カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

最後まできちんとやりなさい!

タイトルのようなことを、子ども時代、母親から言われなかっただろうか。

単純に聞くと、別に問題のない、当たり前のセリフのような気がする。

が、たまたま、その子どもが本当は飽き性、

つまり最後まできちんとするのは苦手な性格の持ち主で、

親は逆に、それがかなり得意だった場合。

親にとっては「当たり前のこと」だけれど、

子どもには、それを習慣化するのはかなりつらい。

そしてやがて、子どもは自分で勝手に曲解していく可能性もある。

この、「自分で勝手に」のところが、とてもやっかいなのだ。

たとえば「最後まできちんとしないと、人として正しくなくて、

私という間違ってる人間は、親から(=つまりは、世間から)は

認めてもらえないんだ……」

というふうに、強く思い込んでしまったりする。

もともと、あまり向いてない人間がやろうとするのだから、

当然、息抜きの仕方や、適当なところでの切り上げ方なんて、理解できない。

うまくバランスを取ったり、コントロールしたりできないまま、

正しくあろうとするために、ただ猛然と、ひたすらに最後までがんばってしまう。

これは私の場合の話だけれど、どうも、こうした一面はあったようなのだ。

しかも、「負けず嫌い」だったから

目標! 的な気持ちで、ガンガン、突き進んでいってた。

……この、性格面での傾向的な話を知ったときは、

親のせいにするのか、とか、性格だから仕方ない、と逃げるのか、

なんて、自問自答もした。

でも今はある種の相性的なところで、たまたまそういう親だったから、

たまたまそれが『正しい』と言われ続けたから、

本当はきちんとするのが苦手だった私も、これまた、たまたま

そういう思い込みを自分でかけていったんだろうなあ、と思っている。

だってそれでほめてもらったり、認めてもらったりするのは、単純にうれしいからさ。

で、そういう確率的な結果として「ヘンにがんばりすぎる人」が出来上がってしまった、と。

だから蛇足的にお願いすると(笑)、今、お母さんやお父さんの立場である皆さん、

どうか「正しくない!」「アナタは間違ってる!」「こうあるべき!」的なしつけ方は、

犯罪とか、人の心を傷つける部分に、とどめてあげてください(^^;)

その家族内のルールに従えない場合(たとえば片付けないとか、行動が遅いとかさ)

子どもが「正しくない」わけではなく(片付けられない親は普通にいるし、

ホコリが平気な人やのんびりしている人も、たくさんいるでしょう)、

たまたま「アナタがイヤ」なのだろうと思う……。本当はね。

「お母さん(=私)が悲しいから(またはイヤだから)、やめてくれないかな」

という方向なら、たぶん、曲解は発生せず、また違った展開になるのでは……と思う。

どうか、お願いしますねm(_ _)m

さて。この「正しくない!」のように、一般社会的なルールに置き換えられちゃった

思い込みの部分については、まだもう少し、書いてみたいと思う。

「がんばる」のが私、という呪い

私は、仕事で任されたことは、きちんと確実に仕上げたい人である。

そしてできれば、よりよいものに仕上げたい。

さらに欲を言えば、その仕事のできばえに、自分で満足したい。

これって普通に考えれば、前向きでチャレンジャーな「いいこと」だ。

でも、この傾向に歯止めがかからなくなると、あっという間に「働き過ぎ」になるのである。

クライアントから「平均点以上の仕事ができる人」と評価されるのは気持ちよかったし、

何より単純に、自分がやる以上は、自己評価80点くらいの満足は得られるものをつくりたかった。

これは、「負けず嫌い」とか「自己実現欲が高い」、「プライドが高い」って話でも

あるのかもしれない。

子どものときも、勉強や運動では負けず嫌いだったもの。

で、そこそこ以上の成績を上げて、鼻高々で(笑)

いわゆる「お勉強ができて正義感の強い優等生タイプ」かつ「気の強い」人間ではあったと思う。

そういう私が働きすぎて、壊れたときにどうなったか。

仕事に能がなくなった自分を、直視できない……認められなかったのである。

生きるしか道がなくなってから、この辺の性格についてもいろいろ探ってみた。

専門家ではないから、正確なことは言えないのだけれど、

たぶんね、一種の「思い込み」を、ガッチリ持っていたいたんだと思う。

いわゆる天才肌ではない、努力型の人間ではあったので、

「がんばるのが私」

「がんばって、周囲に認めてもらうような生き方が私らしさ」

「そしてそれは、私の誇りでもある」

ってね。

逆に言えば「がんばるところにこそ、私の価値がある」くらいにまで、思い込んでたのだ。

それってもはや、「呪い」の類に近い。

だってがんばれなくなったら、あっと言う間に自分の価値はないんだよ?

そりゃあ、働けなくなれば、一気にプライドも自信もガタガタですよ……。

この呪いというか、思い込みを解くには、結構、時間がかかった。

いまだ完全には解けていないかもしれないけれど、それでもずいぶん、

偏った自己像、自己評価からは抜け出しつつあるような気がする。

これを解くためには、もともとの性格や、生まれ育った環境にまで遡らなくちゃいけなかった。

そういう話を、次から書いていこうと思う。

死を選ぶ、という発想

「自殺」という言葉は、このブログではあまり使わないようにしようと思う。

殺す、という言葉は、自分がほかの誰かを死に至らしめるような、

自分のことなのに、なんだか他人ごと、ちょっと離れているようなイメージがある。

そして「殺人」はもう、あきらかに「悪いこと」だものね。

だから、死を考えていた私には、「自死」という言葉のほうが、

ちょっとだけ身近に感じられた。

うん、そう、死のほうを「選択」するだけだよ、って。

でも、死ぬのは怖かったなあ……。

生きてる意味がない、という自己否定の気持ちで、

「社会にとって要らない自分」を消すわけだから、

積極的に、前向きな気持ちで(そんなのあるのか?)、

死にたいわけじゃなかったんだよね。

そんな理由で死のうと思ったら、

「死」というものが単純に怖いのは、当たり前の話。

しかもこれ、生きることを選択するようになった今の私からみれば、

かなりヘンな発想だとわかる。

ホントに死ぬほど悩んでるなら、

今はもう、自分のことで精一杯なんだから、

社会にとって、とか、家族にとって、とか、

そういうことを考える必要はないはずなのだ。

そうした自分の「役割」から責任を負っていると考えるのであれば、

いきなり消えるのは、逆に迷惑。

実際に責任の重い人、たとえば一国を背負う王様のような人であっても、

自分の役割をそこまで意識するのであれば、

まずは先に王である立場を降り、誰かにきちんと譲るべきなのだ。

なのに、ただの人である私が、

「家族」、さらには「社会」にまで、責任を感じて、死のうとしてる。

それならそれで、うん、すべて引き継げよ、ちゃんと。

そこまで責任を感じてるなら、いきなり死ぬな、

全部整えてから身を引け、って話になる。

いったいどこまで、どんなふうに、

私は勘違いした責任感を背負ってるんだ。

何をそこまで自負して、それなのに中途半端に消えようとするのだ?

……まあ、本当に死にたいと思ってた当時は、

そんなこと、まったく思いつきもしなかったんだけどね。

今の私は、自分がそういう思考回路に陥ってしまった理由を、

「責任感の強さ」

という自分の性格と、鬱病による

「脳の誤作動」

のせいであった、と、思っている。

しばらくは、この「責任感」と「誤作動」について、

もうちょっと詳しく書いていこうと思う。

自分の育った環境、持って生まれた性格、

仕事に対する感覚、「脳」というものの仕組み、etc…。

それこそ、いろいろなものが混さってたと思えるからさ。