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失敗した、損したと「私が」思わないで済むには……?

心屋さんのブログを読んでいて、

ある意味、衝撃を受けた質問と感想があった。

 

私が勝手に、とある視点で解釈したわけだけれど、

その視点から、今日は書いてみようと思う。

 

話に入る前に、この記事を読んでください。

あ、先に読んでくださいね、すみませんが。

子育てについての質問なのだけれど、

私にはそのテーマは単なる『一例』であるな、と、

後半の方の体験話を読んで思えた。

 

◎心屋仁之助さん
■自分の子供に、へんな呪いや刷り込みをしない方法
http://amba.to/1ZqUx2I

 

で、まず、私はタイトルを読んだ瞬間、

それって『子どもが、こちらの伝えたことをどう受け止めるか』まで

完全にコントロールできない限り、無理だよね!? と思えて。

 

子どもは子どもなりに、ひとりの人間として

自由に相手の言葉を受け止めるわけだから、

それを「呪い」に使う子どもだって、当然いるわけで

(はい、『頑張らねば』を自分の呪いに変えていたのは私で、

私がその点における親と自分の違いを認識・説明できず、

親は親で、期待することがいいことだと思っていた、というだけの話)。

 

そんな、親が全部を知って全部を操るなんて、あり得ない……と。

 

で、これは私が子どもとしての立場から感じたことで、

心屋さんも答えとしては

「そんなの、ない」とおっしゃって。

 

ここで済んだら、話はそれで終わったわけだけれど、

心屋さん、ちゃんと、続けて「引っ掛け」をご準備なさいました。

ちょっと引用してみます。

 

********************************************************

  私は生まれつきの複雑心奇形。
  ママのお腹の中で、自分の心臓を作る時に…

  「あーー… なんかちょっと失敗しちゃったな……」

 

  「…」

 

  「ま、これでいいか! よし、完成!!」

 

  そんなこと言いながら、
  産まれて来ようとしてる胎児の自分を想像……

 

  したら
  なんか可笑しくて可笑しくて!!

  大事なところでやらかす自分らしくて、

  もう、許すしか無いですよ(笑)

********************************************************

引用ここまで。

 

この方にとって、複雑心奇形は、確かに問題。

けれど、ご本人は「そこまでの問題『視』」は

されていない感じ、伝わってきますよね。

 

自分が『そう見ない、そうは捉えない』でよくなれば、

問題は少なくとも「大きな問題」ではなくなる。

そのためにどうするかというと

やらかした自分、をゆるすだけです。

だってそうなんだもの、仕方ない、と。

 

で、ここで私は、最初の方の質問を、

この心奇形の女性の方の視点方向から、

改めて、読み解き直してしまった。

 

そうしたら、記事のタイトルにあるように、

読み取れたわけです。

 

『失敗した、損したと「私が」思わないで済むには?』

 

えーと、気づいてもらえるかな。

これ、一歩ズレたら、ものすごく「ごう慢な質問」ですよね。

私のことしかアタマにない人、みたいになり得る。

そして同時に、私が自由に解釈してもいいのだよ、

という基本的なことを、含んでいる。

 

私は、私のことが大事。

でも、他人と私は同等。

同等だけど、違いはある。

同等だから、違いは、認めたほうがいい。

 

自分のことにしても、相手のことにしても、同等に、扱う。

相手も、相手のことが大事、でOKなのだ。

違いながらも同等だからこそ、折り合えたら、気持ちが通じたら、

私も相手も、すごくうれしくなれるのだ。

 

同等、と違い。

これってコインの裏表、みたいなもので、

そのふたつの間でバランスを取っていく。恋愛や友情なら

『自分がより、心地よく対することのできる相手』を探せばいい。

 

親であっても、子どもであっても、バランスの取れる距離を置いていいし、

自分自身の問題についても、この心奇形の女性のように、

問題『視』しないですむ距離やバランス、探していいんだな、と。

 

まあ、子どもの中には「100%自分側にわかりやすく示す」ことを

当たり前! と言い張るヤツもいる。

あ、逆にもちろん、親でもそういう人はいる。

 

それは、距離を取っていいことを知らないがゆえのなのかな。

勝手にそういう距離やバランスを取るだなんて、私への愛情の示し方が

不足している証拠! とかね。

おお、子どもも親も、これだと

すぐ「相手が悪い」って視点になるね、気をつけねば(^^;)

 

同等で、でも違っていて、それぞれ大切。

それさえつかめれば、そこを忘れなければ、

どんなやり方しても、結局はいいのかも。

 

それこそ最初にあった、呪いをかけないように

うまくやるためには、なんて質問も、

バランス悪い(コントロールしたい)人から発言された場合だと

自分のことだけ見つめすぎていて、回答が

「知らんがな」にもなりえるんだなあ……。

相手の状況次第で、答え、変わるのか、そうだよね、とも思えたよ。

 

呪わない子育てと、問題視しないでよくなった人の話。

これを組み合わせていただけたことに、感謝いたしますm(_ _)m

 

最後に、問題視しないですむようになるためには?

なぜそれを『自分は』問題視しているか、

そこをひも解いてみるといいかも、です。

あと、他の人の「別の視点」の例を探してみて、

なるほど、と思えたものについては勇気を出して、

そっちを「自分に当てはめて採用」してみてください(*^^*)

 

練習練習。

上手にできるようになるまで、少しずつ。

一足飛びばっかり、狙わないでね

(自分がわかりやすく優秀になりたいってのも、自分自身への呪いだよ)。

 

2016_03_24

Photo by Pezibear
Pixabay

 

こんなに私は

こんなに私は 誠実なのに

こんなに私は 大切に考えて「あげてる」のに

こんなに私は 心をこめて

本気で必死に やって「あげてる」のに

 

こんなに私が

こんなにも

こんなにいろいろ

 

だから! なんで!! 私のこと認めないって言うのよーーー!!!

 

うん 自分が返してもらうこと前提の

そんな 『下心』目一杯の 思いやりを差し出してさ

しかも相手の要求を待たず 自分から差し出した挙げ句

「狙って」やった その相手が返さなきゃ

途端に相手は「裏切り者」なんだね

 

私はこんなに弱くて こんなに親切で 

こんなに優しいのだから

あなたもそれを認めなさいよ! と指示するために

相手に指揮するために 使ってるよね

 

その あなたの せっかくの優しさを

あなたのせっかくの 誠実さを

そんなにもステキな あなたの温かさを

『返してもらう』目的のために 利用したんだよね

 

ねえ そこに先に 友情があろうと 愛情があろうと

取引の約束なんか してるわけじゃないんだよ

あなたを信頼していきたい ということを お互いに表現し合っただけだ

 

なのに取引として あなたの内側にある素晴らしさを使われてしまったら

そりゃそれは その瞬間 相手にとって

あなたの 素晴らしい資質としてでなく

あなたの側から勝手に押し付けられた 取引条件として

理解される可能性もあるよ あなたが取引してるからこそね

 

ねえ 愛というもののいったいどこに

「相手とは取引せねばならない」なんていう条項が くっついてるっていうのさ?

信頼は取引するものじゃないよ?

そのことには なぜ気づきたくないのかな

 

私はこんなにステキで 

こんなに弱いんだから 

振り向きなさいよ! 助けなさいよ!

って叫んでさ 

それ 本気で あなたにとって 楽しいやり方なの?

 

自分の素晴らしさを あなた自身がわざわざ

そんなふうに使ってしまっているのは

「なぜなのか」 見つめられないかな?

 

あのね 弱いことが 悪いわけではないよ

(悪いっていう書き方のほうが 伝わりやすいかもしれないから

この表現使ってみるけれど) 弱いことが悪いのじゃない

他者に対して 自分の素晴らしさを「取引の条件」にしなければいけないほど

自分を 見捨てていることが 悪いんだよ

 

相手と取引して もらわなきゃ いけない(そうでないと私は もらえない)と

なぜ 信じこんでいるのか

そこの部分は どうしても自分では ひも解きたくないのかな?

 

まあ いいんだけどね 

一生 恨んで 一生 許さない! って叫び続けて

一生 自分を傷つけていっても うん 別にいいんだよ

それはあなたの選択だから

あなたが本当にそうしたいなら 私はそれを止めない

 

あなたが そのやり方をどうしても 選びたくて

どうすればそれを 苦しくならずにやれるようになるか 誰かに尋ねたいなら

どんどん 尋ねてみればいいと思うよ 納得できる回答が 届くまで

 

恨みという 自分の内側のどす黒いものもまた

一生 大事にするほうを 自分が選んで

取引してくれない相手も どんどん増やし

それぞれの相手への恨みも 増やしていってさ

その相手と『他人から裏切られてしまうレベルの私』とかいう思想を守りつつ

両方を罵倒し続ける姿勢 大事にしていけば いいんじゃない?

 

そうすることで 自分のことを大切にしないほうを選択するのは

間違いなく あなた自身なのだから

 

うん そこはもう あなたの自由なんだよ

ホント 恨みも自己罵倒も 私は無理には止めないよ

でも「なぜ 他の人は私と取引してくれないの?」

という問いがもし 私のもとにも届いたとしたら

 

そもそも 自身の素晴らしい資質を

誰かとの 取引に使うこと自体が 

人にとって 心地悪い 気持ちよくないからだよ って答えると思う

 

常に 他者に 内心おびえ 返してもらえるかどうか疑いながら

(そう すでにもう あなたがこの時点で 相手を疑ってしまうんだよよね)

それでも返して欲しさに 自分の素晴らしさを

みずから進んで 差し出していくという その「状態」を

あなたが 本気で心地よく感じているとは 思えないのだけれど 

それは 私の勘違いかな?

 

あなたの内側の 素晴らしさを使って

わざわざそんな『取引』なんてしなくても 

他者にも 相手にも 届くし 相手からも届けられるんだよ

 

そっちのほうはまだ あなたが やっていないだけ……

そして やっていないのは やれていないのは

自分を馬鹿にしているから 届けてもらえないと信じこんでいるから

どこかで自分を 見下げ切っているから なんだ

 

今はそのことだけ 伝えておくね

自分を見下げ続けていく限り どうしても

その取引は 続くのかもしれない 残念ながら……

 

2016_03_12_2

たまたま今は 視点の方向 マイナスなだけで
つまりはそれも ナルシスト
おそれの理由を 解かずに基点としたまま
『自分だけが』

こんな私? いつも私は?
おそれから来る その思いグセ
それこそ いつまで選ぶ?

Photo by  お花の写真集

 

『ドケチ』さんの例、そこから抜け出したい人の例

昨日の話の続きで、例になるもの。

『お金』や『成功』を先に受け取ろうと

している人たちの話が、

『東洋経済』のネット記事にありました。

 

今の自分の立ち位置のありがたさ、よりも、

他人がどうであるか、

のほうを見つめている人たち。

 

男性のほうは、違う方向のモノを

見ようと努力されつつはあるけれど、

本当はまだまだ、『成功』に未練ありますよね?

という感じの印象を受けました。

 

結局、自分のことを人と比べてばっかり、なのは、

女性の例のほうと、実は大差がない感じ。

 

これ、別に私も、現状で満足しろ、とか、

そういうことを言いたいわけではないのです。

自分がどこを、何を『見ているか』を、

これらの極端な例から感じていただければ……と思ったのです。

 

たとえば、幸せの「カタチのひとつ」として、

自分がやってうれしいこと、を、どんなに小さくてもきちんと見つけていき、

それが10個、20個集まっていけば、

まず気分転換がうまくいく確率、上がりますよね。

そして毎日、プチプチと自分を喜ばせてあげられるのは、楽しそうですよね。

 

『他者への貢献や愛』的なものも、

『努力』とか『達成』というような話とはまったく別のところで、

あなたが喜べるものとして、見つけられます。

 

で、この人たちが語る成功や幸せって、言ってしまえば

他者から見られたときにわかりやすいから、と

望んだ『あるひとつのカタチ』でしかない。

しかも他者軸なのです、どちらの方も、結局は。

 

なのに、それこそが本当は素晴らしい!

とだけ、信じ込んでいるから、

まるで晩年の、黄昏れたおじいちゃんのような言葉を吐いたり、

負け惜しみ、ごまかし、みたいな恋愛をしてみたり。

 

もはや自分を、負けた、失敗した、としか、

捉えて生きることしかできないのかしら……と、感じてしまうのです。

それこそ、気づかなければ、一生、この視点の部分では、

自己卑下し続けて不幸ですよね。

 

この方たちの「極端さ」の部分は、

まあね、バカだな、と笑えても、

この人たちの「視点の頑なさ」を、

バカだ、と笑える人って、今の日本には、

本当はそんなにたくさんはいないのでは……とも思えました。

もちろん、自戒も込めての意味で。

 

この話を読んだあと、どうぞ、

我が身を振り返ってみてください。

 

自分はどれくらい、

隣のみならず、他人の芝生を青く見ていますか?

どれくらい、他人と自分を、比べてますか?

そしてどのくらい、自分をあきらめ、ひとつのカタチだけを追い続け、

他の人の人生を「夢見るだけ」で、立ち止まっていますか?

 

そんな部分で何か、ヒントにしていただければ幸いです。

 

先ほど、立ち位置のことにも触れたので、あえて言ってみると、

恵まれていること、のほうを見ない……という部分だけで感じてみても、

きっと、この方たちと私たちは、

五十歩百歩なのかもしれません。

 

ひとつめ。

とてもわかりやすくて極端な『隣の芝生』視点さん。

とにかく先に、自分が受け取りたくて受け取りたくて、

でも受け取れなくて、卑下して。

出すこと、の喜びには気づかず、

自分をごまかして生きて、やがてはどうする? な例。

http://toyokeizai.net/articles/-/107994/

 

ふたつめ。

黄昏れたような言葉を吐いて、割り切りをつけようとしているけれど、

何かどこか「自分をあきらめた感」が、もうもうと立ち昇ってきます。

疲れ果てて、というのとも、ちょっと違う。

どこを見続けていくのでしょうね、この方も。

http://toyokeizai.net/articles/-/98650

 

『ドケチ』さん、と、私が呼びたくなる意味、伝わるでしょうか。

そもそもその、達成できていない欲望って、本当に、

あなたが心から喜べる『幸せ』ですか?

あなたは本当は「何を見つめている」のでしょう?

 

その面で、これらの例から、

必要な方に必要な部分が、届きますように。

 

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