「がんばる」のが私、という呪い

私は、仕事で任されたことは、きちんと確実に仕上げたい人である。

そしてできれば、よりよいものに仕上げたい。

さらに欲を言えば、その仕事のできばえに、自分で満足したい。

これって普通に考えれば、前向きでチャレンジャーな「いいこと」だ。

でも、この傾向に歯止めがかからなくなると、あっという間に「働き過ぎ」になるのである。

クライアントから「平均点以上の仕事ができる人」と評価されるのは気持ちよかったし、

何より単純に、自分がやる以上は、自己評価80点くらいの満足は得られるものをつくりたかった。

これは、「負けず嫌い」とか「自己実現欲が高い」、「プライドが高い」って話でも

あるのかもしれない。

子どものときも、勉強や運動では負けず嫌いだったもの。

で、そこそこ以上の成績を上げて、鼻高々で(笑)

いわゆる「お勉強ができて正義感の強い優等生タイプ」かつ「気の強い」人間ではあったと思う。

そういう私が働きすぎて、壊れたときにどうなったか。

仕事に能がなくなった自分を、直視できない……認められなかったのである。

生きるしか道がなくなってから、この辺の性格についてもいろいろ探ってみた。

専門家ではないから、正確なことは言えないのだけれど、

たぶんね、一種の「思い込み」を、ガッチリ持っていたいたんだと思う。

いわゆる天才肌ではない、努力型の人間ではあったので、

「がんばるのが私」

「がんばって、周囲に認めてもらうような生き方が私らしさ」

「そしてそれは、私の誇りでもある」

ってね。

逆に言えば「がんばるところにこそ、私の価値がある」くらいにまで、思い込んでたのだ。

それってもはや、「呪い」の類に近い。

だってがんばれなくなったら、あっと言う間に自分の価値はないんだよ?

そりゃあ、働けなくなれば、一気にプライドも自信もガタガタですよ……。

この呪いというか、思い込みを解くには、結構、時間がかかった。

いまだ完全には解けていないかもしれないけれど、それでもずいぶん、

偏った自己像、自己評価からは抜け出しつつあるような気がする。

これを解くためには、もともとの性格や、生まれ育った環境にまで遡らなくちゃいけなかった。

そういう話を、次から書いていこうと思う。

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