カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

症状だということを

鬱々とした気持ちのときは、自分に対する評価も低くなり、

また、実際に手早く上手に動けなかったりすることで、周囲に迷惑をかけることもある。

で、「また怠けていると思われたに違いない」などと、自分で自分を責めることになる。

これって、悪循環なのだけれど、じゃあ、どうしたらいいのよ! って、思うよね。

そう思うのもわかる。だって、見た目は元気だし、自分はなんとかしたいと真剣に思ってる。

でも、動けないんだもの。無理して動く人もいるだろうけど、疲れが倍増しちゃったり、ね。

そうやって悪循環にはまっているときに、何が起こっているか。

実は「どうしたらいいんだよ!」って、自分自身にくってかかっているのだ。

見た目はどうであれ、あなたは「病気」。

たとえば風邪を引いたら、咳や鼻水などが出るから周囲にもわかってもらいやすい。

周囲だって風邪を移されたら困るから休めよ、って言ってもらえるし、そういう意味で

「大義名分」が立って、あなたも後ろめたさをたくさん感じずに済む。

でも、鬱という病は、原因がどうであれ、その過程における「症状」として、自分を責めやすい。

あるいは周囲からひどく責められていると、思いやすい(本当はそうでなかったりもするのに、ね)。

そう、つまりその悪循環にはまること自体が、あなたが病気だから、現れている「症状」なのだ。

冷静に、他人事のように、考えてみてほしい。

何かことあるごとに、ずっと自分を責め続けることで、その症状は治まるだろうか。

そうやって自分を叱り続け、動き続けたら、あなたの病は治るだろうか。

もしかして、そうやっているうちに何かとても素晴らしい出来事が起こって、それによってあなた自身の

環境などが変化して、結果的に悪化せずに済む、という可能性が、絶対ないとは言い切れない。

でも、それは周囲からきた「プレゼント」のようなもので、必ず起こるわけではない。

それを望んだって、魔法使いのおばあさんが現れる前の、夢見るシンデレラと同じような状態であることは

わかるだろう。もちろん、おばあさんが現れるとは限らないことも。

であればまずは、自力でなんとかしていくしかない。

その際に、自分で自分を責め続けることが、あなたの病の治療になるのかどうか。

「ああ、今日もダメだった」「ああ、こんなことをしてしまった」「ああ、あんなふうに受けとめられちゃうなんて」

って繰り返すことが、叱咤激励になる? あなたを奮い立たせる?

ならないよね。だってそれ、その病になったからこその気持ち、だもの。

風邪を引いてるときに、さらに水をかぶって精神統一を図ろうとするようなものだ。

それで治ったらすばらしい精神力だと思うけど、普通は悪化して、次は発熱するだろう。

何かが原因で、自分に心の傷ができました、という状態のなか、自分を叱咤激励することで

あえて奮い立たせようとすることは、その傷をさらにグシグシ、いろんなもので刺しているのと同じなのである。

だからまずは、責めること自体を、やめること。

先日も書いたように、悲しいな、っていうふうにマイナスの「感情」が出たら、それを静かに味わっていいけど、

頭の中の「思考」で、自分の悪い点を考え続けるのだけは、やめるしかない。

今はそういう病気でそういう症状なんだから仕方ない、って、割り切らなくちゃいけないのだ。

世間体、評価、責任、という言葉によって、自分を縛り付け、なんとかしようとしても、

いつかどこかで、私のように「ドカン」と大きな波がやってきて、動けなくなる。

動けなくなるまで病にも症状にも気づかなかったバカは私だが(まさに今だからこそ、言える表現!)、

そうなったら、すでに相当悪化している状態なので、戻るの大変だよ~。

死ぬかどうかってところまで行くのは不思議じゃない。過程として、当然そうなるのだ。

もし、そこまでひどくなる前に気づけたのであれば、あなたはまだ幸いでした、ってことである。

とにかく、考えるのはやめる。

自分を低く捉える、その、頭の中の「言葉の羅列」そのものを、ストップさせるのだ。

そうやって責めるのも、実際にうまくいかないのも、全部、症状。

症状が出てる自分を、また症状によって責めてるんだ! って自覚してほしい。

そんなことするより、好きなことしようよ。気分転換しまくっていいよ。

心地よいことして、責めること自体を、忘れようよ。

上手くできないんだから、恥も感じるし、評価が低くなるのも仕方ない。ホント、仕方ないの。

だって病気だもの。悪化させるわけにはいかないもの。

少しでも楽しめて、「ああよかった」「面白かった」「うれしかった」って思うほうが、

よっぽどよっぽど、あなたの病気のためになる。

そんな状態なのに今日はここまでできた! って、密かに自分で自分をほめるくらいでいいんだよ。

これが実際、とても難しい話であることは、私も承知している。

たぶん、本当に悪化しまくって、本当に死にたくなったときの「動けなさ」具合を知ったら、

やっと気づけるかもしれない。で、その後は、徐々にこうしたやり方も、できるようになるかしれない。

でも、そこまで悪化させたら、ホント、キツイのだ。

というより、できればそこまでいってほしくはない。その前の段階で、気づいてほしいし、自覚してほしい。

自分で自分を痛め続けて、死にたくなるほどの痛みを与えることほど、つらいことはない。

それを経験するくらいなら、周囲の評価がどうなったって自分を甘やかす(と捉えるでしょうけど)ほうが

よっぽどよっぽど、早く治せるのだ。

自分で自分を痛めつけている自覚さえなかったりするから、この病気は怖いんだけどね。

何度でもお願いする。その病にかかっている間は、どうか、割り切ってほしい。

少しでも、ほんの短い時間でも。心からお願いします……。

命、そして生きていくということ

私たちは普段、自分の「命」を意識して暮らしてはいなかった。

鬱になって初めて、身近に「死」という選択肢が現れ、

生きていくのに必要なこと、たとえば食べること、眠ること、お金を稼ぐということなどが

「問題」として現れてくる。

それまでは何の気もなしに、ある意味「当たり前の習慣」としてこなしていたことが

できなくなって初めて、それらを「行っていたんだ」ということを知るのである。

何も気づかずにいた自分が「迂闊」だったわけではない。

世の中の大半の人は、今回の震災のような大きな悲劇が起こらない限り、

「日常生活を普通に営むこと」がある意味、幸せな状況であることに気づいていないのだ。

家族がいること、友達がいること、住む家があって暮らしていける街があること。

働ける場所があって、そこで自分が労働できること。

おなかが空いたらご飯を食べ、テレビや音楽や本、映画などの娯楽を楽しみ、

そうしているうちに「ああ、今日も1日が終わったな」と、お風呂に入って眠りにつけること。

健康であれば、別に思い悩むこともなく、日々を過ごしていけるだろう。

が、ほんの数ヵ月前に、それらは決して「当たり前」ではないことを、私たちは知った。

もっと前には阪神淡路大震災があり、そのときにも「非日常」が目の前に現れて、

私たちは普段の生活のありがたさを知ったはずだったが、

今回、また「喉もと過ぎれば」といった感じで、みんな忘れていたのだ。

しかも今回の震災はまだ余震が続き、悲しいことに放射能物質による汚染も

まだまだ続いている。普通に暮らしていても命が脅かされているような状況なのだ。

鬱になって、働けないこと、何もかも失ってしまったように感じること(実際、物理的に

何かを失った人も多いだろう。被災地の人もそうだし、被災地以外の人でも、

働けなくなったりすることで失うものはあるはずだ)、そこで気づくのは遅いのだろうか。

いや、そうではない。

確かに、何らかのものを、あなたは失っただろう。

そのなかには、取り返しのつかないものも含まれていることだろう。

それでもなお、あなたはまだ「生きて」いる。

他の人の命は救うことができなかったかもしれないけれど、

あなたは、人生の一番の大元である自分の「命」まではまだ、失ってはいないのだ。

やる気という「原動力」は、この病にかかった場合、すぐには取り戻せないかもしれない。

気づかなかった以前のころと同じように生きていくことも、難しいかもしれない。

それでも、あなたは「新しくやっていける」のだ。

そのために今、命を持っている……のかもしれない。

「死ぬ気になれば何でもできる」なんて大上段な話ではない。

その痛みの経験を、別のところで「活かせる」、その可能性がある、と言いたいのだ。

どんなにひどい目に遭っても。

どんなにつらい気持ちを経験しても。

それらはすべて、のちのあなたの「力」に変えることができる。

「経験」とは、そういう力を秘めているのである。

だから今、命を持っている人は、その命をあきらめないでほしい。

今すぐには大きく変われなくて、苦しいかもしれない。

思い出ばかりがよみがえって、後悔の念が湧いて、悲しみが大きいかもしれない。

毎日、生きていくのがつらい、と思えてしまうかもしれない。

でも、それを乗り越えた先に、必ず「得る」ものはある。

自分の生き方や考え方の変化、人への思いやり、人の心の痛みへの気遣い、

弱いままでも強く生きられること、弱いからこそ、持てる強みもあること。

そうしたことは、「つらい経験を経たから」得られる場合があるのだ。

そんなやり方を選びたくはなかっただろうが、今、すでにそうした状況になっているのであれば、

そこから受けとめていけるものもある、ということを、知ってほしいのだ。

失ったからこそ、得ていくものがある。

あなたの周囲の人も、むやみにあなたに死を選んでほしくはないはずだ。

そして「失った」と思っているものの大半は、新たな形でまた、得ていくことができるのだ。

しかもそのときには、「大切なもの」として、受け容れることができる。

命を保ち続ける道、新たに生きていく道、は、あなた自身がそれを見ることをやめない限り、

私たち一人ひとりに必ず、用意されているのである。

そして、その道もひとつではない。どの道を選んでいくか、あなたが決めていけばいいのだ。

今、苦しい人はたくさんいるだろうと思うけれど、

そのひどい経験は、決して、あなたを傷つけるだけではないことを、

どうか、知ってほしい。

「死」というものへの恐怖心

死にたい、というより、死ぬしかない、と思っていたとき。

私の場合は、だけれど、積極的に「死」を希望したわけではなく、

どうしようもないからゆえの、最後の「社会に迷惑にならない方法」だった。

だから、死ぬのは怖かった。

いろいろな自死の方法を、とりあえず、探してみようとは思ったけど、

ありとあらゆる方法を調べる気にはならなかった。

だって、本当は、できれば死にたくなかったもの、自分から。

「やりたいこと」ではないことを、一生懸命考えるのもつらかったし、

そういう気力も、鬱という病のせいでなかった。

ただ、私のときには「集団練炭自殺」が流行り始めたころだったので、

どこかで、そういう募集をしているのだろうと思い、まずはそういうサイトを探してみた。

そして、意外にあっさり、募集専門ではないけれど、自死願望のある人達のサイトへ

辿り着いた(今はもう、そういう募集などを行うサイトではなくなっている)。

サイトにはいろいろな人がいた。

練炭自殺の募集に申し込んだものの、当日にやっぱり集合場所へ行けなくなった人。

一緒に申し込んだ人達はどうやら集まって亡くなってしまったらしく、

行けなかった自分を意気地なしだと言って責めていた。

あるいは、なんらかの方法で死のうとしたけれど、失敗してしまった人。

この人も、ちゃんと実行できなかった自分を責めていた。

そうでなくてもつらいのに、実行する際に弱気になった自分を、

さらに責めることになるなんて……と、胸が痛かった。

また、死を止めるために、「失敗したらどうなるか」を説明している人もいた。

植物人間化、マヒ、その他の機能障害、身体上の奇形……。

止めたい気持ちはわかるけれど、それを細々と説明するのってどうなんだろう、と思った。

でも確かに「怖い」結果になることは私にも伝わり、「自死」という行為にさらなる恐怖心は湧いた。

そう、失敗したら、さらに迷惑をかけることになる。

死んだ後の身体の処理、も気になる。

最初に私の死体を見た人は、トラウマになるかもしれないし……。

そう考えると、水死や飛び込み、飛び降り、なんて選択はできなくなり、

首つりもだめだな……とか、どんどん、選択肢は減っていく。

でも、生きていたら迷惑になる、どうしよう……。

グルグル、そういうことばかり、考えていた。

やがて、練炭自体の販売規制も始まり、「練炭を持っている人はいますか?」なんていう

質問も出るようになった。そうやって、あのサイトに来る人はみんな、さまよっていたように思う。

少しでも苦しまず、ラクに死にたい。確実に死にたい、死後の迷惑も最小限にとどめたい。

そう思ってはいたけれど、実際には、そんな方法は、ない。

死後の身体が物理的に、「形」として残る以上、迷惑がかからないはずはないのだ。

白骨化しようとも、それが見つかれば警察の世話になる。

完全に行方不明になって、何年も社会から姿を消して、という方法も考えたが、

その間、家族や友人はずっと、彼らが死を迎えるときまで、暗い気持ちを抱えることになる。

だから、事故死や病死を望んだりもした。

本当に偶然なら、どうしようもないから。

その事故に遭う相手の気持ちを考えたら、申し訳ない、と思ったけど、

意図的でなく偶然なら……とは思えた。

たぶん、社会にも、家族や友人にも迷惑をかけず、

誰かが悲しんだとしても「納得」できる死に方って、そういう偶然か、寿命、しかないのだ。

意図的に死のうとするのは、どんな方法であれ、誰かを悲しませ、迷惑をかける。

そして私はこれ以上、社会のお荷物に……死んでからも社会に迷惑をかけるのは、避けたかった。

今にして思えば、私は、本当は、死にたかったのではない。

苦しかったのだ、とにかく。

ただ、そこから、その状況から、抜け出したかった。

でも、自力で回復して脱出できるなんてことは想像もできなくて、

もう、生きてご飯を食べなくていい存在になる意外、どうしようもなかったのだ。

私は友人の事故死と知人の自死で思いとどまらされたけれど、

それがなかったら、ずっと、願望を持ってはいただろう。

うっすらとでも、生きていても仕方ない、と思っていただろう。

それとはまったく別に、単純に「死ぬ」という行為を選ぶことは、ずっと怖かったのだと思う。

ここから抜け出したい、つらい、と思ったからこそ、自死を望みはしたけれど、

「死」というもの自体に対する恐怖心は、ずっと、抱えていた。

それを「見ないように」していただけだった。

何もなくなる、無の状態になる、というけれど、

臨死体験をした人は「どこかへ行った」と言っているケースも多い。

本当に、意識も全部含め、“ちゃんと”消えてなくなるのだろうか?

意識だけ残って、自分の身体を上から眺める、なんてことにはならないだろうか?

また、死んでいく間に、「やっぱり死にたくない」と、途中で思わないだろうか?

時間が止まったようになる、という話もある。

5秒が10分にも20分にも、それ以上にも感じられるという。

そうなると、死ぬまでの「長い」時間の間、ずっと「死にたくない」「助けて」「助けて」って

思い続けることになるのだろうか?

……それはまた、つらいだろうな、苦しいだろうな。

そんなふうに思っていたのだ。

経験したことがないからこそ、怖かった。

そして身内や昔の友達の「死」は悲しいものである、とも、わかっていた。

これ以上迷惑をかけられない、というところは、最終的に嘘になるんだよな、と、

頭のなかのどこかでは、わかっていたのだ。

「死」が怖いものであることは、私が「頭脳を持った生きもの」である以上、

取り払えないのだと思う。克服、なんてできない。

死に至る病にかかったとしても、何度も自問して、無理矢理に自分を「納得させていく」作業が必要になる。

事故のように「突然訪れる、避けようのない死」と、本当の老衰による死以外、

ある意味、自分がラクに死ねる方法は、きっとないのだろうと思う。

それは、「生きもの」として、持って生まれた性質なのだ、きっと。

だから「死」が怖いのは、当たり前だったのだ。

そして。

その苦しみから逃れるには、別に「死」という手段を使う必要もないことが、あとになってわかった。

鬱という病は変化していく。場合によっては確かに悪化もありえあるが、

少なくとも丁寧に原因を探して、時間をかければ、治る方向へ進むことのほうが多い。

さまざまな治療方法や、自分を見つめていく作業によって、

新しい自分を見つけることは、可能だったのだ。

「元に戻る」のではなく、「変わっていって新しく」生きていける。

だから結果としては、「死」は怖い、という感覚は持っていても別に構わないのだし、

ガンなど死に至る病に実際、なったときに、それを「受容する」努力を行えばいいのだ、ということも学んだ。

そう、自分で死を選ばなくても、そこからは、その苦しい状況からは、脱出できるのだ。

「死」は怖いと思ってもいいし、人は、生きていても、いいのだ。

それがわかっただけでも、今の私には、ありがたいと思える。