どんなふうに「自分」をみつめ、「自分」にどんなふうに接してきたのか。

自分にどんな役割を課していたのか。どんな役割を演じていたのか。

そういったことを、罪悪感なしに、捉え直してくのである。

反省は必要かもしれないけれど、後悔もするかもしれないけれど、

これからはもう、単純に、それをやめていけばいいのだ。

自分を偽ることも、無理することも、卑下することも、もう、必要ない。

人との関係については、別のテーマになっていくので、今はここで話をとどめておく。

……つらそうだよね。考えている最中は、また、いろいろと思い至るまでは。

だから、1人で作業するのには限界がある、ということなのだ。

これまでの思考パターンから抜け出すためには、「気づき」を伴わないといけない。

しかもその気づきは、あなたのなかに今、すでに準備されている。

まさにそのことに、今は「気づいてない」だけだ。

でも、あなたはどうしても「これまでのやり方」で、そこに至ろうとするだろう。

というか、それしか知らない、ってこともあり得る。

無知の知。

自分が知らない考え方、自分が知らないやり方や思考パターン、自分が知らない世界がある、ということだけ、

今は、わかっていてほしい。

長くなりすぎたので、つづきはまた……。