「死」というものへの恐怖心

死にたい、というより、死ぬしかない、と思っていたとき。

私の場合は、だけれど、積極的に「死」を希望したわけではなく、

どうしようもないからゆえの、最後の「社会に迷惑にならない方法」だった。

だから、死ぬのは怖かった。

いろいろな自死の方法を、とりあえず、探してみようとは思ったけど、

ありとあらゆる方法を調べる気にはならなかった。

だって、本当は、できれば死にたくなかったもの、自分から。

「やりたいこと」ではないことを、一生懸命考えるのもつらかったし、

そういう気力も、鬱という病のせいでなかった。

ただ、私のときには「集団練炭自殺」が流行り始めたころだったので、

どこかで、そういう募集をしているのだろうと思い、まずはそういうサイトを探してみた。

そして、意外にあっさり、募集専門ではないけれど、自死願望のある人達のサイトへ

辿り着いた(今はもう、そういう募集などを行うサイトではなくなっている)。

サイトにはいろいろな人がいた。

練炭自殺の募集に申し込んだものの、当日にやっぱり集合場所へ行けなくなった人。

一緒に申し込んだ人達はどうやら集まって亡くなってしまったらしく、

行けなかった自分を意気地なしだと言って責めていた。

あるいは、なんらかの方法で死のうとしたけれど、失敗してしまった人。

この人も、ちゃんと実行できなかった自分を責めていた。

そうでなくてもつらいのに、実行する際に弱気になった自分を、

さらに責めることになるなんて……と、胸が痛かった。

また、死を止めるために、「失敗したらどうなるか」を説明している人もいた。

植物人間化、マヒ、その他の機能障害、身体上の奇形……。

止めたい気持ちはわかるけれど、それを細々と説明するのってどうなんだろう、と思った。

でも確かに「怖い」結果になることは私にも伝わり、「自死」という行為にさらなる恐怖心は湧いた。

そう、失敗したら、さらに迷惑をかけることになる。

死んだ後の身体の処理、も気になる。

最初に私の死体を見た人は、トラウマになるかもしれないし……。

そう考えると、水死や飛び込み、飛び降り、なんて選択はできなくなり、

首つりもだめだな……とか、どんどん、選択肢は減っていく。

でも、生きていたら迷惑になる、どうしよう……。

グルグル、そういうことばかり、考えていた。

やがて、練炭自体の販売規制も始まり、「練炭を持っている人はいますか?」なんていう

質問も出るようになった。そうやって、あのサイトに来る人はみんな、さまよっていたように思う。

少しでも苦しまず、ラクに死にたい。確実に死にたい、死後の迷惑も最小限にとどめたい。

そう思ってはいたけれど、実際には、そんな方法は、ない。

死後の身体が物理的に、「形」として残る以上、迷惑がかからないはずはないのだ。

白骨化しようとも、それが見つかれば警察の世話になる。

完全に行方不明になって、何年も社会から姿を消して、という方法も考えたが、

その間、家族や友人はずっと、彼らが死を迎えるときまで、暗い気持ちを抱えることになる。

だから、事故死や病死を望んだりもした。

本当に偶然なら、どうしようもないから。

その事故に遭う相手の気持ちを考えたら、申し訳ない、と思ったけど、

意図的でなく偶然なら……とは思えた。

たぶん、社会にも、家族や友人にも迷惑をかけず、

誰かが悲しんだとしても「納得」できる死に方って、そういう偶然か、寿命、しかないのだ。

意図的に死のうとするのは、どんな方法であれ、誰かを悲しませ、迷惑をかける。

そして私はこれ以上、社会のお荷物に……死んでからも社会に迷惑をかけるのは、避けたかった。

今にして思えば、私は、本当は、死にたかったのではない。

苦しかったのだ、とにかく。

ただ、そこから、その状況から、抜け出したかった。

でも、自力で回復して脱出できるなんてことは想像もできなくて、

もう、生きてご飯を食べなくていい存在になる意外、どうしようもなかったのだ。

私は友人の事故死と知人の自死で思いとどまらされたけれど、

それがなかったら、ずっと、願望を持ってはいただろう。

うっすらとでも、生きていても仕方ない、と思っていただろう。

それとはまったく別に、単純に「死ぬ」という行為を選ぶことは、ずっと怖かったのだと思う。

ここから抜け出したい、つらい、と思ったからこそ、自死を望みはしたけれど、

「死」というもの自体に対する恐怖心は、ずっと、抱えていた。

それを「見ないように」していただけだった。

何もなくなる、無の状態になる、というけれど、

臨死体験をした人は「どこかへ行った」と言っているケースも多い。

本当に、意識も全部含め、“ちゃんと”消えてなくなるのだろうか?

意識だけ残って、自分の身体を上から眺める、なんてことにはならないだろうか?

また、死んでいく間に、「やっぱり死にたくない」と、途中で思わないだろうか?

時間が止まったようになる、という話もある。

5秒が10分にも20分にも、それ以上にも感じられるという。

そうなると、死ぬまでの「長い」時間の間、ずっと「死にたくない」「助けて」「助けて」って

思い続けることになるのだろうか?

……それはまた、つらいだろうな、苦しいだろうな。

そんなふうに思っていたのだ。

経験したことがないからこそ、怖かった。

そして身内や昔の友達の「死」は悲しいものである、とも、わかっていた。

これ以上迷惑をかけられない、というところは、最終的に嘘になるんだよな、と、

頭のなかのどこかでは、わかっていたのだ。

「死」が怖いものであることは、私が「頭脳を持った生きもの」である以上、

取り払えないのだと思う。克服、なんてできない。

死に至る病にかかったとしても、何度も自問して、無理矢理に自分を「納得させていく」作業が必要になる。

事故のように「突然訪れる、避けようのない死」と、本当の老衰による死以外、

ある意味、自分がラクに死ねる方法は、きっとないのだろうと思う。

それは、「生きもの」として、持って生まれた性質なのだ、きっと。

だから「死」が怖いのは、当たり前だったのだ。

そして。

その苦しみから逃れるには、別に「死」という手段を使う必要もないことが、あとになってわかった。

鬱という病は変化していく。場合によっては確かに悪化もありえあるが、

少なくとも丁寧に原因を探して、時間をかければ、治る方向へ進むことのほうが多い。

さまざまな治療方法や、自分を見つめていく作業によって、

新しい自分を見つけることは、可能だったのだ。

「元に戻る」のではなく、「変わっていって新しく」生きていける。

だから結果としては、「死」は怖い、という感覚は持っていても別に構わないのだし、

ガンなど死に至る病に実際、なったときに、それを「受容する」努力を行えばいいのだ、ということも学んだ。

そう、自分で死を選ばなくても、そこからは、その苦しい状況からは、脱出できるのだ。

「死」は怖いと思ってもいいし、人は、生きていても、いいのだ。

それがわかっただけでも、今の私には、ありがたいと思える。

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