苦しかったときのこと(8)

仕事で、社内の人が大勢、彼と関わっていたため、

会社中が騒然となった。

泣き崩れる人がいて、言葉を失う人もいた。

私はもう、どうしていいか、わからなかった。

またもや、仲間を失ってしまったという悲しみ。

自死という選択が、どんな結果を生むか、

それを目の前で見せられていることに対する動揺。

何より、彼自身の口から、死という言葉を聞いていたのに、

もしかして、一番近い位置にいたかもしれないのに、

何も知らず、何もできなかった自分を責めた。

自分のことで精一杯で、彼のことを気にかけてなかった。

彼の苦しみを、一番わかってあげられたかもしれないのに、

私、自分のことしか、考えてなかった。

そんななかで、彼と仕事をよく組み、長年一緒にやってきた

女性の上司が、憔悴しきって言った。

「私、何もしてあげられなった。何も、できなかった」と。

彼女のことを、仮にAさんと呼ばせていただく。

Aさんは、私のことも、本当に親身になって助け、励ましてくれていた人だった。

そのときの私にとっては、Aさんの存在、彼女の気持ちが、ひとつの支えになっていた。

だからそれを聞いた瞬間、反射的に私はこう言い放った。

「でもAさん、私は生きてます。

私も同じ時期に鬱になって、同じようなことを考えました。

でも私は、Aさんのお蔭で、今、生きてるんですよ!」と。

そしてその直後、こう言った自分が、

「もう死ねない」ことに気づいた。

こんなにも苦しんでいるAさんを、これ以上傷つけたくない。

自死という行為がこんなにつらい気持ちを人に与えるなんて、知らなかった。

私でさえ、これほどのつらさ、悲しさ、重さをを感じてる……。

そう思ったら、もう、自死という選択肢は選べなかった。

あとに残ったのは「生きていてもいい理由を見つける」ことだけだった。

こうして、私は「生きる意味」のほうだけを模索し始めた。

なんとか生きてもいい、自分に対するその言い訳を、見つけたかったのだ。

この知人の死は、さらに尾を引く。

彼の死をきっかけとして、ある別の知人男性も、鬱になっていった。

彼もまた、仕事仲間であったが、2年後、自死を選んだのだ。

その人の場合は、ある意味、覚悟の上での選択だったと思う。

自死というものが、周囲に与える影響も自分でわかりつつ、

それでもなお、死を選んだのだから。

このときの悲しさと、自死の連鎖という事態は、私にとって決定的だった。

私の死をきっかけにして、こんな悲しい連鎖など、起こしたくない。絶対に。

最初に死を選んだ知人も、それよって誰かが死ぬことなど、

まったく考えていなかっただろう。

ましてや、親しい仕事仲間であった人が、

自責の念から鬱となり、やがて自死するなんて、思いもしなかったに違いない。

自死は、誰にどんな形で影響を及ぼすか、まったくわからないのだ。

そしてきっと、影響を受けるのは、自分にとって身近な存在の人。

よりによって自分の「味方である人」を苦しめることになる。

だったらもう、私は、自分からは絶対に死なない。死ねない。

この、鬱という心の苦しみは、生きていきながら、解決していくしかないのだ。

そう思った。

~この項 終わり~

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