死を選ぶ、という発想

「自殺」という言葉は、このブログではあまり使わないようにしようと思う。

殺す、という言葉は、自分がほかの誰かを死に至らしめるような、

自分のことなのに、なんだか他人ごと、ちょっと離れているようなイメージがある。

そして「殺人」はもう、あきらかに「悪いこと」だものね。

だから、死を考えていた私には、「自死」という言葉のほうが、

ちょっとだけ身近に感じられた。

うん、そう、死のほうを「選択」するだけだよ、って。

でも、死ぬのは怖かったなあ……。

生きてる意味がない、という自己否定の気持ちで、

「社会にとって要らない自分」を消すわけだから、

積極的に、前向きな気持ちで(そんなのあるのか?)、

死にたいわけじゃなかったんだよね。

そんな理由で死のうと思ったら、

「死」というものが単純に怖いのは、当たり前の話。

しかもこれ、生きることを選択するようになった今の私からみれば、

かなりヘンな発想だとわかる。

ホントに死ぬほど悩んでるなら、

今はもう、自分のことで精一杯なんだから、

社会にとって、とか、家族にとって、とか、

そういうことを考える必要はないはずなのだ。

そうした自分の「役割」から責任を負っていると考えるのであれば、

いきなり消えるのは、逆に迷惑。

実際に責任の重い人、たとえば一国を背負う王様のような人であっても、

自分の役割をそこまで意識するのであれば、

まずは先に王である立場を降り、誰かにきちんと譲るべきなのだ。

なのに、ただの人である私が、

「家族」、さらには「社会」にまで、責任を感じて、死のうとしてる。

それならそれで、うん、すべて引き継げよ、ちゃんと。

そこまで責任を感じてるなら、いきなり死ぬな、

全部整えてから身を引け、って話になる。

いったいどこまで、どんなふうに、

私は勘違いした責任感を背負ってるんだ。

何をそこまで自負して、それなのに中途半端に消えようとするのだ?

……まあ、本当に死にたいと思ってた当時は、

そんなこと、まったく思いつきもしなかったんだけどね。

今の私は、自分がそういう思考回路に陥ってしまった理由を、

「責任感の強さ」

という自分の性格と、鬱病による

「脳の誤作動」

のせいであった、と、思っている。

しばらくは、この「責任感」と「誤作動」について、

もうちょっと詳しく書いていこうと思う。

自分の育った環境、持って生まれた性格、

仕事に対する感覚、「脳」というものの仕組み、etc…。

それこそ、いろいろなものが混さってたと思えるからさ。

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